第二場 香油の秘術

 気づくと、ミコトは寝台の上にうつぶせに寝かされていた。

 どうやら茜燃ゆる国の無人の家屋のようだ。

 鼻孔を不思議な匂いがくすぐる。

 花の香りに似ていたが、それよりずっと濃厚で複雑な匂いだ。

 かぎ慣れないが、決して不快な匂いではなかった。


「気づかれましたか、ミコト姐様?」


 頭の後ろから呼びかける声があった。

 鈴を転がすような澄んだ声だった。


「……ルサちゃん?」


 ミコトは起きあがって振り向こうとしたが、全身に痺れたような痛みが走り、指一つ動かせなかった。


「じっとしていてください。鬼界の毒が回ってしまいます」


 その言葉でミコトはそれまでのことを思い出した。

 自分はカタカムナの鬼界から抜けだし、因縁の鬼アラハバキと決着をつけた。

 その直後、全身の力が抜けて倒れてしまったのだ。


「けれど、さすが姐様です。鬼界にとらわれた後なのにあんなに平然とされていたなんて……」

「ミコはにぶいだけ」


 サチミタマの声も聞こえた。

 首が動かせなくて見えないが、どうせそのあたりをふわふわとんでいるのだろう。


「うー、サチ、うりゅさい」


 ミコトは恨みがましくうなる。

 が、舌の先も痺れるような感触があり、ろれつが回らない。


「ご安心ください。いまからルサが、修行で身につけた香油の術で治療をほどこします」


 ―――こうゆ? 


 そうミコトは聞き返そうとしたが、できなかった。

 代わりに「ひゃあっ」と悲鳴をあげた。

 背中をルサのものと思しき、柔らかな細い指が滑ったからだ。

 その手は水とは違う、粘り気のある液体で濡れていた。

 ルサはそのぬめりをのばすようにミコトの背中全体に掌をはしらせる。

 それではじめてミコトは気づいた。

 自分が衣服を脱がされ、素っ裸の状態で寝かされていることに。


「ちょ、ちょっとルサちゃん」

「大丈夫です。霧月ウズメ様からも、免許皆伝をもらっています。

 ばっちりルサに任せてください」


 いや、そういう問題じゃなくて、と言おうとしたが、ミコトはどう説明していいか分からず結局口をつぐんだ。

 幼い頃、「恥じらいの心を持て」と師であるオグニからことあるごとに言われてきたが、あれはこういう気持ちのことだろうか、とようやく分かった気がした。

 追い討ちをかけるようにサチミタマのくすくす笑う声が降ってくる。


「ミコ、おしりまるみえ」

「うるさーい」

「どうかじっとしていて下さい、姐様!」

「うぅ……サチ、あっちいけ」


 ルサはただミコトの背に香油を塗っているのではなかった。

 細い指先が、独特の香りを放つオイルを手に、もみ、さすり、練り込み、縦横無尽にミコトの肌の上を滑る。

 薬油とともにルサの霊気が手を伝わって体内に満ちるのが分かった。

 それと同時に、身体を痺れさせる毒素が抜けていくのも感じられた。

 率直に言って、ルサのほどこす香油マッサージはとてつもなく気持ちよかった。

 けれど、その感触に身を委ねるのがなんとなく気恥ずかしく、ミコトは肩を縮こまらせた。

 そのこわばりを不審と受けとったのか、ルサの指の動きが不意に、ぴたりと止まった。


「……ミコト姐様、ルサの力を信じてもらえないのでしょうか」


 ルサの声は深刻なまでに沈んでいた。


「え、そ、そんなことないよぉ。けど……」

「ルサは……少しでも姐様のお役に立とうと、修行を積みました。けど、けれど、ルサは……」


 顔は見えずとも、その湿り気を帯びた声音で、ルサが泣きだしそうなことは分かった。

 ミコトは必死で言いつくろう。


「わあー、もちろんルサちゃんのことは百パーセント信頼しているよぉ」

「……本当、ですか?」

「もちろんもちろん。ルサちゃんがいなかったら、鬼界からも出られなかったし命の恩人だよ」

「……ふふ、それはルサのほうです。姐様が救ってくださらなかったら、わたしの身体は鬼のものになっていました」


 ルサが明るい声を取り戻して、ほっとミコトは胸をなでおろした。


「ルサちゃん、あらためてお願い。わたしのこと治療して」

「もちろんです!」


 ルサの香油をまぶした手が、再びミコトの背を滑る。

 さきほどよりも、じゃっかんはりきり気味に。

 今度こそミコトも、その施術に身を任せようと決める。

 怪我や病気の治癒は巫女の基本的な務めだが、歩き巫女の修行の旅をしながら、これほど高度な治癒術を身につけていたことに素直に感心した。

 ミコトは知らなかったが、かつてのルサは鬼を滅ぼすことのみにやっきになり、治癒の術式や結界を張るなど護りの術はおろそかにしがちだった。

 それが、鬼界の毒すらも浄化する術を身につけたのは、技術以上に彼女の意識が大きく変わったことを意味していた。


「ありがとう。ルサちゃん、さっそく楽になってきたよぉ」

「はい、お疲れ様でした」


 ルサの手がようやく裸の背からはなれ、ミコトはほっと安堵の息をついた。

 ―――のも束の間。


「では、今度はあおむけになってください」

「…………えっ」


 ルサの指示に、ミコトの肩が再びこわばる。


「る、ルサちゃん。もう毒もだいぶ抜けたし、あとは平気だよ」

「いけません。鬼の毒を完全にはらうには、背中側だけでは不十分です。さあ」


 そこまで言い切ったルサの声が、不安げに揺れた。


「そ、それとも、まだ動けないでしょうか……」


 自分の香油による治療が失敗したのではないか、と思いはじめたのだ。

 そのルサの内心はミコトにも伝わった。

 こんなにも一途に自分の身を案じてくれている後輩を心配させていることを思うと、ミコトの胸は罪悪感にちくちくと痛む。

 彼女は一心に自分を治療しようとしてくれているだけだ。

 他意は一切ない。恥ずかしいと思うこっちの態度の方が恥ずかしいではないか。

 意を決し、ミコトはもぞもぞと動き、あおむけになる。

 本人は心配げだったが、ルサの治療の効果はたしかだった。

 さっきまで指一本動かせなかったのに、いまならば立って歩くのも簡単に思えた。


「あの、ミコト姐様……手をどけていただかないと、治療ができません」

「ご、ごめん」


 そろそろとミコトは両手をももの横におろす。

 ルサと目が合うのが恥ずかしくてぎゅっと目をつむっていたが、何も見えないとかえって緊張感がたかまった。


「ミコト姐様、きれい……」

「……えっ」

「こほん。な、なんでもありません。それでは失礼します」


 ルサは一心にミコトの身を案じているだけ。

 そこに他意はない……はずだ。たぶん。

 ちらりと聞こえた気がしたつぶやきは空耳だろう。

 そう思いたかった。


「ひゃあう」

「くすぐったいかもしれませんが、どうかこらえてください」


 ルサの手つきも先程までと、微妙に雰囲気がことなる気がしたが、気のせいだろう。

 きっと気のせいに違いない。と、ミコトは何度も自分に言い聞かせる。


「……ん、……んん……」


 なにか変な声がもれそうになるのを、ミコトは下唇を噛んで、必死にこらえた。

 いままで受けたどんな修行よりも、ある意味困難な試練であった。


 ―――


 目に見える景色は雄大だが、他の多くの国々と同様、茜燃ゆる国は歩いて十日以上で回れないほど、大きな国ではない。

 しかし、そうでなくとも目的地に辿り着くことはたやすいことだった。

 なにせ、国内のどこにいても、その姿は見えるのだから。


「はぁー、すごい山だねぇ、雲に隠れて頂上が見えないよー」


 ミコトは大口を開けてぽかんと上を見上げる。

 当然のように、サチミタマがそのまぬけな様をからかうが、その言葉も耳に入らないようだった。


「茜燃ゆる国の人々は雲貫山(くもぬきやま)と呼びならわしていたらしいです」


 もしも、この山は神々の住まう天の国につながっていると言われたとしても、その説明を信じてしまうだろう。

 巨峰や大河の多い茜燃ゆる国にあっても、圧倒的な威容だった。


「うへぇ、こんなすごい山、本当に登れるのかなぁ」


 歩き巫女の旅の間には、山岳を越えることも幾度もあった。

 けれども、雲貫山はそれらとは別次元だった。

 岩肌をあらわにした鋭い稜線は気高く猛々しく、見上げる者を遥か高みからねめつけているように思える。

 軽々しくヒトが立ち入ることを拒んで見えた。


「ん。これもしゅぎょう。ふたりともがんばれ」

「もう、他人事だと思ってー」


 ふわふわと宙を漂っているサチミタマを、ミコトは恨めしげに睨みつけた。


「あの……ミコト姐様、本当に行くのですか」


 その後ろから、ルサが気づかわしげに声をかけた。

 ミコトは力強くうなずき返す。


「だいじょーぶだよ。二人で協力すればきっと登れるって。サチやアラミタマくんもいるし」

「いえ、そうではなく……。また、鬼どもの罠ではないでしょうか」


 自身、鬼に身体を乗っ取られたことのあるルサは、その狡猾さをよく知っていた。

 そうでなくとも、あの墓場で相まみえた少女に、ただならぬ気配を感じ取った。

 ほんの一瞬目にしただけなのに、妖気とも霊気ともつかない気配に、胸がひどくざわついた。


「んー、そうかもしれないけどさぁ」


 ミコトは少しの間考えてから言う。


「やっぱり行くよ。だってあの女の子、うまく言えないんだけど、なんだか助けてほしそうな、そんな感じがした。だから……」

「ん。それでいい」


 珍しく、ミコトの言葉にサチミタマが賛意を示す。


「ひとりのヒトをすくえなくて、せかいなんてすくえない」

「そーそー、サチ、たまには良いこと言うー」


 ルサはそっと微笑を浮かべ、うなずいた。


 ―――変わりありませんね、ミコト姐様。


 声には出さずに、胸の内でそうつぶやく。

 かつて鬼への復讐にとらわれ張りつめていた心を溶かし、自分の命を大切に想ってくれる人がいると気づかせてくれた、あの時のミコトのままだった。

 そのミコトが決めたことであれば、それに従おうとルサも決意する。

 けれども、胸の内のざわつきはおさまらなかった。

 この山を登り終えたその時―――、せっかく再会したのに、ミコトがどこか手の届かない遠い世界に行ってしまいそうな、そんな気がしてならなかった。

 とうとう、ミコトが薄明の巫女になる時が来たのだ。

 そう思ってみても、高揚感はまるで湧かない。

 得体のしれない不安がただ募るのみだった。


 ―――ミコト姐様、ルサはもう、独りにはなりたくありません。

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