第三場 雲貫山の快進撃
いざ、登攀にかかろうとしたその時だった。
なんの前触れもなく、雲貫山に異変が起こった。
「なに、あれ……」
「妖気の渦、でしょうか。けど、なんて巨大な……」
一見して、山岳には多いという突如の雷雲の発生にその現象は似ていた。
が、とぐろ巻くそれが雨雲などではないことに、二人の巫女はすぐに気づいていた。
二人とも、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
すさまじいまでの妖気がとどろき、暗雲の形を取って天を覆う。
その中心地は、雲貫山の頂上だった。妖雲は太陽を隠し、夜よりもなお昏く世界を閉ざし、冷気が吹きすさぶ。雷鳴のとどろきが、大地を切り裂く。
黒雲も雷も自然の姿ではありえない、禍々しい悪意を湛えていた。
ままたくほどの間に、見渡す限りの天空が凍てつく闇に閉ざされた。
「うぅ……」
「寒い……」
ミコトとルサは、全身を責めさいなむ妖気に身を震わせた。
妖気の発生源である雲貫山のふもとはその濃度がもっとも強く、修行を積んだ二人ですら心砕かれてしまいそうだった。
「ふたりとも、れいきをつよくもつ。ふたりならへいきなはず」
サチミタマが言う。
二人の巫女はその言葉に顔を上げ、互いに視線をかわしうなずきあった。
どちらからともなく手を取り合う。
ミコトはルサを護るようにして、ルサはミコトに寄り添うようにして、二人は己の内の霊気を練り上げていく。
胸の内に眠るおき火が燃え上がるような、あたたかな奔流をミコトは感じ取った。
つないだてのひらを中心に、互いの霊気が全身に流れこみ、肌を包みこむ。
あっという間に寒さなど、微塵も感じなくなっていた。
闇に閉ざされた世界の中、ほんのりと、二人の巫女の姿が光って見えた。
「ありがとうございます。ミコト姐様の霊気……あったかいです」
「こちらこそだよぉ。一人だったら寒くて凍え死んでたかもしんない」
「なにが起こったのかは分かりませんが、急ぎましょう。このままでは……」
「うん。なんか妖気がどんどん膨れあがってる気がする」
ミコトとルサは手を放し、決然と妖雲のとぐろまく、はるかな頂を見上げた。
―――
これほどの急峻を登るのは二人の歩き巫女にとっても初めてのことだった。
雲貫山のほとんどは生命なき岩場で、けもの道すらもない。
加えて、登るほどに、妖気は二人を押しつぶさんばかりに強まっていく。
それでも、二人が足を止めることはなかった。
練り上げた霊気は依然つながりあい、互いを励まし、気遣いあい、鼓舞する。
まるでよく見知った庭先でも進むように、二人の動きに淀みはない。
ミコトもルサも、光の標が目の前に現れ、行く道を示しているように感じていた。
相手の一挙手一投足、吐息のひとつひとつ、歩む先が自分自身のことのように分かる。
それに対して自分がどう応じればいいのかも。
―――すごぉい、わたしとルサちゃん、息ぴったしだ!
―――いまのルサたちは無敵です!
声には出さず二人とも内心で感嘆する。
その歓びと驚きすら互いに瞬時に伝わる。
それがどれほど高い山だろうと関係なかった。
世界の果てまでもとんでゆけそうだった。
登る、といよりもほとんど翔ぶようにして、二人は上へ上へと目指した。
「ふたりとも、ちょうしのりすぎ」
サチミタマが呆れてつぶやき、同意を示すようにアラミタマもすっと肩をすくめた。
かくいう二人の従者も自分で飛んでミコト達に追いつくのはあきらめ、それぞれの巫女の肩につかまっていた。それほど二人の快進撃はすさまじかった。
だが、高揚感に水を差す存在が現れた。
もちろん、予期していたことではあったが。
岩場の陰に隠れていた鬼が一斉に姿を現し、二人の行く手を阻んだ。
その数はざっと二十ほどはいるだろうか。
鬼たちは手に手に巨石を抱え、眼下の巫女二人に向かって放り投げた。
「げげっ」
「……くっ」
二人とも別々の方向に跳びのき、かろうじてその攻撃をかわす。
鬼の膂力は人の力をはるかに超える。
やわな家屋なら粉々に潰せるほどの巨石が轟音を立てて、二人の巫女のすぐ耳のそばをかすめてとんだ。
二人の霊力が互いを高めあっている時でなければ、とてもかわすことはできなかっただろう。
鬼は、いまのはほんの挨拶代わりに過ぎないとでも言うかのように、獣のものとは似ても似つかない咆哮を上げた。
言うまでもなく、戦いにおいて高所を陣取った方が有利である。
鬼はその地の利をゆずるまいとするように、互いに一定の距離を取り、陣を敷いた。
岩をかわしてミコト達が一瞬分断されたのを見ても、無闇に突っこんでくることはなかった。
「な、なんかチームワークとれてる感じだなぁ」
「はい。まるでなにかを守っているみたいです」
ミコトもルサも、相手が難敵であることを瞬時に見てとった。
どれほど強力な鬼であろうと、ばらばらに襲ってくるかぎり、修行を積んだ二人がそう簡単に苦戦を強いられることはない。
けれども、鬼に統率がとれているなら、これほど厄介なことはない。
地の利をとられていることに加え、雲貫山にはただならぬ妖気が満ちている。
妖気は鬼の力を高め、巫女達の精神を圧迫する。
「ん。ふたりともちからをあわせなければやられる。がんばれ」
「もー、またサチは他人事みたいにー」
「ひとごとじゃない。こっちもけがれをすったりして、たいへん」
「ミコト姐様、きます!」
言い合いをはじめたミコトとサチミタマに、ルサが警告の声を上げた。
再び鬼が投石をはじめたのだ。
その石投げにも協力の姿勢が感じられた。
全ての巨石がミコトとルサのいる場所を狙うのではなく、退路を塞ぐように一定の間隔に石を放ったのだ。
もと来た道をなかば駆けおりるようにして、二人はかろうじてそれらをかわす。
なんとか二度とも直撃するのはさけられたが、三度、四度と続けば同じようにかわせるか分からなかった。
そして、ほとんどが岩地の雲貫山には、弾は無数にあるのだ。
「むむー、こっちも反撃しないと」
「はい。ともかくあの陣型を崩さないことには……」
ミコトはほんの少し考えこみ、うなずいた。
「よし。じゃあわたしが真ん中に突撃してかき乱すから、ルサちゃんは弓で援護して」
「そんな! 危険過ぎます」
いくらミコトでも、高みで待ちかまえる鬼に向かえば、一斉に攻撃の的にされるだろう。
それに、自分が安全な援護役というのも、ルサには不服だった。
「だいじょーぶ。ルサちゃんの弓の腕を信じてるよ」
しかし、ミコトの一言でルサの喉元にあった反論は溶け消えてしまった。
大丈夫―――、ミコトが言うと本当になんでもないことのように思えてしまう。
心の奥底から安堵の想いが湧きあがってくる。
腕を信じる―――、そんな言葉を投げかけられて、それに応じられないようなら何のためにミコトと別々の道をゆき、修行を積んだのか分からない。
ルサがミコトを信じるように、自分も信頼に応えなければならない、そうルサは胸の内に決意した。
―――絶対に、ミコト姐様はルサの弓で守ってみせます!
そう決意を込めて、ルサは鬼のたたずむ頭上を見上げた。どのみち、長々と議論をする余裕などなかった。
「サチ、頼んだ」「アラミタマ、お願いします」
二人の巫女はそれぞれの従者に同時に呼びかけた。
サチミタマとアラミタマがうなずき、光輝き、直刀と破魔の弓矢へと変じる。
同時に、二人のまとう霊衣も戦闘用のものへと変化した。
剣を手に取るがはやいか、ミコトはもう駆けあがっていた。
その速さに鬼がわずかにどよめく。
だが隊列を崩すことはなく、ミコトを取り囲むように、分厚い壁をつくる。
そこに―――、
「高さの利など、ルサには関係ありません!」
狙いを定め、ルサは弦を引き絞る。
霊力が高まり、矢は霊気の炎と化した。
炎の矢は駆けるミコトのすぐ脇を追い越し、鬼の部隊中央に突き刺さった。
聖なる炎が爆ぜ、複数の鬼を一挙に包みこむ。
その成果を見届けるまでもなく、ルサは二の矢、三の矢を次々と継ぐ。
そして、その中にミコトが一陣の風となって斬りこんだ。
鬼は決して混乱しなかった。
矢に貫かれ炎に巻き込まれても、あくまでミコトの前に立ちふさがる。
まるでこの鬼全体が一つの生命体であり、誰かの操る駒のようでもあった。
だが、ルサの援護によってできたわずかな間隙を、ミコトは見逃さなかった。
鬼と鬼の間に強引に身をねじこませ、その巨体を他の鬼からの盾にする。
そして、剣を突きたてるのではなく、刀身のまとった霊気をぶつけるように垂直に構え、鬼の分厚い胸に体当たりをしかけていく。
たまらず、その鬼は崖を転がり落ちた。
ようやく陣型を崩すのに成功したミコトは、鬼と交戦しながらも下方のルサに向かって叫ぶ。
「こいつらめっちゃ強い。たぶん全部相手するのムリ。一気に突破しよう!」
「分かりました!」
ルサも弓をつがえつつ、即座に応じた。
立ちはだかる鬼はおどろくほど頑強だった。
ルサの矢による霊気の炎も、致命傷にはいたらしめていない。
わずかに、動きを鈍らせたくらいだ。
全員がアラハバキ級、とまではいかないまでも、これまで地上で相手にした鬼より強力なのは間違いない。
それでも、以前のルサであれば頑なに目の前の鬼を殲滅することを主張しただろう。
けれど、ミコトと出会い、そして二年の修行を経て、ただ鬼と戦うだけではなんの希望も生み出すことはできないとルサも気づいていた。
最後に鬼の集団に向けて矢を射ると、ルサは思いきって、アラミタマに少年の姿に戻るように呼びかけた。
薙刀も長弓も足場の悪い山麓をかけあがるのには不向きだ。
手にした弓が少年の姿に戻ると同時に、頭上のミコトと同様にルサも崖をかけ上がった。
少し距離ができても、依然ミコトとルサは霊気の絆でつながりあっていた。鬼の隙をついてミコトが手招きしているのが、光の標のように感じられた。
ルサが一気にミコトの横に並ぶと、二人は頷きあい、鬼の壁をあとにして、さらに雲貫山を駆けあがっていった。
その後も、幾度も強力な鬼が姿を現し、二人の行く手を阻んだ。
二人はそれをまともに相手することはなく、あるいは一合二合切り結び、あるいは一挙に隙をついてかけ抜け、先を急いだ。
山登りのこつは決して上を見上げず、ただ一歩ずつ歩く先だけを考えることだという。登ることを忘れれば、自然と頂上まで辿りついているものだ。
その云いを実証したかのごとく、ミコトとルサは無我夢中で駆けるうちに、見上げても天頂が見えないほどの高峰を、いつの間にか登りきっていた。
「うをを、たぶんわたしら世界最短記録だよ、ルサちゃん」
「はい。ルサとミコト姐様に敵うものなどいません」
登頂と同時にハイタッチを交し合うミコトとルサ。
だが、喜びにふけっている場合ではなかった。
「ふたりとも、ここがごーるじゃない。ここからがほんばん」
釘をさすサチミタマの声に、ミコトとルサは頷きあい、前方を見た。
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