第1話 ③
楓は、母親と共に『天廷会』の活動場所、天廷会館へと足を運んでいた。
――どうしてこうなった?
彼は、昨日の夜のことを思い出していた。
*
「見て、楓。このサプリメント、一日一粒でも健康にいいのよ」
昨晩、楓は食事を終えた後に、母親から謎のサプリメントを紹介された。
「……はあ、よくわかんないけど、どうしたの? それ」
「佐々木さんからね、いいサプリメントなんだって話を聞いたの。それで試しに買わせてもらったのよ」
「…………は?」
一瞬、楓の思考は止まった。
まるで、騙されて買ったかのような言い回しじゃないかと、耳を疑った。
「ちょ、ちょっと待って。……え? 佐々木さんといつ会ったの?」
「昨日だけど? あ、それと、私、体動かそうかなって思うの。体操教室に通ってね」
「……え……」
「楓は無理には勧めないけど……貴方も体を動かした方がいいわよ?」
「…………」
黙るしかなかった。
彼は、自分の母親が既に何度も『佐々木』とお茶をしていたことを知らなかった。
もう、彼女は『天廷会』に入ってしまったのだ。
「ま、待って、母さん。その……いくら? いくらかかったの?」
「入会費なら月一万円だけど?」
「一万!? ま、待てって! マジで言ってんの!?」
楓は体操教室の費用の相場を知らない。
それでも、母親が必要の無い金を払っているのではないかと疑わざるを得ない。
「いや、こんなもんよ? 他のところも」
「いや! そうじゃなくてさ! ……そのサプリメントは? いくらなの?」
「これ? これは千五百円くらいだけど……」
「な…………か、買わされたの?」
「いやいや、そんなわけないでしょ? 私が買うって言っただけ! もー、変な風に考えないでよ? 佐々木さんたち普通のいい人なんだから」
呆れ顔の母親だったが、楓は心中穏やかではいられなかった。
――サプリメントの値段ってこんなモンなのか?
――クソ、わかんねぇ……。
――でも、これが続く様なら間違いなく黒だぞ。
――……どうする……引き留めた方がいいか……?
「母さん、変なことにお金を使うのは止めようよ」
「そう? でも……健康の為だし……」
「いや、でもさ、入ってすぐに何かを買うことを勧めるのって明らかにおかしいよ。そりゃあ佐々木さんたちはいい人かもしれないけど、いい人が進めてくるものを毎回買っていたらキリがないだろ? こういうのは、早い段階で見切りをつけないとさ」
楓は口を動かしながら、無職の自分の言葉の説得力の無さを嘆いていた。
そして、母親にはやはり効果が見えない。
「大丈夫だって。今更急に『辞めます』なんて言えないでしょ? もし変な話になったら私の方から辞めるし、楓が心配しなくても大丈夫よ?」
「……母さん……」
母親はわかっていなかった。
それが既に術中だということに。
彼女はもう呑み込まれ始めていた。
恐らく、全てが手遅れになるまで彼女は『辞める』だなどとは言わないことだろう。
「……母さん、はっきり言うよ。俺は、母さんの知人を信用してないんだ。『天廷会』は新興宗教だろ? 怪しすぎるんだよ。俺は……母さんに間違った道を進んでほしくない」
楓に出来る、最大限の引き留めだった。
これ以上は何も言えない。
もしこれで引き留められないのなら、もう自分の母親は取り返しのつかないところまで行ってしまっていたのだと、これまで気付かなかった自分自身を責めるしかない。
「楓……」
母親の目は、楓の言葉に響かされた――ように感じられた。
「確かにまあ、宗教関連って怖いけど、体操教室はその派生でしかないし、私は大丈夫。本当に心配してくれてありがとうね。でも、ホントに大丈夫だから」
執拗に『大丈夫』を繰り返す彼女の言葉には、力が感じられなかった。
楓は気付いた。
『佐々木』という人物、あるいは既に何人もの他の人間が、母親と関わりを持ってしまっているのだと。
『今更』と先程彼女が言ったのは、同調圧力に呑まれてしまっているのだと。
もう、取り返しがつかなくなっていると――。
*
彼は昨晩の回想を終え、改めて気持ちを入れ替えた。
会館に来たのは、『天廷会』の体操教室が開かれているからだ。
共に来た母親は、楓が来ると決めたことに喜んでいるように見えた。
いや、喜んでいるのではない。
彼女は、ただ安心しているのだ。
一人より二人の方が安心するというだけなのだ。
彼女も『天廷会』に不安を抱いていることに違いはなかった。
室内に入ると、楓は天廷会館のタイムテーブルを目にした。
『九時~十二時:体操教室』
どうやら活動は時間帯によって決まっているらしく、また、それぞれの活動の参加は自由だった。
早速楓と楓の母親は体操教室を開いている第三ホールへと向かった。
――ただの体操教室なら市民会館でいいだろ……。『宗教活動します』って言っているようなもんじゃねぇか……。
楓は入ってすぐにもう不安を募らせていた。
「どうぞ! いらっしゃい!」
大きな声で案内するのは、楓の母親と年の変わらなさそうな女性だった。
どこにでもいるような地味な服に、無駄に化粧の濃い外見をしていた。
案内されるまま第三ホールに入ると、女性を中心にヨガのような体操をしている人々の姿が見受けられた。
「ほら、普通でしょ?」
「……」
楓は、母親の言葉が自分に言い聞かせているように聞こえた。
「黒倉さん!」
「あ、立花さん」
「あらあら、そちらが前にお話ししていた息子さんかしら? 頭がいいんでしょ? たくさん聞いちゃったわぁ」
立花と名乗る女性は、真っ白な歯をこれでもかと楓に見せつけてきた。
「……どうも」
「よろしくねぇ」
立花の他にも、楓の母親の周りに急に色々な人が集まってきた。
――何だこれ……囲い込む気満々じゃねぇか……。
誰一人心からの笑顔が見えない連中に、楓は警戒心を強める。
「さ、始めましょう、黒倉さん」
「はい」
言われるがまま楓も体操に参加することになった。
体を動かすのは久々だったので、楓はかなり体力を消耗してしまった。
「楓、一回休憩したら?」
母親にそう言われ、彼は一旦その場を離れることにした。
第三ホールを出て、廊下を何度か曲がった先に自販機とベンチがあるのを発見したので、彼はそこで休憩することにした。
「……ハァ……ハァ……」
息を切らしつつ、スポーツドリンクを一口飲む。
その時、廊下の向こうから人影が現れた。
「黒倉さん? 来ていたんですか?」
それは、虎崎真白だった。
「おたくは……真白か……」
「驚きました。もう入会していたんですね」
「……俺はまだだよ」
楓は目を伏せた。
「では、オバサマは入会してしまったということですか」
「……ああ」
真白の言っていた通りになった。
楓は、もう彼女の力を借りるべきなのではないかと考えていた。
「で、どうですか? 実際にここに来て。悪くないと思いました?」
「……まあ、思うだろうな。……初回なら」
楓は再び彼女の方を見る。
「でも、これがいつものやり方って奴なんだろう。きっと、みんな裏で口裏を合わせているわけでもない。いつもこうだから、そうしているだけ……。そういうことなんだろ?」
「何言っているかわかりませんけど?」
「まだ入会したばかりの母さんに、みんなで仲良くしようとしてくる。みんなで気を遣う。要は、同調圧力と罪悪感を与えたいんだ」
楓の話を真白はよく理解していなかった。
楓は、彼女以上にこの『天廷会』のシステムに気付いていた。
「暫くは体操教室だけに参加させていればいい。数ヶ月だって、何なら半年かけてもいい。そうしたら、ゆっくり宗教活動にも参加しないかと誘ってみるんだ。冗談みたく。ほんのノリのつもりみたいに。仲良くなっていればいるほど、同調圧力で断りづらくなる。『一回ならいいか』ってな。そして、入っちまえばあとは罪悪感が働く。『この人達は悪くはない』って思うんだ。実際悪くないのだから仕方がない。悪いのはもっと上で搾取する蓮中なんだ。だから……その仲良くなった人達を裏切れない……みんなそうなんだ。そして、嫌なことを考えるのを止めたくなり、みんなと同じことを自分も思考停止でするようになる。……今母さんと仲良くしてくる連中の様に」
楓の考えはおおよそ当たっていた。
『同町圧力』は、組織を大きくするのに大いに役立つものだ。
この『天廷会』も、それを利用して勢力を上げてきていた。
楓は持っていたスポーツドリンクの入ったペットボトルを強く握りしめる。
「あ、ごめんなさい、長くて聞いていませんでした」
「……独り言だよ」
真白は真顔のまま楓の隣に着席した。
「ところで、言われた通り計画を考えましたよ」
「え? マジで?」
「マジですよ、マジ」
「何だよその計画って」
真白はフッと笑う。
「いいですか、黒倉さん」
楓は息を飲んだ。
「貴方が教主様になればいいんです!」
沈黙。
「貴方が教主様になればいいんです!」
もう一度繰り返した。
しかし、沈黙は続く。
「貴方が――」
「いや、無理だろ」
楓は冷静に言い放った。
「な、何故ですか!? 完璧な私の計画を、無職ごときに否定されるなんて……!」
「……じゃあ聞くが、どうやって俺は教主になれるんだ? そこは考えてきたのか?」
「え?」
「いや、『え?』じゃなくて」
真白は立ち上がって怒りを露わにし始めた。
「ああもう! 何ですか難しいことばっか言って! 私がそんなに考えられるわけないでしょ!? 無職は気を遣うことも出来ないんですか!?」
「……わかった。取り敢えず座れ。落ち着け。俺が悪かったからさ」
真白が理不尽に怒るのは、彼女が追い込まれているからだと好意的に考えた楓は、彼女を落ち着かせて話を進める方向に舵を切った。
「……いい考えだと思ったのに……」
真白の様子は冗談を言っているようには見えなかった。
「……まあ、取り敢えず落ち着け。何で俺が教主になればいいと考えたんだ?」
「それは……だって……一番偉くなれば、『天廷会』を変えられるかなって思って……」
「成程、一理あるな」
「ですよね!?」
餌を与えられた犬の様に真白の表情は輝いた。
情緒の不安定な相手には、取り敢えず同調するのが楓のやり方だった。
「ただ、実現は難しそうだ。だって、俺は無関係の人間なんだから。俺よりお前の方が教主様になれるんじゃないか? だって、開祖の孫なんだろ?」
「それは……無理です……」
「何で?」
「私は、まだ学生ですから。大学に行きながら教主をやるっていうのは……。それに、家族の問題も……」
「……まあ、ごもっともだな」
――学生だったのか。
――まあ、社会人っぽくはないなと思ったけど。
「でも、他にはいないのか?」
「……いたら、貴方みたいな無職を頼るわけないじゃないですか」
真白は楓を睨んだ。
もっとも、楓は睨まれるようなことはしていないのだが。
これは、真白の人間不信から来るものだ。
「……よし、わかった」
「え?」
今度は楓が立ち上がった。
「やろう。まあ、実現は厳しいかもしれないが、やれるところまで……な」
「え? え? マジでいいんですか?」
「自分から提案しといて何言ってんだよ」
「でも……」
楓も彼女の人間不信には薄々勘付いていた。
それに同情したのも間違いない。
だが、一番の理由は――。
「俺は、母さんを救いたい。俺には母さんしかいないんだ。その為なら、今までだって何でもしてきた。だから……お前に協力する。俺は……目指してやるよ。教主様ってのを」
楓は真白に微笑んで見せた。
今度は投げ出すつもりは微塵もない。
彼は、本気で『天廷会』を変えるつもりでいた。
少なくとも、母親に何の負担も負わせないようにする為に。
自販機の横にある窓から、二人に日差しが差し込んできた。
まるで、これからの二人の未来に光が差したかのように――。
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