第九場 救出

 鬼に心と身体を支配されながらも、なお意識の底に、桜崎ルサ本人の自我があった。

 そのルサの意識が、自分を追ってやってきたのだろう、ミコトの霊気を感じ取った。


 ―――来てはだめです!


 そう懸命に叫ぼうとするが、黒々とした妖気におさえつけられ、指一本動かすこともかなわなかった。

 ほどなく、堂の入口にミコトが姿を現した。

 その手にはすでに剣へと姿を変えたサチミタマが握られ、まとう衣装も戦闘用のものだった。


「ルサちゃん!?」


 堂の中の光景に、ミコトは衝撃を受けた様子だった。

 が、すぐに迫りくる鬼と対峙する。


「やあぁぁぁッ」


 裂帛の気合い一閃。

 ミコトは鬼を斬り捨てていった。

 その太刀捌きには一片の淀みもなく、さながら清流のごときであった。 


 ―――は、疾い!


 もしも、鬼に身体を乗っ取られていなければ、ルサは瞠目していたことだろう。

 ほとんどがすれ違いざまの一刀で、余計な力の一切抜けたその様子は、舞踏のように優雅だ。

 鬼の間合いに深く踏み込みながらも危うげがない。

 ほとんど相手の鬼が止まってみえたほどであった。


 ルサが苦戦の末に討ちとったのと同じ鬼たちが、次々に倒されてゆく。

 こんな時でありながら、ルサは思わず見惚れてしまった。

 美しい、とただ純粋に思う。

 凶刃の殺気はまるでない、どこまでも静かな戦いだった。

 ルサも修行を積んだ自分の戦いに自信を持っていたが、ミコトの戦いぶりに比べては童の遊戯にも等しかった。

 ミコトの放つ霊力にも無駄がなく、ほとんど消耗している様子はない。


「待っててね、ルサちゃん」


 全ての鬼をほふったミコトは、両手足を戒められているルサに向きあう。

 鬼と意識が同化したルサは、鬼の企てにも気づいていた。

 戒めを解き放たれた瞬間、ミコトに向かって倒れこむふりをして、妖気のこもった爪を突きさすつもりだ。

 気づきながらもどうしようもない。

 せめて警告の一語も発することができれば、と願うが鬼の支配から抜けだす術はなかった。

 案の定、ミコトはルサがそうしたのと同じように蔦を切り払った。

 ルサの身体がよろけ、ミコトの方に倒れる。



 ―――瞬間。

 鋭い金属音が堂内に鳴り響いた。

 鬼の突き立てた爪を、ミコトが剣で受けとめたのだ。


「待っててね、ルサちゃん。いまそいつを追い出すから」


 なんでもないように、ミコトは再びそう言った。

 狼狽したルサの内の鬼は、もはやなりふり構わず、口から妖毒の霧を吹く。

 が、これもミコトはなんなく跳びすさってかわした。

 二人の距離が一時的に開く。


「おのれ、わらわに気づいておったのか」


 はじめて、鬼がミコトの前で口を開いた。

 声はルサのものだが、四肢にねっとりと絡みつくようなその口調は、本人とは似ても似つかない。


「気づくに決まってんじゃん。そんなに妖気をぷんぷんさせたら」


 これには鬼とともに、ルサの意識も驚愕した。

 最初に娘と対峙した時、ルサはまったく妖気を感じなかった。

 それほど鬼の気配を消す術が優れていたのだ。

 しかもいまは、ルサ本来の霊気をまとうことで、さらに妖気はその影に覆われているはずだ。


 ―――巫女としての格が違う。


 ルサはそう認めざるをえなかった。

 もっとも、種を明かしてしまえば、ミコトがいち早く鬼の存在に気づけたのは、首に下げた東風玉のおかげだったのだが。

 ルサの危難を知ることができたのも、東風玉が警告を発するように黒々とした光を放ったからであった。


「じゃがどうする。わらわを斬るということは、この娘を斬るのと同じことぞ」


 鬼はいくぶん余裕を取り戻し、言う。

 その言葉に、ルサは死にたくなるほどの恥辱を覚えた。

 憎むべき鬼に身体を乗っ取られた上、人質の扱いを受けている。

 完全に歩き巫女失格だった。

 ただただ、自分の甘さを呪う。

 ミコトの実力なら、自分と同化したこの強力な鬼にも引けをとらないだろう。

 だが、手加減して勝てる相手とも思えない。


 ―――どうか、一思いに斬り捨てて下さい!


 叶うなら、力の限りそう叫びたかった。


「だーかーらー、追い出す、って言ったじゃん」


 こんな状況でも、ミコトの声はまったく切迫していない。

 聞きわけない子どもに言い含めるかのように、同じ言葉をゆっくりと繰り返す。


「サチ、頼んだ」


 ミコトが呼びかけると、手にした剣が紅い輝きをまとった。

 一瞬のちにサチミタマが変じたのは、武具ではなかった。

 堂の灯に映える朱塗りの面が鮮やかな、一枚の扇であった。


「……なんじゃ、それは。そんなものでどうしようというのじゃ」


 怪訝そう、というより小馬鹿にしたように鬼は言う。

 正直に言って、鬼の疑問はルサにとっても同様だった。

 魂の従者が武器以外のものにも変化すると知ったのも、はじめてだ。

 まさかそれであおげば鬼が出ていく、などということはないだろうが……。


 だが、なにかの術をしかけようというように、扇を中心にミコトの霊力が強まっているのも感じられた。

 させじと、鬼はミコトに襲いかかる。


「わっ、ととっ」


 傀儡の鬼たちよりはるかに速く、妖力も鋭い。

 ミコトはその猛攻をよけかわすが、先ほどまでのような余裕は感じられない。

 なにかを仕掛けたいが、その間がない。

 そんな様子だった。


「ごめん、ルサちゃん。わるいけど、ちょっとだけそいつの動きおさえてて!」


 ―――は?

 なにを言っているのですか、とルサはいまこそ声を出したかった。

 ルサの身体どころか、魂のすみずみまでもいまや鬼のものだ。

 ルサの自我はかろうじてその片鱗に残っているに過ぎない。

 それもこのままでは、さほど時を経ずに鬼の妖力に屈し、消えてしまいそうだった。


「大丈夫、修行を積んだルサちゃんなら絶対できるよ、ね」


 ミコトの声音はどこまでも楽天的なものだった。


「茶番もたいがいにせよ。この美しき娘はわらわのものじゃ」


 業を煮やしたように鬼の攻撃が激しさを増す。

 ルサの身体をしていても、その膂力は鬼のものだ。

 だが、ルサの意識はもう、鬼とミコトの戦いには向いていなかった。


 ―――なんというムチャぶりでしょう。


 ミコトの要求に呆れ果ててしまう。

 けれども不思議だった。

 そのどこまでも明るく前向きな声で「できる」と太鼓判を押されてしまうと、できて当然という気がしてきた。

 ルサのプライドもそう言われて「出来ない」とは言わせなかった。

 ミコトの戦いぶり、勘の鋭さに感服したものの、歩き巫女としての矜持までは捨て去っていない。

 なにより、このまま憎き鬼に支配されたまま、というのが我慢ならなかった。


 もはや風前の灯火だったルサの自我が、鬼の魂に抗うことを決意した。

 それは真夜中の海中で渦潮にもまれるのにも等しい行為だった。

 少しでも流れに抗おうとすると、圧倒的な質量をもった闇が、憎しみの念をもって自我を押し流そうとする。

 その憎しみの念に同化してしまいたいという欲求は、たえがたいほど甘美な誘惑だった。

 何もかもを忘れて全てを滅ぼしてしまいたい。

 鬼も、巫女も、人の世界も、全てだ。


 けれども、ミコトの声を標として、ルサの意識は自分を支配する鬼の力に抗いはじめた。

 闇の潮流の境目を見極め、懸命にその身をねじこもうとする。

 憎しみの念はいまや激痛となってルサの意識に襲いかかった。

 生きたまま針の城に全身を串刺しにされたとしても、これほどの激痛ではないだろう。

 声にならない絶叫をルサは上げた。


 ―――う、あああああ。

 こ、こんなもの……、神殿のみなの痛みに比べれば……。


 心の内に絶叫を上げながらも、なおもルサは闇の激流に逆走する。


「ぬ……」


 爪をふりあげたその姿勢で、鬼の動きが止まった。

 それは一刹那のできごとだった。


「ナイスだよ、ルサちゃん!」


 しかし、その刹那にミコトは鬼から距離を取り、扇を構えた。

 そして、高めた霊力をその身にまとい、扇をひるがえすと―――悠然と舞いはじめた。

 舞とともにミコトの口から言葉が紡がれる。

 それは術法の文言ではなく、ただの唄声だった。

 子守唄に似た響きをもった歌声は、はじめて聞くはずなのに、なぜか懐かしく切なく、ルサの意識をざわつかせ、郷愁をかきたてた。

 鬼の眼を通じて、巫女の舞う姿がルサの視界に映る。

 寄せては返すさざ波を思わせる静かな舞だった。

 ゆっくりと優しく歌声を包みこんで送るようなその舞は、見ているだけで心を幽玄のかなたへと導いてゆく。

 別の言い方をすれば、とても眠くなる。

 いつしか、ルサの意識は日差しにあたためられた布団にくるまれるような心地良さとともに、眠りについていた。

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