第十場 あたたかな夢の中で
また また同じ夢だった。
がれきと化した神殿。炎の渦の中、ルサは独り取り残されていた。
既にルサを育てた神官達の姿はない。
忍び寄る恐怖と孤独。
―――熱い、怖い、寂しい。
どれだけ泣き叫んでも聞き届けるものはいない。
そうとは知りつつも、涙がにじんでくる。
ルサがいまにも声を上げ、泣きだしそうになったその時だった。
「ルサちゃーん!」
大音声で自分を呼ぶ声が聞こえた。
顔を上げると、少年のように短く髪を切りそろえた、いかにも快活そうな巫女の姿が見えた。
ルサはその名を知っていた。
天城ミコト。旅の間に出会った、もう一人の歩き巫女だ。
だが、なぜ。
何故、ルサの故郷たる渦潮轟く国に彼女の姿があるのだろう。
ルサの内心の疑念をよそに、ミコトは炎の渦などものともせず真正面からルサに駆けよる。
そして、走ってきた勢いそのままに、きつくルサを抱きしめた。
「う……ぐ……く、苦しい」
「もう大丈夫だよ。ルサちゃんは一人じゃないよ。だから泣かないで!!」
ルサのうめき声に気づかずに、ミコトはその細い身体を抱き続け、鴉の濡羽のような黒髪をなでる。
ルサが酸欠であえぐその直前、ミコトはぱっと身を離し、迫りくる炎の壁に向き直った。
その手にはいつの間にか、艶やかな朱塗りの扇が握られていた。
『悪鬼のまやかしよ。この者の内から、とく去れ』
呪法の文言とともに扇を右から左に大きく振るう。
と、その風に吹き飛ばされたように、炎もがれきの山も一瞬で消えてしまった。
その後に見えたのは―――
視界いっぱいに広がる海の景色だった。
陽の光を反射して真珠粒のように輝く海原。
どこまでも遠い水平線。
白浜は鉄板のように熱い。
ルサはこの場所を覚えていた。
あれは八つの頃だったろうか。
父とも慕い、師とも仰いだ神官。名をアワナギという。
彼に連れられ、ルサはこの砂浜にやってきた。
ルサの育った「渦潮とどろく国」は、その名のごとく激しい潮流がうなる海峡に囲まれた島国だ。
しかし、アワナギが連れてきたこの浜辺は穏やかそのもので、波も高くなかった。
アワナギとルサの他には、この日特に大きな用務のない巫女数名が同行していた。
「御父様、ここでどのような修行をするのでしょう」
あまりにものどかな光景をいぶかしく思い、幼きルサは問う。
既にして彼女は、歩き巫女の命運を背負うべく英才教育を受けていた。
それもオグニ長老以外の神官達はどこか甘やかされがちだったミコトと違い、日々血のにじむような修行の日々であった。
滝に打たれ、火の渦に呑まれ、泣きごとを口にすることは許されなかった。
それでもなお、生まれながらに責任感の強かったルサは養父であるアワナギを慕い、恨みに思うことは一度もなかった。
この時、アワナギはうむ、とルサの疑念に返事をしたものの、口ひげをいじりながら言い淀む。
ルサの知るかぎり、アワナギが何かを口ごもるのははじめてのことだった。
「今日はな、何もしない」
「は?」
きょとんとするルサに、巫女達がかたわらから言葉を添えた。
今日はルサが神殿に拾われてちょうど八年目になる。
だから、この日を誕生日と定めて、この日一日くらいは厳しい修行は休みにして、思いっきり遊んではどうかとアワナギが計画したのだ。
「わしらには……他にしてやれることも、なにもないゆえ、な」
アワナギは強いていかめしい声音を作って言う。
それが照れ隠しなのだと知る巫女達は、こっそりと忍び笑いを漏らした。
きょとんとしたルサだったが、目の前に広がる青い海の誘惑には抗えなかった。
最初は遠慮がちに波打ち際で遊んでいたが、やがてこらえられなくなり、巫女装束を全部脱ぎすてて、思う存分泳ぎ回った。
日が暮れるまで飽きもせずルサは海にいた。
他の巫女達もルサの遊び相手をつとめた。
厳しい修行によってではなく、遊び疲れて眠ってしまったのは、あとにもさきにもこの日だけだった。
帰り道はアワナギの背におぶわれて帰った。
まどろみの中でも、そのたくましく温かなぬくもりははっきりと覚えていた。
―――
「御父様、みんな……」
ルサはその思い出をかみしめるように、海へと歩み寄り、そっと波打ち際に手をひたした。
砂をさらい、指をくすぐる波の感触が心地良かった。
「ルサちゃん」
呼びかける声に我に返り、ルサは後ろを振り向いた。
ミコトは優しげなまなざしで微笑んでいた。
「歩き巫女は寄る辺ない孤独な旅だけど、送り出してくれたみんなの心はずっと見守っていてくれる。だから……」
ルサは驚きに、かすかに目を見開いた。
ミコトの背後に、義父であり師でもあるアワナギをはじめ、神殿の者達全員の姿が立ち並んで見えたのだ。
彼らはミコト同様、優しくおだやかな目で微笑んでいた。
そのまなざしには、彼ら全員の愛娘であるルサに捧げる愛情が溢れていた。
神殿の者達の姿はすぐに立ち消え、見えなくなってしまう。
それは夢が見せた一瞬の幻だったのかもしれない。
けれどもルサは、寂しさよりも胸が温かくなるような安らぎを覚えた。
あれほど己の内に渦巻いていたはずの孤独感が嘘のように消えていた。
世の不条理を憎む心もまた、一片たりとも残っていなかった。
たしかに、神殿を業火に包み、彼らを殺したのは鬼の仕業だ。
だが、為す術なく逃げるしかなかったのは、ルサ自身の弱さゆえだった。
自分は強くならなければならない。
この身に人の未来を託して送り出してくれた、故郷の島の皆のためにも。
「ルサちゃん……」
ルサが胸中決意を固めたその時。
再度、ミコトが呼びかける。
ルサは顔を上げ、真っすぐにミコトの瞳を見つめた。
思えば、このもう一人の歩き巫女の姿と正面からしっかり向き合ったのは、これが初めてだった。
そして、気づく。
自分がただ、ふてくされていただけであったということに。
自分一人が、鬼を滅ぼし、世界を救いうる、運命を託された特別な英雄だと思っていた。
それを誇り、また驕ってもいた。
だから、認められなかったのだ。
もう一人の歩き巫女という存在を。
「はい。やっと気づきました。神殿のみんなは、ルサのここにいます」
ルサは、自分の胸にそっとてのひらを押し当てた。
「うん。じゃあ、いこっか、ルサちゃん」
「はい!」
自分でも驚くくらい素直な声で、ルサはうなずいた。
そして、懐かしく心地良い夢から目覚める。
目覚めてもなお、ルサの胸の内にはうずく夢の余韻があった。
温かく切なく、意識を醒ますのがもったいなく、忘れてしまいたくないと思う、そんな夢心地だった。
けれども、いつまでも感傷にふけっている事態ではなさそうだ。
「あれ?」
ルサは自分の手足が自由に動かせることに気づいた。
ルサの魂を覆い尽くし、存在をかき消そうとしていた鬼の気配が、自分の中から消えている。
前を向いた。
すぐ前方に、黒い霧がわだかまっていた。
「……お……の……れ……」
たしかな形を作ることができず、声をしぼりだすのもやっとという状態の瘴気の塊。
それが自分の身体を乗っ取っていた鬼の正体だとルサは気づく。
それは、あまりに強力な妖気に着ぶくれて確かな形を持てず、人の器を乗っ取ることでしか活動しえない、憎悪の念の集合体だった。
と、いまや黒い霧のかたまりと化した鬼の前に、ミコトがすっくと立った。
「人と鬼は一緒にはいられない。だから―――ごめんね」
手にした扇が光り輝き、再び剣へと変わる。
ミコトはためらうことなく鬼を両断した。
黒い気体が光に覆われ、弾けとぶ。
ルサは複雑な面持ちで地に目を落とした。
鬼に身体を奪われるなど、屈辱でしかない。
だから、その鬼が滅び去っても、胸の内がすくことはあれ、同情の念など湧きようがない。そのはずだった……。
けれど、鬼が抱いていた憎悪の念、破壊の衝動。
その根幹は彼女が持っているものと同じだった。
鬼を憎む心が新たな鬼を生んだとしたら、ルサにとっても鬼の死は他人事ではなかった。
罪悪感のようなものが、胸をつかえさせる。
「ルサちゃん」
呼びかけに、はっとルサは顔を上げた。
その瞬間、平手がとんでルサの頬を張った。
全身の傷よりもなお、じんと痛んだ。ルサは悄然とうなだれる。
「……すみません。ルサがひとり抜けがけしようとして、あなたにも迷惑を」
「そんなことどうでもいいよ!」
あまりにミコトの声が強かったから、ルサはびくりと肩をすくませた。
と、ミコトは恥も外聞もなく、ぼたぼたと大粒の涙を流してルサの肩をつかむ。
「もう少しで死んじゃうところだったよ。ルサちゃんは、世界でやっと会えた、たった一人の歩き巫女の仲間なんだよ。ルサちゃんが死んじゃったら……悲しいよぉ」
「……ごめん……なさい……」
さっきよりも、ずっと素直に、心を込めてルサは謝った。
不思議だった。
故郷を失ってから、誰にも心を委ねようとしなかった。
同情の念など、まっぴらだった。誰かに頼ることは、心を弱くすること。
そう自らに念じていた。
なのに、ミコトには抵抗する気が起きず、自分からその胸に飛び込んでいた。
自分でも気づかぬうちに、ルサの頬も濡れていた。
一度涙が流れると押しとどめようがなく、とうとう声を上げてルサは泣きだした。
それは、ルサが鬼に追われ島を出てから、初めて流す涙であった。
ミコトの腕に抱かれていると、心が安らいだ。
胸の奥から暖かな想いが湧きあがってくる。
海での帰り道、アワナギの背におぶわれた時と同じ安堵感に包まれる。
自分は一人じゃない、とはじめて心から思えた。
鬼が世界を覆い尽くし、人々が細々と肩を寄せあい、隠れ住むしかない時代。
そんな世界でも、彼女と一緒なら大丈夫、となんの根拠もなく信じられた。
まるで日差しのような人だ、とルサは思う。
―――日差し……!?
不意に、ルサは悟った。
―――そうか、この人が……。
この人こそが、世界をあまねく照らすという薄明の巫女となる人なのだ。
そう悟ると、いままで片意地を張って対抗心を燃やしていた自分が無性に恥ずかしくなった。
相手の名前を呼ぼうとして、ルサは気づく。
いままでミコトの名を一度もちゃんと呼んでいなかったことに。
「天城ミコト……様」
「え、ええ!? なにそれぇ」
ルサの呼びかけに、ミコトは涙を袖で乱暴にぬぐい、おかしそうに笑った。
「ミコトでいいよぉ。同じ歩き巫女の仲間なんだから」
「そうはいきません。ミコト様は薄明の巫女となられる御方なのですから」
「へっ? そんなのまだ分かんないよぉ。ルサちゃんがなるかもしれないし」
「いいえ。ルサには分かったのです。薄明の巫女となるのにふさわしい方はミコト様以外いません。そうでなくとも、ミコト様は年上で歩き巫女の先輩なんです。呼び捨てなんて断じてできません」
ルサの態度の急変に驚きながらも、ミコトは「様」付けを断固拒否した。
しばし、二人の押し問答が続く。
その背後では、サチミタマと、意識を取り戻したアラミタマが肩をすくめあっていた。
「……分かりました。では、こう呼ばせてください」
言い合いが平行線をたどり、ルサはしばし考えた。
そして、思いつく。
家族と故郷を失い、唯一心を寄せられる年上の同性にかける、思慕と親しみの念を込めた呼び名を。
が、思いついたものの、口にするのは思ったよりも恥ずかしく、口をもごもごさせる。
ややためらったのち、意を決してルサは口を開き―――、
その名を呼んだ。
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