第七場 ミコトの答え

「これが、鬼の起源……」

 ミコトは心の内でつぶやく。

 滅びを願うのは恨みからでも憎しみからでもなかった。

 生命が自らの内に本質的に抱える罪の意識、その蓄積が鬼、であった。


 耳を塞ぐことは叶わなかった。

 詭弁を弄することも赦されない。

 閉鎖的な環境で育った少女の極端な思いこみ、と笑い飛ばすこともできない。

 少女の抱えた懊悩は、厳然たる事実なのだから。


 無論、ミコトの育ってきたラクサ神殿の教えは少女の抱く想いとは異なる。

 他者の命をいただくことは歓びであり、他者に命を捧げることも一つの縁、生命は互いにつながりあって生きている。

 それが神殿の教義であり、ミコトも実感としてその教えが間違っているとは思わなかった。

 だが、そんな教義を並べたところで、ウラを封ずることを正当化はできなかった。

 一人の少女が抱えた悩みは、いまや幾千の問い、幾万の嘆きとなりミコトにのしかかる。

 ミコト自身の確かな想いでこれに応えなければ、闇に呑まれることは明らかだった。

 苦痛が渦巻き、ミコトを苛む。それは生まれながらに罪を負った、あらゆる生命の慟哭だった。


 ―――本当にそれだけなのだろうか。


 争い合い、むさぼりあうためだけにヒトは生まれてきたのだろうか。

 この苦痛の連鎖は自ら滅び去るまで止むことはないのだろうか。


 違う、とミコトの心は自問に応える。

 眠りの森のラクサ神殿で神官や巫女達に囲まれ過ごした修行の日々。

 歩き巫女として旅を続け、巡った数々の国。

 十七年の月日が、ミコトの胸の内で駆けめぐる。

 辛い苦難も数多くあった。けれど、それにも負けない歓びがあった。


 師オグニやタケサチヒコ、神殿のみな、自分を慕うもう一人の歩き巫女桜崎ルサ、優しき仮絹の巫女霧月ウズメ、孤独な役目にずっと耐え続けた先代の薄明の巫女百蘇サクヤ、一人一人の出会い全てが特別で、かけがえのない記憶だった。

 数知れぬ鬼と戦ったこと、鬼界で舞ったこと、宿命の鬼アラハバキと刃を交わしあったこと、その苦難の記憶すらも忘れたくない、手放したくない経験に思えた。

 コチドリのひなを抱いた時に感じた温もり。

 昇る朝陽に打ち震えた心。

 数々の生命を抱く森や山々、神秘的な泉にわくわくと胸はずんだ心。

 それは絶対に嘘偽りではないはずだ。


 旅の間、たくさんたくさん笑った。

 この苦難の時代でも数多くの笑顔に触れてきた。

 心の底から、この地上で暮らしている人々を守りたいと思った。

 鬼に滅ぼされた街を見つけた時は、我が身を切られるより辛い気持ちになった。


 どうしてだろう。

 生命が互いを侵しあう原罪を持ち、この世界そのものがマチガイなのだろうか。

 そんな答えではあまりにさみしすぎる。

 十七年間の想いをたぐり、そしてミコトは気づいた。

 答えは自分の内側に最初からあった。

 疑問に思う必要もない、明確な答えだった。

 虚無の闇はもう、ミコトの心を揺るがしえなかった。

 始原の鬼ウラにむけ、そしてそれに同調し苦痛の嘆きをあげる幾万、幾億の命にむけ、ミコトはゆっくりと答えを告げた。


「それでもわたしはこの世界に滅んでほしくない。だってその全部を。

 ―――悲しいことも辛いこともおかしなこともひっくるめて、ぜんぶ、ぜんぶ、愛しているから」


 ミコトのいらえと同時に、世界中の人々は目撃する。

 妖気の雲が晴れ、薄明が天から降り注ぐのを。


 ミコトもまた、その光景を夢の中で幻視していた。

 夜明けの薄明となりつつあるミコトの心は透き通っていき、世界をあまねく照らしだす。

 旅の間に訪れた国々にも、まだ見知らぬはずの国々にも、暖かな光が降り注ぐ。

 その全ての国が、その上で暮らす全ての生命がミコトにはたまらなく愛おしかった。

 守ることができてよかった。

 とうとう自分は薄明の巫女となれたのだ。

 自分を送りだしてくれた故郷の師や神殿の者達、旅の間に出会ったたくさんの人々の期待に応えることができたのだ。

 誇らしい想いで胸がいっぱいになる。もうこれで思い残すことはなにもない。

 そう思った刹那だった―――


「あ、あれ……?」


 先ほどまで暖かな光に包まれ、夜明けを迎えようとしていた世界に異変が生じる。

 突如として寒風が吹きすさび、大地を夜の闇が支配する凍土へと押し戻す。

 ややあってミコトは気づく。異常をきたしたのは世界の方ではない。自分自身だと。

 ミコトの全身はがたがたと震えていた。


「あ、あれ、おかしいな、なんで……」


 一度生まれた震えは止まるどころか、ますます強まっていく。

 まるで大筒の直撃を受けた城壁のように、胸の中にぽっかりと大きな空洞が生まれ、その隙間に容赦なく冷気が吹きすさぶ。

 いままでどんな辛い目に合おうと、鬼界に捕われた時ですら、こんな寒気を感じたことはなかった。


 ―――嘘つき。


 ミコトの内でささやく声があった。

 始原の鬼と称された少女、ウラのものだった。


 ―――あなたは自分の心を偽っている。それじゃあ私を封印なんてできない。


 凍えそうになっているミコトには、ウラの言葉を疑問に思う余裕もなかった。

 意識が昏く、寂しい淵へと沈もうとしていた。


 ―――昏い、寂しい、寒い、寒い、怖い、昏い……


 幼子のように、ミコトは何度も同じ言葉を心の内で叫んだ。

 幻視は続く。

 堪えがたい寒気から逃れようと、ミコトの心は我知らず、故郷へ向かっていた。

 幼さの殻を破り、まどろみの霧を抜けて旅立った、東風出ずる国の眠りの森へと。


 七年。言葉にしてしまえばそれだけだが、ミコトにはそれが永劫の昔のように感じられた。

 ラクサ神殿は鬼に荒らされることもなく、そのままの姿で残っていた。

 思えば、神殿の者達が森の中を戦いの場に選び、命懸けの結界で鬼を退けたのは、いつの日かミコトが帰りつける場所を残しておきたかったからかもしれない。

 毎朝みそぎをした泉も、コチドリのひなを拾った森の木々も、アシナヅチが寝起きしていたおんぼろな工房も、石造りの神殿もそのままだ。

 想いは形へと変わり、ミコトは自らの手足をもって、その地に降りたった。


「……ただいま」


 その全てから「お帰りなさい」と言われたような気がして、ほとんど無意識にミコトはつぶやいていた。

 まさか、返事が返ってくるなどとは思っていなかった。


「お帰りなさい、ミコト」


 その声は一つや二つではなかった。

 神殿の入口に、懐かしい大家族全員の姿があった。

 皆が口々にささやきかける。


 ―――お帰りなさい、と。


 信じがたい光景にミコトは目を見開く。

 が、記憶のかなたに師と交わした約束が思い浮かぶ。

 薄明の巫女となったその時、もう一度会おう、と。

 いまこそ、その約束が果たされる時だった。


 思考を働かせられるのもそこまでだった。

 ミコトはたまらず、皆の元へ駆けだした。

 それを迎えるのはたくさんのあたたかなてのひら―――ではなかった。


 ミコトの脳天むけて振るう、師の竹の鞭であった。

 ばちんと乾いた音が景気よく響く。


「いっだあああー、なにするんですか、ししょー!?」


 幼い頃とまったく変わらず、ミコトは頭をおさえ、涙目になって師に抗議した。


「なにするんですか、ではありません。

 ミコト、あなたに伝えた我々の願いを忘れるとはなにごとです」


 オグニの言葉に、神殿の者達もにこやかな笑みを浮かべているものの、みな一様にうんうんとうなずいていた。


「で、でも師匠。教えてくれたじゃないですか。

 どんな命も他の命の上に生きているんだって。

 だから、わたしも世界の人達を救うために……」

「そんなことはどうでもよろしいのです」

「はいぃ?」


 自らの教えを「どうでもいい」と切り捨てるのは、これは本当に師匠なのだろうか。

 また、鬼が化かそうとでもしているのではないか。

 生きている限り修行は続く、と説いた厳格な師と同一人物とは思えなかった。

 ―――生きている限り。生きている、生きている……。


「あ」


 ミコトは間の抜けた声を上げていた。

 どうして忘れていたのだろう、と不思議に思う。

 ただ健やかに生きてほしい、それが師の、そして神殿の者達皆の想いだったではないか。


「ミコト。私がどんな想いでこの球を贈ったか、気づいてくれたかい」


 タケサチヒコに優しく問いかけられ、ミコトは幼子のように袴の裾をつかみ、もじもじとうつむいてしまう。


「分かるよぉ。だって、タケさんの東風玉にはたくさん助けられたもん」


 元気で生きてほしい。そ

 そう願うタケサチヒコの想いが、東風玉に込められ、幾度もミコトに危難を告げた。


「ごめん……なさい」


 そんな想いを込めて贈ってくれたのに忘れていたことが、恥ずかしく申し訳なく、ミコトはますますうつむく。

 タケサチヒコはそんなミコトの頭をなでた。


「うん。ミコト、私は君に手をあげることはできない。だからその役目は彼女に負ってもらおうと思うよ」

「へ?」


 タケサチヒコの目は、ミコトの肩越しに、その後方へ向けられていた。

 その視線を追い、ミコトは振り向く。その瞬間、


「ミコト姐様の大馬鹿!」


 思いっきり頬を張られた。

 けれど、その鈍い痛みよりも、悲痛な叫び声がミコトの胸に突き刺さった。


「ルサちゃん……」


 一流の細工師による人形のようなルサの顔は、この時ばかりは涙でぐしゃぐしゃだった。


「ミコト姐様は言ってくれました。ルサがいなくなったら寂しい、と。そう言って泣いてくれました。なのに……、なのに……、どうして、ルサに同じ想いをさせようとするのですか」

「ごめん……、ごめんね」


 ミコトはルサの頭を両腕に抱き、懐に強く抱きしめた。

 その温もりが、心臓の鼓動が、たしかに伝わってくる。

 ルサのぐしゃぐしゃに濡れた瞳には、自分の姿が映っていた。

 とてもこれが、夢の中の幻である、とは思えなかった。


 ミコトは自身の心からの願いにようやく気づいた。

 あまりにも単純でまっすぐな想い。

 だけど、決して消せない、強い想い。

 なぜ、こんなにも世界が愛おしいのか。

 苦しみと悲しみを生み、鬼に滅ぼされかけているこの世界が―――


 それは、自分が生まれ育った場所だからだ。

 自分がそこに、生きているからだ。

 この世界を心の底から愛している。

 けれど―――いや、だからこそ、絶対に死にたくなかった。

 我が身を犠牲にしたくなんてなかった。


 もっと旅を続けたい。知らない景色を見てみたい。たくさんの人達と話をしたい。

 願いは、この世界を救いたいと思うのと変わらないくらい強烈な想いだった。


「生きたい、生きていたいよぉ」


 ミコトは天を仰ぐ。

 そして、全身全霊をこめて思いっきり叫んだ。


「サぁぁぁぁチぃぃぃぃ!!」


 その呼びかけに応じ、紅い光が中空に生まれる。

 そして一瞬のちには、呆れ顔をした紅い着物の小さな女の子が、浮かんでいた。


「ミコ、いつまでねてる」

「うぅー、寝ぼすけのサチに言われたらおしまいだよぉ」


 二人は余計な言葉を交わさなかった。

 再び七年間の旅の軌跡を光速で辿る。

 森を抜け、山河を駆け、数多くの国々を通り抜け、雲貫山の頂上へと駆けあがる。

 そして、天空の岩戸に向き合った。

 そこに眠るのは、天城ミコト―――自分自身だ。


「サチ、今からこれ、ぶっ壊すから力を貸して!」

「ん。はでにやろう」


 いつも表情に乏しく、たまに浮かべるとしても呆れ顔か不機嫌そうな顔。

 そのサチミタマがはじめて―――不敵に笑った。

 そして、その姿が紅く輝く。

 変じるのは無論、一振りの直刀だ。

 サチミタマの刀身は、みそぎをした直後よりもまばゆく、白銀に輝いていた。

 ミコトはその柄を両腕で抱きしめ、大上段にふりかぶる。


「いっけえぇぇー!」


 振り下ろした軌跡をなぞるように、岩戸に縦一文字の光がきらめく。

 その一瞬のち、洞穴を塞いでいた岩は粉々に砕け散った。

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