第四場 封印の岩戸と先代様

 雲貫山の頂上はさほど広くはなかった。

 剣のような岩肌がわずかにあるのみで、歩き回るほどの場所もない。

 もし、なにも異常のない時にやってきたなら、周囲の山々も雲もはるか眼下で、まさに天の上に至った心地がしたことだろう。

 しかしこの時は立ちこめる妖気の雲に景色どころではなかった。


 そして、その妖気が発生している中心が二人の目の前にあった。

 常人ならば、この場に寸刻もいられないほどの禍々しい瘴気である。


「ほら穴みたいだね」

「ええ、封印がほどこされているみたいです」


 二人が目にしているのは、人がくぐって通るのがやっとといった大きさの岩穴だった。

 巨石が組み合わされた岩穴は、自然のものとは思えない。


 そして、その穴には強力な霊気の縄がはりめぐらされ、結界をなしていた。

 渦巻く妖気はその穴から吹き出ているようで、いまにも戒める結界を破らんとしていた。

 岩戸の奥に広がるのもただの暗闇とは思えない。

 ミコトが鬼界にとらわれた時のように、どこか異界に通じている可能性が十分あった。


 けれどもここで立ちつくしていても始まらない。

 意を決して二人はその岩穴に向けて足を踏み出す。

 が、その背中にサチミタマが呼びかけた。


「ん。ざんねんだけど、ルサはここからさき、すすまないほうがいい」

「そんな!」


 サチミタマの言葉に、ルサは悲壮な面持ちで悲鳴に近い声を上げた。

 捨てられた子犬のような眼からは、いまにも涙がこぼれ落ちそうだった。


「平気です。この程度の妖気など。そのために修行を積んだのですから」


 宣言を行動によって証明せんと、勇み足でほら穴の内に足を踏み入れようとする。

 が、一歩穴に足を踏み入れた瞬間、すさまじい妖気の奔流がルサの心を喰い破らんと襲いかかった。

 心の内側が黒く塗りつぶされてゆく。

 憎しみの念が濁流になり押しとどめられない。

 以前にも一度、ルサはこの衝動のとりこになったことがあった。

 鬼に心と身体を乗っ取られた時だ。

 けれども、今度の力はそれよりも遥かに強力だった。

 ルサの心の奥底のさらに奥、本人ですら忘れ去った、かすかにこびりついた小さな昏い情念を見逃そうとしなかった。


 ―――憎い。この世界の全てが。何もかも壊しつくさなければ収まらない。憎い、憎い……


「ルサちゃん!」


 自分を呼ぶ声に、ルサははっと我に返った。

 気づくと、ミコトが自分を全力で抱きしめていた。

 まるで、ルサの憎しみをすべて受けとめ、自分の中に包み込んでしまおうとするように。

 ルサは全身の力が抜けるのを感じながら、ただミコトの温もりに身を任せた。


「……苦しかったね。もう大丈夫だよ」


 背に回した腕の力をゆるめ、ミコトは片方の手でルサの綺麗な黒髪をそっとなでる。


「はい。……もう、大丈夫です」


 妖気に身を明け渡しかけたこと、憧れの巫女に抱きしめられていること、二重の羞恥でルサは耳まで真っ赤になった。


「無念です。ミコト姐様のおかげで、もう憎しみや恨みは完全に捨て去ったはずなのに……」


 心底悔しげにルサはつぶやく。

 ミコトはルサの頭をなでつづけた。


「ここまでやって来られたのはルサちゃんと一緒だったからだよ。だから、そんなふうに自分を責めないで」

「……はい」


 ルサはやっとしぼり出すような声で、かすかにうなずいた。

 こうしているいまも、妖気に侵食され、ずたずたにされた心を癒すように、ミコトの霊気がルサを包みこんでいた。


「ミコト、ルサ、いつまでだきあってる」


 サチミタマの言葉に二人ははっと我に返った。

 飛ぶような速さで二人同時に離れる。


「ご、ごめんルサちゃん」

「いえ、こちらこそ……」


 顔を赤らめもじもじとうつむくミコトとルサに、こんな大事な時に何をやっているのかと、二人の従者が同時にため息をついた。

 が、そんなゆるみかけた空気を瞬時に凍てつかせるような足音が、下から聞こえてきた。

 眼下を見やると、やり過ごしてきた鬼の群れが集結しつつあった。その数は相当なもので、群れなどと呼ぶより軍団と表した方がよいくらいだった。


「うげげげげ」


 かつてない鬼の軍団の威容に、さしものミコトもたじろいだ。

 だが、ルサはわずかばかりも動揺した素振りは見せず、口の端に微笑みさえ浮かべて言う。


「ミコト姐様。どうかお気をつけて。ここはルサが引き受けます」

「そんな……!」


 ミコトは驚き、悲鳴に近い声を上げる。

 二人がかりでも敵うかどうか分からない大軍なのだ。

 ルサ一人をこの場に置いていくなど、できるわけがなかった。

 しかし、ルサの微笑は揺るがない。


「心配しないでください。薄明の巫女となられるミコト姐様の道を開くのが、ルサの役目です」

「で、でも……」


 鬼をねめつけるルサの横顔にはかつてないほどの決意の色が滲んでいた。

 その横顔を見た瞬間、ミコトはそれ以上かける言葉を失ってしまった。


「ミコ、きめるならはやくしないと。ぜんぶだいなしになる」


 と、その時、サチミタマが横合いから口を挟んだ。

 その指摘にミコトが後ろを振り向くと、岩穴を取り巻く霊気の縄はいまにもちぎれそうになっていた。

 その光景は、あたかもミコトに決断を急ぐように迫っているかのようだった。


「うぅ……、なるべく早く試練を終えて戻るから!」


 とうとうミコトは、全てを吹っ切るように叫んだ。

 ルサは余裕で会釈を返す。


「どうぞごゆっくり戻ってきてください。その間に表は片付けておきます」


 まるで庭の掃除でもするかのような口振りだった。

 その気丈な姿に、ミコトもこれ以上ためらってはならない、と思いなおす。


「すぐ戻るから! 絶対死んじゃだめだよ」

「はい。約束します」


 ルサが力強くうなずくのを見届け、ミコトは決然ときびすを返す。

 そしてサチミタマとうなずき合うと、穴の内へと飛び込んだ。

 残されたルサを、アラミタマが呆れ顔で腕を組んで見下ろす。

 言葉を話せない代わりに、そっとため息をついた。


「かっこつけすぎだ、とでも言いたいのですか?」


 ルサの言葉にアラミタマはこくこくとうなずく。


「いいじゃないですか。いま、ルサは最後の最後で姐様のお供ができなくて、とってもむしゃくしゃしているんです。大暴れするのを手伝ってください」


 アラミタマはさきほどよりも、さらに深々とため息をついた。

 けれども、ルサの求めに応じて、彼女の身の丈を越える薙刀へとその身を変じた。

 ルサはそれを高々とかかげ、峰々に響きわたるような朗々とした声で呼ばわる。


「聞きなさい、鬼ども!」


 その姿は絵巻物語から抜き出た戦女神のように、りりしく、美しく、勇ましかった。


「我こそは薄明の巫女様の行く道を照らす火天の巫女桜崎ルサなり。

 ミコト姐様の大事な試練の時をお護りするのがルサの使命です。

 これより先は、ルサが一歩も通しませんから、御覚悟なさい!」


 大義名分をかかげながらも、この戦いがただの八つ当たりであることを、ルサ自身がはっきり自覚していた。

 肝心な時に大事な人の傍にいられない憤りを、思いっきり鬼にぶつけるつもりだった。

 鬼達はその気概に気押されまいとするかのように、咆哮をもってそれに応えた。


 ―――


 岩戸のうちには、闇が広がっていた。ただの暗闇ではない。圧倒的な質量をもった暗黒が、侵入者の身を押しつぶさんばかりに充満していた。


「ひどい妖気……。サチ、大丈夫?」


 ミコトはあえぐように声をふりしぼった。

 それでも、自分のことより、小さな相棒の方が気がかりだった。

 それでなくとも、鬼との戦いの連続で相当の穢れを吸ってしまっているのだ。


「ミコ、だれにものいってる」


 けれど、サチミタマは強気に鼻を鳴らす。

 その態度にミコトは苦笑した。

 サチミタマと会話していると、迫りくる妖気に対抗する気力がなんとなく湧きあがってくる気がした。


 ミコトは口の中で法呪の文言を唱えた。

 霊気による光の球が生まれ、周囲の闇からミコト達を護るように、頭上に浮かび空洞を照らす。

 と、いままで気配すら感じられなかったが、前方に光に照らされ、なにかの影が見えた。


「うわっ」


 すわ鬼か、とミコトは身構えたが襲いかかってくる様子はない。

 じっと目をこらしてみる。

 骸(むくろ)、だった。

 とうに肉は朽ちはて、身に着けるものもなくきれいに骨だけになった人体だ。

 骸骨は、両足を膝の上にのせ、手をみぞおちのあたりでお椀の形に組んだ結跏趺坐の姿勢で、泰然と座っていた。

 細い骨格は女性のもののようで、長い年月に半ば風化して黄土色に変色していたが、見る者の居ずまいを正させるような不思議な迫力があった。

 それに―――、


「このがいこつ……生きてる、わけはないんだけど、なにかと闘ってるみたいな感じがする」


 骸から、いまなお息づく魂のようなものをミコトは感じ取った。

 空洞に充満する妖気はこの骸を中心に渦巻いて感じられる。だが、死骸自体に邪悪な気配はしない。

 むしろ、この骸が溢れ出ようとする妖気を食い止めているような気が……。

 と、ミコトが注視していると、骸がかたりと音を立て、かすかに身じろぎした。


「ぎゃあー!!」


 ミコトは血相を変えて、飛び上がらんばかりに後ずさり、顔をそむけた。


「阿呆(あほう)か。数えきれぬほどの妖異と渡りあったくせに、いまさら屍が動いたくらいで、なにを大げさに驚いておる」

「だ、だってぇ、いまのは怖すぎるよぉ……んっ?」


 反論してからミコトは気づく。

 声がサチミタマのものではなかったことに。

 おそるおそる声のした、屍の方を振り向く。

 と、すぐ目の前に先ほどまではそこになかった、人の姿があった。


「……まったく、無礼な巫女じゃ」

「んぎゃー!!」

「ええい、やかましいわ」


 ぼうっと浮かんだその人影に大喝され、ミコトは驚きに目を見開きつつも口をつぐんだ。

 手を伸ばせば届くほどの距離にいる相手を、あらためて見やる。

 尊大な口ぶりに似合わない、まだ年若い女だった。

 せいぜい、ミコトと同い年くらいか。

 女性としてはやや長身で、顔立ちもどこか中性的な魅力をたたえていた。

 豊かな黒髪は桜崎ルサにも負けないほどだったが、それもうるさげに頭の後ろで無造作に一つに束ねていた。

 そして、ミコトと同じ歩き巫女の巫女装束を身にまとっている。

 だが、その巫女装束も肌も、うっすらと透けて見え、時折水面に映る影のようにその姿が揺らいで見えた。

 おまけに、サチミタマのようにその足は宙に浮かんでいる。

 いきなり目の前に現れたことといい、どう見ても、普通の人間ではなさそうだった。


「……えっと、だれ?」


 知っているか、とミコトはちらりとサチミタマに目をやるが、サチミタマはふるふると首を横に振った。


「なんじゃ。吾(あ)の時代には人に名をたずねる前に自分が名乗るのが礼儀じゃったが、いまは違うのか?」

「あ、えっと、ごめんなさい。歩き巫女の天城ミコト……です」


 幽霊にしか見えない相手に説教され、唖然としながらもミコトは名乗った。

 珍しく丁寧な言葉遣いだ。

 相手に、なんとなく逆らいがたいような、師オグニによく似た雰囲気を感じ取ってのことだった。


「うむ。吾の名は……名は……ううむ……そう、サクヤじゃ。百蘇(ももそ)サクヤ。薄明の巫女じゃ」

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