第七場 光の舞と火天の巫女

 どれほどの寝起きを繰り返したことだろう。

 毎日が宵鬼祭りゆえに、流れる時間は意味をなさない。

 あるいは、ずっと静止した“今日”を繰り返し夢見ているのかもしれなかった。

 ミコトが目を覚ますと、かならず夕暮れ時だった。

 それは大禍時と呼ばれる、妖異達の支配する時間だった。

 日が暮れるまでの間はカタカムナの元で稽古を積み、夜にはやぐらの上で踊り、宵鬼祭りを堪能する。


 繰り返される祭りの中で、ミコトは気づきはじめていた。

 一見浮かれ騒いでいるように見える鬼面の者達だが、その抱く感情は陽気とはまったく真逆のものであることに。

 彼らは皆、堪えきれないほどの怒りと破壊の衝動を祭りの中で爆発させていた。

 それは自分達という存在をこの世に生んだ、世界への憎悪だった。

 決して新たな生命を産みだせず創りあげることもかなわない。

 滅びの衝動のみをその身に抱いた、自身への呪いだった。

 群衆となって寄り集まりながらも、彼らはみな孤独だった。

 そして、その身を焦がすほどに切望していた。

 その破壊の衝動を満たし、彼らを導く指導者の到来を。

 その期待が自分に向けられていることにも、なんとなくミコトは気づき始めていた。

 はやく闇神楽の舞を完成させて彼らの切望に応えてあげたい。

 彼らの痛ましく騒ぎ、叫ぶ姿を見ていると、ミコトはそう思わずにはいられなかった。


「はじめよ」


 厳かに告げるカタカムナの命に応じて、ミコトは扇をかまえる。

 舞いはじめてすぐに、手応えがいままでとまったく違うことに気付く。

 いままで積み重ねた稽古が、カタカムナの指導が、一つに集約され結実していくのを感じる。


「自身が踊ると思うな、大いなる闇にその身を捧げよ。夜よりもなお深く、日輪すらも覆い隠し、一片の灯火すらも残さずに世界を覆い尽くせ」


 カタカムナもまた、ミコトの舞が高みに昇華したのを見抜いたようで、次々と新たな指導を下した。

 師の言葉とともに、おさえがたい広漠とした闇が己のうちに広がるのをミコトは感じていた。無限に広がる空虚な闇と自身が同化していく。

 もはやミコトには舞を舞っているという意識はなかった。

 ただ闇の中を、それと一体になりながら漂い泳ぐ。

 と、どこまでも広がっているかに思えた闇の先に、なにかが見えた。


 ―――あれは、なに?


 そのなにかに引き寄せられるように、ミコトは向かっていく。

 闇に浮かんだその姿はひどく懐かしかった。

 ずっとなじみ親しんでいたはずなのに、遠い昔に生き別れてしまった誰かの姿に思えた。

 短く刈りそろえた髪に快活そうな瞳、慈愛を湛えた微笑。


 それは、天城ミコト―――己自身の姿だった。

 闇の向こうに見えたもう一人の自分は、白い小袖と緋の袴、巫女装束をまとっていた。

 胸元には蒼穹のように涼やかな瑠璃の球を下げている。

 その巫女装束のかたわらには、てのひらにのれそうなほど小さな、紅い着物をまとい、銀のかんざしを差した女の子が浮かんでいた。

 闇の向こうに見えたもう一人の自分は何も語りかけてこなかった。

 ただそっと手を差しだす。


 ―――ああ、そっか、そういうことかぁ。


 とうとつにミコトは全てを悟った。

 ここがどういう場所で、自分が果たすべき役割がなんなのか、過去の記憶の奔流も一挙によみがえった。

 ミコトは闇の中、腕を伸ばし、もう一人の自分と手を取り合った。


「美事(みごと)だ、よくやった」


 カタカムナの声に、ミコトは正気を取り戻した。

 気付くと、全ての力を使い果たし、床にあおむけに倒れていた。

 叱責がとぶのではないかと思わず肩をこわばらせたが、かわりに降ってきたのは初めて聞く師の賞賛の声だった。

 こんなにも感情の込もった声を聞くのも初めてだ。

 ミコトは起きあがり、手にした扇と猿面の師を交互に見やる。


「ついに闇神楽の舞を会得したようだな」


 師の言葉を、ミコトは複雑な胸中が表に出ないように気をつけながら聞く。


「もはや我に教えられることは何もない。

 闇神楽の舞をもって新たな王は生まれ、我らの悲願は達せられるであろう」


 ちょうどその言葉を待っていたように、表からいつもの笛太鼓の音が流れてきた。

 ミコトは深々と頭を下げる。


「あの……カタカムナ師匠、いままでご指導ご鞭撻ありがとうございました」


 そして、後ろをふりむくことなく、階段をかけあがる。


「今夜はお御輿はいい。自分の足でいく」


 外で待ち構えていた鬼面の者達にミコトはそう告げた。

 そして、返事もまたずに駆けだす。

 もう、舞庭までの道のりもすっかり覚えていた。


 歓声の合間を縫って、ミコトはやぐらをとびつくようにしてのぼる。

 今宵は般若面達もやぐらの下に控えていた。

 前座の剣舞など不要と考えているようだった。

 集った鬼面の者達は一斉に舞台の上を見た。

 ミコトが扇をかまえると騒ぐ者は誰もなかった。

 ただ灼けつくような視線がミコトの一身に注がれる。

 カタカムナが宣言した通り、今宵自分達を導く新たな王が生まれることを誰もが予感しているようだった。

 水を打ったような静寂の中、ミコトは宣言した。


「天城ミコト、舞います!」


 応えて太鼓が打ち鳴らされる。

 そして、ミコトは舞った。

 胸中に二人の師の教えがよみがえる。

 オグニは説いた。あらゆる生命を慈しみ、自らを育んだこの世界を愛おしむことを。

 カタカムナは教えた。己が身体にとらわれず、舞を通じて、森羅万象あらゆるものと同化し、観る者の心を導く術を。

 ここにいる鬼面の者達全員に想いが届くことを願い、ミコトは舞う。

 心からの憐れみと慈しみの念を込めて。

 もう、ミコトは気づいていた。鬼面達が自分の手で葬った鬼の魂であることに。

 そしてこの場所が、彼らの妄念が創りだした幻影であることに。

 墓標の下からよみがえり、憎しみの念をこめて自分に襲いかかってきた彼らの姿を思い出す。命を失ってなお、彼らの魂は安らぐことなく、憎悪と破壊の念に苛まれ、現世をさ迷い続けていた。

 だから、ミコトは決意した。

 彼らを導く魂送りの舞を舞うことを。


 ――さみしかったね、苦しかったね。


 ミコトは舞う。

 日差しに温められた春風が、草むらをなでるように。

 おだやかに揺れる夏の海が、さざ波を送るように。

 小さな嵐に舞う木の葉が、大地に降り積もるように。

 純白の雪片が、世界を清め、静けさを鎮(まも)るように。

 たおやかに、あでやかに、見守る者全ての心にそっと両手を優しく差し伸べて。

 ミコトは、舞を通じて見守るものみなの頬をそっと撫で、その胸を抱き、背をさする。

 その嘆きを、その悲しみを全身で受け止め、分かち合う。

 そして、そっと、この言葉を送る。


 ―――もう大丈夫だよ、と。


 誰かが、鬼面を投げ捨てた。

 からん、と乾いた音を立てて、それは地面を転がる。

 それがきっかけだった。波紋が泉の上を走るように、集った者は一人、また一人と次々に鬼面を打ち捨てていった。

 面を捨てた者達は土くれとなり、音も立てずに大地へと還ってゆく。

 暗がりの中その顔は見えないが、ミコトには、鬼面の空虚な闇の奥に、寂しさと安らぎがないまぜになったまなざしを見たように思えた。

 世界を呑みこむまでに膨らみ、過熱しきっていた祭りは、いま静かに終わろうとしていた。


「ばいばい、おやすみなさい、みんな」


 ミコトは小さく手を振り、微笑んだ。

 熱狂の渦を巻いていた群衆も、剣舞を舞った般若面達も、ミコトを起こした宿の者も、誰もそこにはいなかった。

 笛太鼓の音も止み、あとにはがらんと夜闇が広がるのみだった。

 いや―――ただ一人。

 闇の舞の師である、カタカムナが呆然と立ち尽くしていた。


「なんだ、その舞は……」


 ミコトはやぐらから飛び降りると、その姿に向かって深々と頭を下げた。


「舞を教えてくれてありがとう。でも、ごめんなさい。

 わたしはあなた達の王にはなれない」


 ミコトは全ての記憶を取り戻していた。

 だが、この舞は歩き巫女としての使命感から舞ったものではなかった。

 ただここにいる鬼たちに寄せる、その想いからおのずと生まれ出でたものだった。

 世界がどれほどの矛盾を抱え、憎しみを生もうと、ミコトは鬼に同調することなく、彼らを慰め、生まれ落ちた喜びを舞い踊ることに決めた。

 彼らの憤怒も、悲しみも痛いほど伝わった。

 自身、その感情に身を任せられたら、どれほど楽だろうと思う。

 けれどもミコトは選ぶ。自分にとって最も苦難に満ちた、歩き巫女の修行の道を……。


「愚か者が!」


 カタカムナの声音が一変した。とらえどころない作り物めいたものから、化物のものとしか形容できない怖ろしげなものへと。


「天城ミコト、汝はヒトの世で生きる宿命にはあらず。

 我らの王となりてこそ、真の喜びを得られよう」


 この地に来て以来、とろんとまどろんでいたミコトの瞳に生気が宿る。

 そして、きっぱりと首を横に振った。


「ううん、わたしが目指すのは滅びの道じゃない。世界を照らす希望の光になることだよ」


 と、カタカムナの身体が周囲の闇を吸うようにして、ふくらんでいく。

 もはや原型を残すのは、猿面のみであった。その姿はいかなる生物とも似つかない、闇色の異形へと変容する。


「あっ」


 危機を察したミコトがとびすさる。

 が、手にした黒い扇が黒い鞭のようなものへと変じ、ミコトの両手を戒めた。


「光の舞など無駄なことよ。お前は鬼界にとらわれたまま。ここには日差しはささぬ」

「そんなの、やってみなきゃわかんないよーだ」


 ミコトは両手を戒められてもなお、強気に舌を出してみせた。


「我らが王となることを拒んだのなら道は一つ。

 滅亡への道標として、貴様を葬りさるのみだ」


 カタカムナの身体の一部が伸びる。

 触手とも腕ともつかない闇のかたまりがミコトの首筋を狙って、突き出される。


 ―――サチ、どこにいるの。力を貸して。


 ミコトは心の内で呼びかけた。

 その時だった。空がひび割れるのを、ミコトは目撃した。

 夜の闇に染まった星一つない空―――、それがひび割れ、光が差し込んでいる。


「ば、ばかな……」


 カタカムナがうろたえた。そこに、場違いなほど明るい声が響いた。


「ミコト姐様ー!」


 空から降ってきたのは、天女かと見紛うばかりの美しい少女だった。

 けれども、ミコトはその顔に見覚えがあり、絶世の佳人だが女神でも天女でもなくヒトであることを知っていた。


「ルサちゃん!?」


 桜崎ルサは緋の袴をひるがえらせ、ミコトとカタカムナの間にすたりと着地した。

 はるか頭上から降りてきたとは思えない軽やかさだった。

 その手にはすでに薙刀に変化したアラミタマが握られていた。


「ぐぬう……」


 カタカムナが苦痛のうめき声を上げた。 

 ミコトの首を狙った闇の腕がきれいに切断されていた。

 着地と同時に放ったルサの一撃によってだ。

 それは、ミコトですらかろうじて捉えられたほどの素早い剣撃だった。


「お久しゅうございます、ミコト姐様」


 不気味なカタカムナの姿にもまったく動じることなく、ルサは略式ながら巫女の拝礼をミコトにむけた。

 そして、、ルサの傍らには小さな紅い着物の女の子がふわふわと浮かんでいた。


「サチ!」


 再会を喜び合おうと諸手を広げるミコトに対し、サチミタマは冷めた声でぽつりと言う。


「ミコ、へんなかっこ」


 その言葉に釣られ、ルサの視線もミコトの全身に注がれた。


「ミコト姐様……その、なんていうか……せくしぃです」

「うわわわわ、二人とも、じっと見ないでよぉ」


 感覚がマヒしていたミコトは、自分がどんな格好をしていたかをあらためて思い出した。


「馬鹿な、我が鬼界には何人たりとも出入りはできぬはず……」


 己の術が破れたことに、カタカムナは呆然としていた。


「ふっ、ルサの力を鬼どもの常識で押し量られては困ります」


 強気に鼻を鳴らして、傲然とルサは言い放つ。


「さて、積もる話はたくさんありますが、まずはここを出てからに致しましょう」

「ぬかせ、小娘がッ」


 憤怒の声とともに、カタカムナの黒い異形が膨らむ。

 その猿面から巫女の法術とは異なる不気味な鬼術の文言が紡がれた。

 それとともに、周囲の景色が歪む。

 ミコトは全身を巨人の手で押さえつけられたような重圧を感じた。

 立っていることもままならず、地面に倒れ伏す。


「……う……ぐぐ……」

「ふはははは、ここは我が鬼界の内、おぬしらは檻の中の小鼠も同然よ」


 なんとか立ち上がろうと力を込めるが、首の向きを変えることすらかなわない。

 サチミタマも同様だった。小さな身体が地面にはりついている。しかし―――、


「だから鬼界なんてルサには関係ないんです」


 桜崎ルサの声は涼しげなものだった。

 先ほどまでとまったく変わらない様子で薙刀を構えている。


「ば、馬鹿な……」


 表情は猿面で分からないが、カタカムナは再度の驚愕の声を上げた。


「ルサは決めたのです。

 ミコト姐様が薄明の巫女となられるなら、ルサはその行く道に火を灯す火天の巫女となろうと。

 だから、姐様の前に立ち塞がるものには、容赦しません!」


 ルサの構える薙刀の刀身に、霊気の炎が灯る。

 そして、ルサは一息に駆けた。


「はあッ!」


 裂帛の気合いとともに、カタカムナの猿面を、その異形を、一刀両断した。

 鬼術のため全身を広げたその姿勢のまま、カタカムナは断末魔の絶叫を上げ、四散した。

 それと同時に、ルサが先ほどつくった空のひびが世界全体に広がる。

 そして、硝子が砕けるように周囲の光景が消え去ってゆく。


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