第五場 薄明の巫女の使命

 なにやら名を思いだすのにひどく時間がかかっていたが、それどころではなかった。

 名の後に続いた言葉の方が衝撃だった。


「ええー、は、薄明の巫女様ー!?」

「うむ。そうなったのが、何十年前か、あるいは何百年前かとうに忘れてしまったがの」


 ミコトは三度目の驚きの声を上げたが、今度はサクヤも咎めなかった。

 誇らしげに胸を張っている。


「その隣りのはおぬしの魂の従者じゃな。

 うむ、懐かしいのぉ。遥かかなたの記憶が久方ぶりによみがえってくるわ」

「ん、サチミタマ」


 サチミタマは平然と名乗るが、ミコトはいきなり現れた薄明の巫女だという存在に激しく混乱していた。


「え、えっと、なんで?」


 そうつぶやくのが精一杯だった。

 その「なんで」には数多くの疑問が含まれていた。

 何故こんなところに薄明の巫女様がいるのか。ここで何をしているのか。

 自分は薄明の巫女になるために旅をしていたはずだが、何故既に薄明の巫女がここにいるのか、彼女が本当に薄明の巫女だとすれば、自分はどうすればいいのか。


「うむ、順を追って説明せねばなるまいな」


 薄明の巫女を名乗った若い女―――サクヤは言い、ミコトに笑いかけた。


「まずは礼を言おう。よくぞ数多の危機を乗り越え、はるばる吾のもとにやってきてくれた。天城ミコトよ。そなたの旅を見ていたわけではないが、ここまで辿りついたのが吾の役目を引き継ぐ証を得たなによりの証拠じゃ」

「……引き継ぐって、薄明の巫女様を?」

「決まっておろう。そのためにそなたはここまで来たのであろう?」


 サクヤの言う通りではあった。

 鬼の危難から世界を救うため、薄明の巫女となるため、これまでミコトは旅をしてきたのであった。

 だが、どうすれば世界が救えるのか、そもそも薄明の巫女とはなんなのか、分からないままだった。

 ただがむしゃらに修行の旅を続けるうちにここまで導かれてきたようで、自分の意志でやってきたという感覚は希薄だった。

 ミコトはそのことを正直にサクヤに打ち明けた。

 サクヤは鷹揚にうなずく。


「うむ。吾の時もそうじゃった。恥じいることはないぞ。薄明の巫女は世界を救うなどと云われておるが、その実際は誰にも知られておらぬからな」


 サクヤの言葉にミコトはこくこくとうなずく。


「それを伝えるのも吾の役目じゃが……。ま、簡単に一言で言えば生きる屍と化すことじゃな」

「は?」


 あまりにも平然と告げられ、ミコトは言葉の意味が全く飲み込めなかった。


「イキルシカバネ……ってサクヤさんも?」

「当然じゃろう。吾はとうに生きてはおらぬ。骨の姿では話ができぬゆえ、こうして霊体となって生前の姿をとりはしたが、所詮はまやかしじゃ」


 あらためて、先程目にしたばかりの、地面に座る骸骨の姿をミコトは思い出した。

 たしかに、その輪郭は目の前で揺れるサクヤのものと一致する気がした。

 あれが薄明の巫女となったサクヤの姿、そしてすぐ未来の自分の姿なのか。

 骨だけになってなお暗闇の中に座る自分を想像して、ミコトはぞっと背を震わせた。


「な、んの……ために……」

「うむ」


 顔色を失うミコトに対し、サクヤは「よい質問だ」とばかりにうなずく。


「我が身を捧げ、この岩戸に篭り、始原の鬼を己が内に封じる。それが薄明の巫女が代々担ってきた使命なのじゃ」

「始原の鬼……」

「うむ。全ての鬼を生み出す妖異の根源じゃ。封印すればそれで終わりではないぞ。

 死してなお、苦悶は刹那の休息もなく続く。

 始原の鬼は絶えず封印を破り、吾の魂を食い破ろうとしておる。こうして話している今もな」


 骸から発する、そしてこの岩戸の内に充満する妖気を思い、ミコトは慄然とした。

 封印されてなお、これほどの妖力なのだ。

 もしもサクヤが始原の鬼に敗れれば、世界中が一瞬にして闇に呑まれてしまうかもしれない。

 そして、その強大な闇と死してなお戦い続ける。

 これがどれほどの苦行なのか、ミコトには想像することすらかなわなかった。

 サクヤの言葉を裏付けるかのように、その姿が一瞬大きく揺らぎ、かき消えそうになる。

 それと同時に、岩戸の妖力が一挙に膨張した。


「サクヤさん……!」

「……うっ……く、ま、まだじゃ。まだ出てきてはならん。そなたにはいましばらく吾と付き合ってもらうぞ」


 サクヤの言葉はミコトに向けたものではなかった。

 己が内に眠る始原の鬼に言い聞かせているようだった。

 その顔は無理矢理笑みを作ろうとしていたが、明らかに苦悶に歪んでいた。


「す、すまぬの。吾としたことが、そなたが現れて少々気がゆるんでいたらしい」

「そんなこと……」


 もしも生者であれば、脂汗をびっしり浮かべていたであろうサクヤの姿に、ミコトは何もできずに立ち尽くしてしまう。

 霊体ではその手をとることすらかなわなかった。



「始原の鬼との戦いは果てなく苦しいものじゃ。これほどの苦痛を吾も生前味わったことがない。脅かしたいわけではないがの、全て話さずに役目だけ押しつければ、卑怯じゃからな。

 ―――天城ミコトよ、あらためて問おう。

 真実を知ってなお、そなたは薄明の巫女となる道を選ぶか」


 ミコトは即答できなかった。

 助けを求めるようにサチミタマの方を振り返る。


「…………」


 しかし、サチミタマは何も言わなかった。

 普段から表情に乏しいサチミタマだが、この時の無表情はあらゆる感情を強いて押し殺しているように見えた。

 ミコトの答えに自分は従う。

 その目はそう語りかけているように思えた。


「……それで、世界を救えるんですね」


 念を押すようにたずねるミコトと視線をからませあい、サクヤは深くうなずいた。


「うむ。少なくとも封印が解けかけるまでの間はの。

 始原の鬼さえ封ずれば、他の鬼もそれまでは現れぬ」


 再びサクヤの顔が歪んだ。

 ミコトにはそれが、苦痛にさいなまれているのか、自嘲気味に口を歪ませたかったのか分からなかった。

 あるいは、その両方かもしれない。


「このような役目、吾を限りに終わらせたかった。じゃが、もう限界なのじゃ」


 サクヤの姿がくの字に折れ曲がっていく。

 堪えざる痛みに屈するように。

 あるいは、自らも難題と知る頼みを懇願するように。


「もう吾の魂は始原の鬼に呑まれかけておる。吾の力では世界を救えぬのじゃ。すまぬ、すまぬ……」


 はじめてミコトは、サクヤが自分と年端も変わらぬ少女であることを実感した。

 それが何百年昔のことかはわからないが、彼女もまた、長い修行の旅の果て、この地に辿り着き薄明の巫女の真実を知ったのだ。

 そして世界を救うため我が身を捧げることを選んだ……。


 ミコトは瞳を閉じ、思いをはせる。

 暗雲に閉ざされ、凍えそうになっている世界のことを。

 その下で暮らす者達、いままでの旅で出会った人々のことを。

 鬼に滅ぼされながら、自分に希望を託し送り出してくれた東風出ずる国の人達、小さな里で身を寄せ合うように生きる青月籠る国の人達、そして、その暮らしを懸命に護りぬこうとする仮絹の巫女ウズメ。

 鬼に滅ぼされた無数の国々。

 この世に生み落とされたことを慟哭し、孤独な破壊の道を辿る鬼達。

 いまも雲貫山の頂上で、自分のために我が身を盾にして、絶望的とすらいえる死闘を演じているはずの、もう一人の歩き巫女、桜崎ルサ。

 最後に思い浮かんだのは、何故か墓場でまみえた、痩せこけた女の子のことだった。

 彼女こそ、世界でもっとも、自分に救いを求めているような、そんな気がした。


 実際には、ミコトがこの全てを思い返したのはほんの一瞬のことであった。

 再び、目を見開き、決断を伝えるまでは早かった。


「顔を上げて、薄明の巫女様……ううん、サクヤさん」


 ミコトは笑顔でサクヤに声をかけた。


「今まで、わたし達の世界を護ってくれて、本当にありがとう。

 どうかもう休んで。

 これからは天城ミコト、わたしが薄明の巫女の役割を果たすよ」


 サクヤは放心したように、しばし何も返せなかった。

 ミコトの決断を喜ぶ、というより、重荷を下ろして安らげるのが信じられない、という面持ちだった。

 霊体でも泣くことはできるのだ、とサクヤ自身はじめて知った。


「すまぬ……。本当に、すまぬ」


 それ以上言葉をつむぐことができない。

 そんな様子で、サクヤはしばし涙が流れ落ちるがままに任せていた。


 ―――


「サチミタマといったの。吾にそなたの力を貸してくれ」


 サチミタマはこくりとうなずく。その姿が紅く輝き、一瞬後には朱塗りの扇へと変じる。

 この魂の従者がミコトの手をはなれ、別の者に身を委ねたのはこれがはじめてのことだった。


 サクヤの霊は扇を手に、浮いていた足を地に踏みつけ、舞う。

 それは舞の中から優雅さや娯楽性を全て取り除き、厳粛で神聖なる儀式へと変じさせたような、そんな舞だった。

 その口から、荘重な響きをもった呪法の文言が調べとなって流れる。

 その意味の正確なところはミコトには分からなかったが、サクヤが己が内に眠る始原の鬼に呼びかけているように感じられた。


 ミコトはそれを、先程見た骸と同じように、結跏趺坐で地面に座り、聞いていた。

 目は閉じずに、うっすらと開き、全身の緊張をほどき、呼気をゆったり整え、心は何も思わず考えず、可能な限り無に近づける。

 サクヤにそう指導されていた。


 やがてサクヤの文言はなにかを命じる厳しい調子へと変じる。

 それとともに、ミコトは自分の中に茫漠と広がる闇が注ぎこまれるのを感じた。


「う、ああああああ―――」


 たまらず絶叫をあげる。

 その自身の声も意識の外にかすみ、聞こえずにいた。

 それはミコトがこれまで経てきた、どんな試練とも戦いとも次元を異にしていた。

 技や術を用いた戦いでもなければ、妖気と霊気のぶつかりあいですらなかった。

 己の魂をかき消さんとする力に抗い、ミコトは自身の存在にすがりつく。

 か細い灯火に嵐が吹きつけるのを、身を挺して防ぎ守るように。

 広がる闇はやがて形をつくり、一人の少女の姿となった。

 豪奢な着物をまとった極限までやせ細った女の子だ。


 ―――やっぱり、あなたが始原の鬼。


 遠ざかりかけた意識の中、ミコトは思う。

 女の子はにこりと微笑むとミコトに向けて手を伸ばす。

 その腕が、何の物音も立てずにミコトの胸へと埋められていく。


「――――――!」


 もう一度上げたミコトの絶叫は、声にすらならなかった。

 少女の存在がミコトの内へと注ぎこまれてゆく。

 始原の鬼と聞くからにはどれほど邪悪な存在であろうと思っていたが、その魂は自分のものよりも、おそらく先代の薄明の巫女百蘇サクヤのものよりも、はるかに純粋に澄んでいた。

 それでいて、その存在感は圧倒的だった。

 とうとう、ミコトは意識を失った。

 そして、少女の物語を知る。

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