第六場 始原の鬼の物語

 それはいまははるか昔、この地が茜燃ゆる国と名づけられる以前のこと。

 ひとりの女の子の赤ん坊が生まれ落ちた。

 そのことは国をあげての大騒動となった。

 ウラと名づけられたその赤ん坊が、当時、この地の実質的最高位指導者である大神官の一人娘であったから―――ではなかった。

 その赤子が、生まれながらに異常なまでの霊力を宿していたからであった。

 その力は稀代の、や類まれな、などという言葉で言い表せる次元をはるかに超えていた。

 神々の領域にも及ぶ、世界のあり方すら変えてしまいかねないほどの力だった。

 ウラの処置を巡って国の者達は激論を交わしあった。



 赤子のうちに命を奪ってしまうべきではないか、という意見も少なくなかったが、ウラが大神官の娘であることが事態を複雑にさせた。

 加えて、これほどの力を内に宿した赤子を殺そうとすれば、どんな事態が起こるか予測がつかなかった。最悪の場合、赤子の力が暴走して、この国一帯が焦土と化すことも考えられた。


 修験を積んだ預言者達は口をそろえてウラの未来について言う。


「もし、この赤子が希望を抱いたまま成長し、光の巫女となれば、その光はあまねく世界を照らす救済の巫女となるだろう。しかし、もし一度絶望をおぼえ、災厄を望めば、その力は世界の破滅へと導かれるであろう」と。


 悩んだ末、大神官はウラを決して外界に触れさせない場所で、実質的に幽閉する道を選んだ。

 ウラのためだけに、彼女が生涯を過ごすための宮殿が建造された。


 それは地上の楽園と呼ぶべき場所だった。

 老いも病も死も貧困も、宮殿からは遠ざけられた。

 ウラに仕え、宮殿で働く男女は若く美しいものだけに限られた。

 彼らは美しくふるまい、美しい言葉だけを語る。

 老いたもの、病気になったものは容赦なく追い出された。

 庭園ですら、枯れ木は存在せず、常に四季折々の花が咲き乱れるよう配慮された。

 美しいもの、喜ばしいもの、正しいものだけに囲まれていれば、ウラは必ずや光の巫女となるであろう、と大神官は信じていた。

 こうしてウラは何不自由なく、ただし宮殿の外に出ることはかたくなに禁じられて十を迎えるまで育った。


 それ自体はごくささやかなできごとだった。

 ウラは宮殿の窓からぼんやり外を眺めていた。


 空を見つめるのがウラは好きだった。

 流れる雲がたえず形を変え、夕暮れととともに空の色が少しずつ変わり、やがて無数の星々が夜空にまたたく。

 その変化はいつまで眺めていても飽きないほど面白かった。


 にぎにぎしい歌舞音曲も豪勢な料理も、生まれた時からそれに囲まれているウラにとっては退屈なだけだった。

 宮殿の窓は、地上の様子が映らないように慎重に設計されていた。


 しかし、この時ばかりは青空と雲以外のものを窓は映した。

 鮮やかな隊列をなして飛ぶ渡り鳥の一群だ。

 ウラは歓声を上げ、食い入るようにその姿を眺めていた。

 だが、窓の切り取る景色を渡り鳥が通り過ぎようとする直前、不吉な黒い影がよぎった。

 悠然と翼を広げた大鷲であった。 

 鷲は鋭いかぎ爪で一羽の鳥を捕えたかと思うと、あっという間に空中でくちばしに運んでいた。


 一瞬のできごとであった。

 渡り鳥たちはくもの子を散らすように、窓から見える景色から消えていった。


 ウラのこの時受けた衝撃を余人に想像するのは難しい。

 多くの人々にとって、肉食動物の捕食風景など、ごく見慣れたものであったから。

 だが、ウラにとってそれは天地が裏返るほどのできごとだった。

 心臓が引き絞られたように苦しくなり、呼吸をするのもやっとであった。

 血の気は完全に失せていた。

 気が遠のきかけ、倒れそうになるのをかろうじてこらえる。

 目の当たりにした光景の意味を、正確に理解したわけではなかった。


 しかし、聡明な彼女は、自分にはなにか隠されている世界の真実があること、そして目にした光景がその真実の一端であることに、うすうす気づいていた。

 その時以来、どうしたことか食欲がまったく湧かなかった。

 食事という行為がひどく汚らわしいものに思えてならなかった。

 たえず脳裏に浮かぶのは、大鷲に捕えられた渡り鳥の姿だった。


 とうとうウラは、世界の真実を知るため宮殿を出る決意をした。

 実のところ、強大な霊力をもったウラにとって、宮殿から抜け出すのはごくたやすいことだった。

 いままでは、それを禁じられていたから、素直に従っていただけであった。

 自分の部屋から宮殿の外の世界を思い描き、出たいと願う。

 ただそれだけで、宮殿に幾重にも張られた結界になんの痕跡も残さずに、ウラは外の世界に瞬時に移動していた。


 窓で目撃した行為の正体を見極めるべく、ウラはまず広大な森へと向かった。

 はじめて目にする外界に感嘆する暇もなかった。

 目にした光景の意味を知らなければならない、という衝動がウラを突き動かす。

 そして、ウラは獣達の狩りを数多く観察し、その意味を悟った。

 鷲が野鼠を捕えるのを、蛇がひな鳥のいる巣を襲うのを、そのひな鳥が親鳥の運ぶ虫をついばむのを目にした。


 自身が生きるためには他者の命を奪わなければならない。

 それが命ある者の定めだと知った。

 いままで宮殿で華美なよそおいに調理されて出された料理も、また他の動植物なのだ、とウラは気づいた。

 腹の中で、殺された命がうごめいているような気がして、気分が悪くなった。


 これより後、ウラは一切の食事を拒否した。

 空気中の霊体を取り込み、水だけを糧とした。

 ウラの姿は餓死者同然に痩せ細っていったが、その霊力はより峻厳に研ぎ澄まされてゆく。


 ついでウラは、ヒトの営みを知るべく街へと向かった。

 そして、さらなる絶望感を覚えた。

 宮殿の楽園がすべてまやかしであったことを、ウラは知った。

 貧困が、飢えが、老いが、病気が、そして争いが街にはあった。

 美しいものだけを目にし、正しいことだけを教え込まれたウラにとって、街での光景は地獄絵図に匹敵するほど、恐ろしいものだった。

 けれども、彼女は宮殿に逃げ帰ろうとはしなかった。


 何故生命は他の命を喰らいあわなければならないのか、何故人は互いに争いあわなければならないのか、何故このような残酷な世界を神々は創ったのか。

 問いに答えを得るまで、虚飾と虚栄に満ちた鳥かごに戻る気はなかった。

 ウラが宮殿を抜け出したことが判明し、捜索の命が下る頃には、彼女ははるか遠くの国に消え去っていた。

 世界中を見て回っても、ウラの疑念は晴れなかった。

 ますます懊悩は深まるばかりだった。

 とりわけヒトの抱える混沌は他の生命の比ではなかった。


 一個体が生き延びるためには、多くの他の生命を犠牲としなくてはならなかった。

 ヒトは森を焼き、山を拓き、街を造り、大地を畑地へと変える。

 ヒトの集団の抱える欲望は生存本能にとどまらず、際限なく膨らんでゆく。

 同族をも平気で殺し、他者の不幸を糧とする

 戦によって、多数の人間が殺し合う様も見た。

 そうまでして、生にしがみつかなければならない理由はなんなのか。


 少女は懊悩し、出会う人々に問いかけ続けたが、答えは返ってこなかった。

 誰しもが生の始めに暗く、また死の終わりに冥かった。

 生きる意味を、明確な答えとして少女に贈るものは、ついに現れなかった。

 生命輪廻の悪夢は止むことなく、少女を苦しめつづけた。


 ―――


 ある国では、暴力と争いばかりが人々を支配していた。

 その国に足を踏み入れた時、ウラは複数の男たちに襲われた。

 ウラの高価な着物を狙ってのことだった。

 ウラの霊力を駆使すれば、逃げるのはそう難しいことではなかったはずだ。

 しかし、生まれてはじめて明確な殺意と悪意をぶつけられたウラは、恐怖にたちすくんでしまった。


 男たちの手がウラに伸びる。

 極端にやせたウラの身体は、凶器など用いなくても男たちの片腕で折れてしまいそうだった。

 その直後、ウラの持つ霊力が主を護らんと、霊気の刃となり、男たちを切り裂いていた。


 路地に倒れ伏す男たちをウラは呆然と見下ろした。

 自分が人を殺めた、という事実がしばらくのみこめなかった。


 と、男たちの姿に異変が生じた。

 自らの悪意に食い破られるように、その身体がぼこぼこと波打ち、変容し、赤黒い巨体へと変わってゆく。

 そして絶命したはずの男たちはヒトとは明らかに異なる、醜悪な姿をとり再び立ち上がった。


 鬼、であった。

 そのたたえる憎悪の念、破壊の衝動にも関わらず、ウラは彼らの姿に恐怖を感じなかった。

 鬼たちが自らの霊力で創りだした僕(しもべ)であることに直感的に気づいていた。

 そして、天啓のようにウラは自らの使命を悟る。


 生命は新たな生命を、他者をむさぼり喰らう生命を、これ以上生み出すべきではない。

 産むことなく、殖えることなく、自らに刻まれた呪いを噛みしめながら滅び去るべきである。

 自ら下した結論に、はじめて少女は心からの平穏を感じた。

 そして、乞い、願った。


 この想いを叶える力がこの世に顕現することを。

 自らにそなわったこの力は、そのためにこそあったのだ。


 ウラは鬼たちに命じ、その国を瞬時に滅ぼした。

 破壊は新たな憎悪を呼び起こし、別の鬼を生んだ。

 そして、ウラは故郷の国に還る。

 鬼たちを統べる鬼王として。


 街も、父がいるはずの神殿も、この世の楽園のごとき宮殿も、すべて平等に焼き滅ぼした。

 そしてウラは雲貫山の頂上に座し、地上を睥睨する。


 そこから、呪力を用いて鬼を生み出し続けた。

 生成の糧となる憎悪の念は人の営みがある限り、無限に世界中にあふれていた。

 そのこともまた、ウラが自ら下した結論の正しさの証明に思えた。

 鬼を生み出すうちに、ウラに備わった強大な霊力は、禍々しい妖力へと変わっていった。


 鬼たちはウラからの命令に従っているのではなく、そもそもウラの存在も、自身がその呪力によって生み出されたということも知らなかった。

 ただ、その身に備わった破壊の本能に従っているだけであった。

 それで構わなかった。


 世界中が鬼に覆われ、滅ぼし尽くされるのは時間の問題と思われた。

 しかしこの時、ウラとまるで魂の双子でもあるかのように、はるか東の国で、群を抜いた才を持つ一人の巫女が生まれていた。

 彼女は歩き巫女となり、人々を鬼の危難から救った。

 そしてとうとう数多の試練を乗り越え、雲貫山まで辿りつき、その身のうちにウラを封じ込め、薄明の巫女となったのであった。

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