第四場 鬼面夢うつつ

「―――ほへ?」


 柔らかな寝台の上で、ミコトは目を覚ました。

 高い天井が目に入る。

 清潔だが手狭な小部屋。

 造りからして、どうやら宿の一室のようだ。

 

 気を失う寸前までのできごとを、ミコトははっきりと覚えていた。

 鬼に迫られた焦りと緊迫感もたしかに肌に残っている。

 夢だったのだ、と誰かに言われたとしてもにわかには信じられない。

 むしろ、いまこの時が夢であるかのように、ふわふわと意識が定まらなかった。


「―――サチ!?」


 はっとして、ミコトは勢いよく半身を起こした。

 が、それに応える声はなかった。

 朝に弱いサチミタマがまだ寝こけているのかと思うが、周囲を見回しても紅い着物の姿はない。


 ミコトの脳裏に、黒く染まり、いまにも砕け散ってしまいそうだった剣の姿がよぎり、不安を駆り立てる。

 もしや直刀の姿で腰にささってでもいないかとミコトは視線を下げ―――、


「はいぃぃぃ?」


 すっとんきょうな声が思わず漏れた。

 自分の格好に気づいて、だ。


 それはいつもの巫女装束ではなかった。

 一番近いのは遊芸者の踊り子であろうか。

 上衣が白で、腰から下が朱色、という配色だけは巫女装束と同じだったが、似ているのは色合いだけだ。

 白衣は襟元がおそろしく開き、複雑なひだをつくっている。

 それも腰より上までの丈しかなく、おへそが丸見えだった。

 胸元が申し訳程度に覆うように大胆に開いているのに反して、袖口は広くだぼだぼで、優雅ではあるが機能的とはいえない。


 小袖、というよりも羽衣といった方がぴったりくる。

 布地は薄く、その下の肌が透けて見えてしまいそうだった。

 腰元はもっと大胆だ。

 ほとんど紐でしかない、切れ込みが腰元まで深く入った赤い布をまとっているだけなのだ。少し動けば、不安げにゆらゆらと揺れて、脚の付け根の、かなりきわどい部分まで風にさらされる。


 儀式めいたある種の神聖さを感じさせなくもないが、それよりも圧倒的に扇情的な姿だった。


「なにこれぇー!?」


 ミコトはすがるように部屋の中を探るが、巫女装束はおろか、下着の類すら見つからない。

 いっそ裸でいる方がまだ恥ずかしくないかもしれない、とミコトは半ば真剣に思い悩んだが、さすがに羽衣と腰布を取り去る勇気はもてなかった。

 と、部屋の扉をこつこつと叩く音がした。


「ひゃ、ひゃい!」


 ミコトは返事、というよりも驚いて反射的に声を上げていた。


「ああよかった。起きられたんですね。もうすぐ祭りが始まってしまいます。

 起こしてさしあげたものかどうか、迷っていたのですよ」


 声は人の良さそうな中年の男のものだった。

 扉を開けることはなく、その気配も遠ざかっていく。

 どうしたものか、とミコトは悩む。


 が、判断をくだすにはあまりにも状況がわけわからなすぎた。

 なによりも、こんな時、口うるさいながらもアドバイスをくれるサチミタマがいないのが不安だった。

 ともかく、部屋でじっとしていも何も起こりそうになかった。

 意を決してミコトは扉に手をかけた。

 男に自分の格好を見られるのは問題だったが、衣類が他に見当たらないのだから仕方なかった。


 やはり自分がいたのは宿の一室のようで、部屋の外には同じような扉と狭い通路しかなかった。

 階下に降りてみると、下の階も典型的な宿屋のつくりであった。

 ミコトは自分に声をかけたとおぼしき男を見つけた。

 瞬間、驚きの声をあげる。


「あ、鬼っ!?」


 ほとんど反射的にとびすさり、身構える。

 男の顔は明らかに人間のものではなかった。

 怒りを宿した昏い瞳。耳まで裂けた口に、鋭い牙。

 そして頭から生えた一対の角。

 が、男は邪気とはほど遠い様子で、笑い声をあげた。


「やだなあ。ご説明さしあげたじゃないですか。祭りの間は皆この面を付けるならわしだ、と」

「……お面?」


 言われてみればたしかに、男の首から下は鬼には見えない。

 やや小太りの、ごく普通の男性のものだ。

 けれども、お面と言われてもにわかには信じられないほど、その顔は精緻な造りだった。


 数多の鬼と渡りあったミコトですら、本物の鬼と見間違えるほどだ。

 まるで顔だけで生きている鬼が人間の身体を乗っ取ったみたいで、見ていてあまり心地良い眺めではなかった。


「おお、思った以上によくお似合いですな!」


 鬼面の衝撃で、ミコトは自分の格好を忘れていた。

 いや、とミコトは身じろぎするが、身を隠してくれるものはなにもない。

 せめてもの抵抗で袖を交差させて、透けて見えそうな胸元を隠す。


「さように恥ずかしがらなくてもよいでしょう。これほど美しい闇神楽の巫女様はついぞ見たことがございません」

「ヤミカグラノミコ?」


 男はさも当然のように言うが、ミコトにとっては初めて聞く単語だ。

 何もかもわけがわからなかった。

 これが夢だというなら、早く目覚めてほしかった。


 が、男はそんなミコトの困惑にまったく構わず、鬼面を近づけ、ミコトの姿を上から下まで眺めまわす。

 ミコトは両手で男を押しのけたい衝動をかろうじてこらえた。


「うんうん、これならどこも問題ないでしょう。

 さあ、祭りがはじまってしまいます。はやく、表へ」

「そ、そんなことより!」


 男に背を押されそうになり、ミコトは声を上げた。


「サチ。……サチミタマっていう、紅い着物のこんなちっちゃな女の子、見ませんでした!?」


 訊きたいことは山ほどあったが、一番気がかりなことをミコトはまず口にした。


「ああ、お連れさんですか。それでしたら先に祭りの広場に行っていますよ」


 男はなんでもないように言う。

 面で表情は分からなかったが、嘘をついているような口ぶりではなかった。


 そうかといって、ミコトはその言葉をそのまま信じる気にはなれない。

 サチミタマは寝坊しがちだし、口ではいつも文句ばかり言うが、歩き巫女の従者という役目をおこたることは決してなかった。


 旅のあいだ、サチミタマがミコトを本気で置いて、どこかへ行ってしまったことは一度もない。

 歩き巫女は孤独な旅人だが、その魂の片割れである従者とは常に一緒だった。


「ほんとのことを教えて下さい! サチはどこですか」

「本当のこととおっしゃられても……。ですから、先程申し上げたとおり―――」

「サチ、鬼の穢れを吸いすぎてかなり危ない状態だったの。わたしも鬼に囲まれてたし、宿をとった覚えもないし、こんな服着てる意味もわからないし、祭りとかヤミカグラノミコとかなにがなんだかわけ分からないよぉ」


 一度疑問を口にすると、堰を切ったようにあふれる。

 男に問う、というよりも混乱を誰かにぶつけたいような思いだった。

 男はミコトが落ち着くのを待ってから、ゆっくりと口を開く。


「どうやら、色々とご苦労をされているようですな。

 ですが、今宵は宵鬼祭り。どうか浮世の苦しみは忘れ、闇神楽の巫女を楽しまれてはいかがですか」

「楽しんでなんかいられないよ! サチはどこ?」


 ミコトがこれほど苛立ちを感じるのは、ごく珍しいことだった。

 が、男はミコトにひるまず、真正面から見返す。

 これは本当に、ただのお面なのだろうか、とミコトは疑問を感じ始めた。

 面にしては、その向こうの瞳がまったく見えない。

 本来眼があるはずの空洞には、ただ空虚な闇だけが広がって見えた。


「―――お忘れ下さい(・・・・・・)」


 男の言葉と同時、ミコトは鬼面の奥に広がる闇に呑まれるような感覚を覚えた。


 ―――あ、あれ。


 心の中にもやがかかったような感じがした。

 腰を抜かした時の感覚に似ている。

 いくら力を入れようとしても、立ち上がれない。

 それが腰ではなく、頭の中で起こっている、そんな状態だった。


 扉の外から、ミコトに誘いかけるように、笛や太鼓のにぎやかな楽曲が流れてきた。


「おお、どうやら祭りが始まろうとしているようです。さあ、早く、みなあなたをお待ちです」

「……うん」


 依然として心の奥底では疑念の山が渦巻いていた。

 けれども、ミコトは一つうなずき、扉を開け放っていた。

 自分の心がばらばらに分解されて、欠片をどうつなぎ合わせていいのか分からなくなったような心地だった。

 宿の男はミコトを送りだし、恭しく腰を曲げてみせた。


「どうかお愉しみを。

 全てを忘れ―――、そしてお目覚めくださいませ。

 我らが真の王として」


 その街並には見覚えがあった。

 足を踏み入れたばかりの茜燃ゆる国の王都、まほろばの都であった。

 けれども、そこは無人の廃墟ではなかった。

 建物は倒壊しているどころか活気に満ち、通りは人であふれかえっていた。

 道行く者がみな鬼の面をつけていることをのぞけば、どこまでも平和な光景であった。


「……なんで?」


 その光景に、ミコトの困惑はますます深まってゆく。


「闇神楽の巫女様がお見えだぞ」


 と、誰かが通りの真ん中で立ちつくすミコトの姿に気づき、喝采を叫んだ。

 それがきっかけだった。たちまちのうちに熱狂の渦がミコトを取り巻く。


「闇神楽の巫女様を御輿にお載せするんだ」

「おう、気合いれろよ、若い衆」

「え、ちょ、ちょっとなにー?」


 あれよあれよというまに、ミコトは人の海をぬってやってきた御輿の上に担ぎあげられた。抵抗しようにも周囲を鬼面に囲まれ、ほとんど半裸に近い肌に触れられるのもいやで、最後

 は自ら乗り込んだようなものだった。


 壮麗な御輿だった。

 ちょっとした民家くらいの大きさがある。

 全体に金箔がまぶされ、金糸、銀糸で華麗に彩られていて、それ自体が小さな神殿のようだった。


「うわっぷ」


 ミコトを載せた途端、大きな御輿は鬼面の男達によって軽々と担ぎあげられた。

 かけ声に合わせ激しく上下に揺り動かされ、ミコトは高い景色を楽しむどころではなかった。振り落とされないように縁にしがみつくのがせいいっぱいだった。

 そんなミコトにおかまいなしに、御輿を担いでいる男達も、そこに寄り集う群衆も歓声をあげていた。


 表情は鬼面でまったく分からなかったが、熱狂が渦巻く気配は伝わってくる。

 と、通りの両脇に一斉にかがり火が灯された。

 宵の薄暗さを呑みこむような、轟々とうなるほどの炎だった。

 夜のとばりが落ちると、祭りの熱狂は一段と高まった。

 笛太鼓は人々をがむしゃらにあおりたてるように吹きならされ、それに応じて人々も唄とも怒鳴り声とも吠え声ともつかない声をがなりたてる。


「闇神楽の巫女様を舞庭にお連れするぞ」


 威勢のよい声で、誰かがそう呼ばわった。

 大きな団扇と蒲鉾を持った鬼面の男達が、御輿を先導する。

 それに合わせ、御輿は猛烈な速さで疾走した。

 集う人達を轢き殺さんばかりの勢いだった。


「ふやあぁぁぁ」


 めったなことでは弱気を見せないミコトには珍しく、か細い悲鳴を上げる。

 が、あまり口を開くと舌を噛みそうだった。


 群衆は興奮と恐怖の混じった声を上げる。

 御輿の進路から逃げるものと、その御輿を追いかけるものの渦がさらなる混乱を呼ぶ。

 ミコトは誰か御輿に轢かれたりしてないか、本気で心配になった。

 暗がりの中、そんな狂乱のありさまだったから、ミコトには御輿が街の中のどこをどう辿ったのかまったく分からなかった。

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