第八場 憑依

 ルサはのしかかる疲労感に耐えきれず目を閉じかけた。

 その時、思わぬ声が耳に届いた。


「そうつれないことを言わず、今この場で礼をさせてくりゃれ」


 その声がどこからしたのか、一瞬ルサには分からなかった。

 はっとして跳びのこうとするが、それよりもはやく腕が伸び、ルサの喉元を押さえつけていた。


「……ぐっ」


 激しく床に打ちつけられ、ルサはうめき声をあげた。


「おやおや、こうして間近で見ると、ほんに美しいのぅ」


 声の主は、さきほどまで座りこんでいたはずの娘であった。

 おどけたような口調と裏腹に、ルサの首をおさえつける腕には鬼気迫る膂力が込められていた。

 伸ばした腕でルサの首をつかみ、そのまま宙に持ち上げる。


 先程までとはまとう空気が一変していた。

 両の瞳が鈍い赤色に光る。

 妖艶、と呼ぶにはあまりに禍々しい笑みを浮かべ、娘は妖しく光る瞳でルサを見やる。

 ルサはなんとかふりほどこうともがくが、細腕とは思えぬほどの膂力で持ち上げられ、びくともしなかった。窒息するよりも先に、首の骨がへし折られそうだった。

 異変に気づいたアラミタマがルサを救おうと娘に突撃をかけるが、うるさげに振り払われ、床に落ちる。


「アラ……ミタマ……」


 首を絞められながらも、ルサはアラミタマの身を案じた。

 娘は捕えたルサをすぐに殺そうとはせず、先程まで自分が戒められていた壁に打ちつけた。


「がはっ」


 内臓が圧迫され、ルサはわずかに吐血する。


「おお、勘忍してくりゃれ。あまり乱暴に扱っては壊れてしまうのぅ。これはいかんいかん」

 ルサが壁に叩きつけられると、先程まで娘を戒めていた蔦が即座に蘇生し、今度はルサの手足を絡め取った。

 娘はルサの喉から手をはなすと、品定めをするような目つきでその全身をねめまわす。


「良いのぅ。最高の器じゃ」


 くっ、とルサは屈辱に歯ぎしりする。

 鬼の狡猾さは熟知しているつもりだった。鬼と一口で言っても、その姿が千差万別であることも知っていた。

 けれども、これほど鮮やかに人の姿に化けるものとは思わなかった。

 いまは禍々しい気配をあらわにしているが、先程までは妖気の片鱗すら感じられなかった。


「ああ。わらわは化けているわけではないのじゃ」


 ルサの思考を読んだように、娘は言う。


「正真正銘、これは人の身体。もっとも、もう持ちそうにないがの」


 そう言うと、娘は身体に張りついていた布切れを自らはぎとった。

 その下にあらわになった姿に、気丈なルサも思わず目をそむけた。

 かつては美しい娘の姿だったであろう。

 が、その肌は全身に火傷をおったように黒ずみ、ぼろぼろに崩れかけていた。

 さらには人の姿を保ちえないのか、たえず内側からぼこぼこと不気味に波打っている。


「まあ、よい。やっと理想の器に出会えたのじゃ。その美しい容姿、類まれなる霊力、なによりも深い憎悪の念。なにもかもがわらわの理想通りじゃ」


 よだれをこぼさんばかりの、淫らな顔で娘は笑った。

 身動きできないルサの顎を強引に持ち上げ、前を向かせる。

 そして、覆いかぶさるようにして、ルサの牡丹の花びらのような桃色の唇に、自らの唇を重ねた。

 魂まで吸いつくすような濃厚な口づけであった。


「ぐ……う……」


 ルサはおぞましさに身をよじるも、戒めをほどくことはできない。

 と、娘の姿は崩れてゆき、黒い霧へと変わる。

 黒霧(こくむ)は口づけたルサの唇から内側へと侵入していった。


「う、あああ―――」

 全身を妖気に侵され、ルサは絶叫を上げた。

 夢とも幻視ともつかない光景がルサのまぶたを灼く。


 それは旅の間、幾十度も夢となり、ルサを苦しめた光景だった。

 生まれ育った神殿ががれきと化し、いまなお崩壊しつつある。

 辺りは無慈悲な炎の海であった。

 その中に取り残され、ルサは泣いていた。

 だが、その泣き声を聞きとるものはもういない。

 師とも父とも仰いだ大神官も、優しく厳しく自分を育ててくれた巫女達も、大家族はみながれきに埋もれ、炎に呑まれてしまった。

 自分を逃すために。


 なぜ、こんなにもひどい目にあわなければならないのか。

 なぜ、こんなにも辛い別れを経験しなければならないのか。

 なぜ、こんなにも怖ろしい思いをしなければならないのか。

 混乱した少女の頭に、ささやきかける声が聞こえた。


 ―――憎いかえ。


 憎い、と少女は心の内で即答した。

 少女の憎しみは、神殿を滅ぼした鬼のみならず、世界全てに及んでいた。

 理不尽で悲しみに満ちたこの世界が憎かった。

 愛する家族がみな失われたのに、他の者がのうのうと生をむさぼっているのが赦せなかった。この世界を滅ぼしつくすまで、憎しみの炎は消えてなくならない。


 ―――憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い…………。


 ―――


「くふふふふ、あははははは」


 堂内に哄笑がこだました。それはもう、桜崎ルサのものではなかった。

 ルサの身体と魂を乗っ取った一体の鬼は、狂気じみた笑声を上げつづけた。


「おお、おお―――。なんと素晴らしき力。なんと素晴らしき美しさ。

 そなたは、わらわの器となるために生まれてきたのじゃ。くふははははははは」


 灯明がルサだったものの陰影を映す。

 絶世の美しさをもった少女が、熟練の遊女のような表情で身も世もなく身をのけぞらせ笑う姿は、見る者がいればすくみあがるであろうほど淫靡で、不釣り合いな光景だった。

 が、鬼は不意になにかに気づいたように、笑い声をあげるのをやめた。


「ほう、今日は客人の多い日じゃ。じゃが、霊力はともかくわらわの好みではないようじゃ」


 そうつぶやくと、鬼は妖気を練り上げて、呪法の文言を紡ぐ。


「ほれ、いつまで寝ておるつもりじゃ」

 ルサが倒したはずの三体の鬼がむくりと起きあがった。

 それは元々、独立した命を持つ鬼ではなく、娘の姿の鬼が術で操る傀儡(くぐつ)であった。

 そして自身は再び壁にぴたりと身を寄せると、戒められているふうをよそおい、蔦を操って、自らの手足に絡めた。

 床に転がるアラミタマをどうしようかと一瞬悩んだが、このままで構わないと判断する。

 魂の従者が床に転がっているほうが「鬼に捕われた巫女」という絵図はより真実味を増す。

 あとは妖気をひそめ、ルサ本来の霊力をその身にまとうだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る