第八場 薄明
「さっ、出てきていいよ」
ミコトはその洞穴の奥に向かって呼びかける。
ややあって―――一人の痩せこけた少女がおずおずと姿を現した。
その顔にはどんな感情も浮かんでいなかった。
ただ、はじめて陽光を目にしたもぐらのように呆然としていた。
「……正気なの」
そうつぶやくのがやっと、という様子でウラは声をしぼり出した。
ミコトははっきりとうなずく。
「うん。ねえ、もう一度この世界をその足で歩きまわってみてよ」
ミコトは雲貫山から見える絶景に、腕を広げた。
「悲しいことやおかしなこともいっぱいある。でも、新しい生命も生まれてくる。
そんな世界を自分の目で見て回ってみて。
それでもし、やっぱり世界を滅ぼそうと思ったら、その時は―――」
ミコトはそこで言葉を切った。
固く約束する、というように強くうなずく。
「その時はわたしが全力で止めにいくから!」
少女はミコトの言葉が耳に入っているのかどうかも分からない様子で、放心していた。
ややあって、弱々しくかぶりをふる。
「……意味がわかんない」
そして、一度もミコトの方を振り向くことなく、つかつかと歩き、崖の下にその姿を消してしまった。
「また、絶対、どんな形でも、どっかで会おうねー!」
それでも、ミコトは満足げにうなずき、その背に呼びかけた。
「ミコト。おぬし、気はたしかか?」
岩戸の奥から再び声がした。
始原の鬼と先代の薄明の巫女。双方から正気を疑われると、自分でも自信がなくなってくる。
それでも、ミコトはサクヤの霊体にうなずきかけ、微笑んだ。
「これでいいんだと思う」
ミコトは自信の考えを確かめるように、ゆっくりと言葉をつむぐ。
「ウラの抱いてた疑問、あれってマチガイじゃないと思う。
この世界にはおかしなことたくさんあるし、一度滅ぼした方がいいんじゃないかって思うのも無理ないんじゃないかな」
「なっ、おぬし……」
薄明の巫女への裏切りともとれるその言葉に、サクヤは絶句した。
気にもとめず、ミコトはさらに言葉を続ける。
「だから、無理矢理閉じこめて、それを押さえつけようとしない方がいいと思う。
そんなことしても憎しみの想いはますます強くなっていくだけだし。
わたしもサクヤさんと同じようにいつかは負けちゃうと思う。
だから、もう一度ウラ自身の、目と足でたしかめてほしいんだ」
「ていうのがぜんぶいいわけ」
ミコトの横で、ぼそりとサチミタマがそう付け加えた。
ミコトはそれを否定しなかった。
いたずらがばれた子どものように、バツが悪そうに舌をぺろりと出す。
「へへ、まぁね。サクヤさん。やっぱりわたし―――死にたくない。
タケさんや師匠やルサちゃんや、たくさんの人に出会って、旅をしてきたこの世界から離れたくない。暗い洞穴に閉じこもって、何十年も何百年も独りでいるのもヤダ」
あまりに直截な物言いに、サクヤは言葉を失った。
が、その全身がわななき、こらえがたい、というようにうつむく。
「このド阿呆がぁーー!!」
再び顔を上げて放った怒声は、幽霊とは思えないほどの大音声だった。
ミコトの肌がびりびりと震えるほどだ。
「代々の薄明の巫女様達が担ってきた使命をなんと心得るか。先代様方が、何百年と続けてきた苦難の歴史をおぬし一人が踏みにじったのだぞ。そもそもじゃな―――」
サクヤの叱責は、永遠と果てなく続いた。
無論、その間ミコトはぐうの音も出ず、ただ肩をすぼめ続けていた。
「わたしだってなぁ、わたしだってたった十七年しか生きられなかったのだぞ。
もっといろんな所に行ってみたかったし、おいしいものも食べたかった。
良き殿方との出会いも、まあ、期待していなかったわけではない。
自らの手で勝ち取った平和になった世界を、この目で見て回りたかった」
だんだんと、サクヤの説教はグチめいたものに変わってゆく。
とうとう、両手で顔を覆い、ぐずぐずと泣きだしてしまった。
その姿からは先代の薄明の巫女という威厳はとうに失せ、むずがる年頃の少女と化していた。
「さ、サクヤさん……」
ミコトはどう声をかけていいか分からず、おろおろと立ちつくしてしまう。
いまさらながら、自分の取った行動はあまりに軽率なものだったろうか、と申し訳なさと後ろめたさでいっぱいになる。
「……阿呆くさ」
しかし、サクヤは不意に泣きやみ、ぽつりとつぶやいた。
再び顔をあげたサクヤは、涙をふき飛ばし口を開けて大笑していた。
霊体とは思えぬ姿で、たかがはずれたように笑い転げる。
見ているミコトが心配になるほど、笑いは続いた。
「そうか、ヤか。イヤなら仕方あるまいな。吾もイヤと言えばよかったのか。あー、阿呆くさ」
泣くだけ泣き、笑うだけ笑ったサクヤは、ようやく顔を上げ、ミコトと向き合った。
「ミコトよ、それがおぬしの下した答えなら、もう吾はなにも言うまい。
それに、おぬしのお陰でようやく眠りにつくことができる。改めて礼を言おう」
そこでサクヤは声のトーンを重くし、念を押すように言い渡す。
「じゃが、始原の鬼を世に放った罪は重いぞ。
万一、あ奴と再び対峙するその日まで、おぬしが修行を怠れば、吾が必ず神罰をくだすゆえ、覚悟いたせ」
「うん、大丈夫。生きてる限り修行は続くんだから」
「うむ。これだけ笑かされたあとじゃ。良い夢が見られそうじゃ」
サクヤとミコトは笑顔で視線を交わし、うなずきあった。
サクヤの姿がゆっくりと消えてゆく。
そして、最後は青白い気体となり、空気にまぎれた。
天に立ち昇るサクヤの霊魂を見送ってから、ミコトは改めて自分が叩き壊した岩戸のあとを振り返る。
「さあ、もう起きていいよ」
その自分自身の呼びかけに応じるように、夢はそこで醒めた。
天城ミコトは、ゆっくりと起きあがる。
―――
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
ルサは荒く肩で息を吐く。
呼吸を整える間もなく、次々と鬼が襲いかかる。
全身に傷を負い、血が滲んでいる。浅くない傷も一つや二つではなかった。
薙刀に変じたアラミタマの刀身も、鬼の血と穢れでいまやどす黒い。
立っていられるのも不思議なくらいの、満身創痍であった。
だが、ルサの目は死んでいない。
「やあッ!」
裂帛の気合いとともに襲いかかってきた鬼の胴を両断する。
瞳の奥に炎を宿し、ルサは残る鬼たちを睨みつける。
すでに半数以上が屍と化し、地に横たわっていた。
だが、鬼を恐怖を知らない。
同胞の遺体を足蹴にして、次々とルサへと迫ってゆく。
「……く、……うっ」
刃を構えなおそうとしたルサだが、不覚にも片膝をついてしまった。
気力はいまだ衰えないものの、全身が限界を訴えていた。
一度疲労を意識してしまうと、視界が遠くにかすみ、気を失いそうになる。
「まだ……まだです!」
己をしかりつけるように、ルサはくずおれかけた自分の膝を拳で打つ。
ルサにとってそれは、はじめて誰かを守るためにする戦いであった。
同じ鬼との戦いでも、大切な誰かをその背に守っていると思うと、不思議なほど気力があとからあとから湧き出てくる。
己の限界を超えて再び立ち上がったルサは、堂々と薙刀を構え、鬼を睨みつけた。
と、その時、妖気の雲間を割って、一筋の光が差した。
「え?」
迫りくる鬼の姿も忘れて、ルサは空を見上げた。
妖雲はたちどころに吹き散らされ、その後に、あたたかな夜明けの薄明かりが降り注ぐ。
光はあっという間に、見渡すかぎりの空へと広がっていった。
「ミコト姐様……」
自分でも無意識に、ルサはその名を呼んでいた。
再び鬼たちの方に向き直る。
と、その群れの間に、豪奢な着物をまとった女の子の幻が見えた。
一瞬の幻影は鬼を率いるように、雲貫山の崖から消えていった。
「え……」
ルサが戸惑っている間に、鬼はそろってきびすを返し、ぞろぞろと山を下っていく。
どこか疲れたようなその背中からは、もう殺気は一切感じられなかった。
その姿はまるで、長い遠征を終えて母国へと帰還する兵士達のようだった。
だが、鬼に故郷などあるのだろうか。彼らはどこへと還ってゆくのだろう。
爆音がとどろき、驚いてルサは振り返った。
見やると、ミコトがその内にくぐっていった岩戸が光の粒となり、あとかたもなく消え失せていた。
「ミコト姐様ッ!?」
今度ははっきりと意識して、悲鳴のごとくその名を呼び、ルサはアラミタマの薙刀も放り捨て、岩戸へと駆けよった。
ややあって光が止んだ後、すっくと立ち現れたその姿に、腰が抜けるほどの安堵をおぼえる。
「やあ、遅くなってごめん。ルサちゃん、ただいま」
「お帰りなさいませ、ミコト姐様」
軽い調子で片手をあげるミコトに、ルサは心からの労いの言葉をかけた。
「ごめん、ルサちゃん。わたし、薄明の巫女になるの、やめた!」
きっぱりとミコトは言いきった。
満面の笑みを浮かべつつ。
その笑顔を目にした時、ルサは何故か心が震えるのが止められなくなった。
ミコトの身にどんな試練が降りかかったのかは分からない。
けれども、彼女が何かを振り切り一つの答えに辿り着いたことは理解できた。
「薄明の巫女なんて関係ありません。ミコト姐様はミコト姐様です!」
心の底からルサは叫んだ。
誰がなんといおうと、ルサにとっていまのミコトは希望を照らす夜明けの光そのものだった。
ミコトが帰ってきて、この笑顔を見せてくれた、それだけで十分過ぎた。
「さ、誰もいないけど、とりあえずまほろばの都まで帰ろう、ルサちゃん」
「はい。ミコト姐様がいてくだされば、それで十分です」
それ以上の言葉は不要だった。
それぞれの従者、サチミタマとアラミタマも互いの目を見やり、うなずきあう。
白い小袖と緋袴が陽の光にまぶしい。
歩き巫女達は雲間を歩き、ゆっくりと地上へ還る。
遥か眼下には歩いてきた道があった。天地に住まう無数の生命が輝いていた。
それら全てを慈しむようにミコトはそっと目を細め、小さく伸びをした。
帰路を急ぐ必要はなかった。世界は廻り、修行の日々はこれからも続くのだから。
雲貫山からは遥か遠くの峰々、海と見まごうばかりの大河が一望できた。
母の御胸に抱かれるような温もりをミコトは全身で感じていた。
世界のすべてが、自分の故郷であった。
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