第七場 鬼の堂
「行きましょう、アラミタマ」
その夜のことだった。ルサは巫女装束を正すと、そっと蔵を後にした。
仕切りの向こうでは、ミコトがいぎたなく寝ているはずだった。
ルサの目から見て、呆れかえってしまうほどミコトは奔放でずうずうしかった。
酒こそ飲まなかったものの、村人たちが差し出す米も味噌も野菜も、躊躇なく口にしていた。猪肉まで食べるその姿は、とても神聖なる巫女とは思えなかった。
「うちの神殿では狩りだって修行の一環だったんだぁ」などと平然と言っていたが、怪しいものだ、とルサは思う。
ルサのいた「渦潮とどろく国」の神殿では、殺生も肉食も厳禁だったから、ミコトの姿は穢らわしくすら見えた。
小さなかくれ里だ。
仮絹の巫女ウズメも村人も二人をありがたがって嬉しそうに歓待していたが、実際には貧しいなか相当無理をして用意した馳走だろう。
そう思うと、ルサはとてもミコトのように暴食する気にはなれなかった。
歩き巫女の旅は孤独な修行の旅だ。
それだというのに、村人に請われるまま、旅の話を面白おかしくしゃべろうとするミコトの態度も、いかにも軽薄に見えた。
少しの米を口にすると、ルサは早々に宴の席をたち、蔵に戻った。
それからだいぶたってからミコトは戻ってきて「食べ過ぎたぁ、もう動けないー」などと言って、倒れこむように寝入ってしまった。
きっと、あれはもう、堕落してしまった歩き巫女なのだろう、とルサは思う。
サチミタマという従者の姿がある以上、ルサと同じように歩き巫女の使命を授かって旅立ったのは本当のことなのだろう。
けれど、鬼を倒して人々に感謝されることに味をしめ、巫女本来の敬虔さを失ってしまったのかもしれない。
「ああはなりたくないものです」
ルサは吐き捨てるように言った。
元よりミコトと協力する気などルサにはなかった。
憎き鬼は全て自分の獲物だと思っていた。
ミコトが討伐は明日にしようと言い出したのは、考えようによっては抜けがけするチャンスだった。
だからこうして、ルサは一人夜の山道を寺院目指して駆けていた。
月のない夜だったが、ルサはあやうげなく山道を走る。
松明は不要だ。
修行を積み、霊感を研ぎ澄ませば、星明かりだけで動き回るのには十分だった。
道に迷う心配もなかった。
寺院までの道のりは、宴の席でさりげなく村の男から聞きだしていた。
それに、ある程度近づくと、ルサにも妖気の漂う方角が感じられた。
その禍々しい気配がルサの心を高ぶらせてゆく。
「その場所はお前達のいていいところではありません。一匹残らず狩りだしてみせます」
起伏の険しい尾根道を駆けた後、ルサはぴたりと足を止めた。
崖をくり抜くようにして、その寺院はあった。
ルサの生まれ育った神殿とは比べられないほど小さなお堂だ。
そこで寝起きするとすれば、五人が限界だろう。
燭台でも灯しているのか、堂の中は明るい。
「鬼のくせに明かりをつけてるなんて、笑止です」
ルサは、小さく鼻を鳴らして嗤う。
「アラミタマ、お願いします」
ルサの求めに応じてアラミタマの姿が青く輝く。
一瞬後に変じたその姿は弓矢ではなく、一振りの薙刀だった。
己の背丈よりも遥かに大きなその柄を、ルサはしかと握る。
そしてまたルサの姿も青白い炎に包まれ、大きく変容した。
波がうねるような複雑なひだを作り、白衣がルサの上半身に絡みつく。
緋の袴には、異国の踊り子のような大きなスリットが生まれ、ルサの霊力に呼応するようにはためいた。
何より目を引くのが、大きな輪状になった羽衣の如き肩かけと、流麗な黒髪をまとめる赤い結び布だ。
星明かりの下でもなお、輝かんばかりの姿だった。
見る者があれば、はるか天界から舞いおりた天女と見間違えたことだろう。
「歩き巫女桜崎ルサ、参ります!」
ルサは寺院の中の様子をうかがうこともせず、一息に屋内へと踏み込んだ。
堂の中には意外な光景があった。
神器も家具もなにもない堂内は存外に広々と感じられる。
これならば、巨体をもった鬼でも立ち回るのに不自由ないだろう。
灯明に映し出されうごめく鬼どもの影。
それは予想通りのものだ。
驚いたのはその奥に人の姿があったことだった。
蔦のようなもので両手両足を戒められ、壁にはりつけられた、若い娘だった。
もはや服の役目を果たしていない、ぼろぼろにちぎれた布をかろうじてまとっている。
暗い堂内でも、ぐったりとうつむいたその顔が、憔悴しきっているのが分かった。
鬼が灯明の火を燃やしているのは、この娘の姿をさらし見るためであろうか。
「おのれ……なんて下劣な」
ルサの頭にカッと血が昇る。
穢らわしさに全身が総毛立ち、吐き気すらもよおす思いだった。
その嫌悪感を怒りにかえ、ルサは薙刀を振るった。
怒りに駆られながらも、ルサの戦いかたは正確で無駄がなかった。
身の丈ほどもある薙刀を縦横に振るい、白刃を閃かせる。
だが、鬼もまた手強かった。夜の時間に力を得ていることを差し引いても、強力な相手だ。その数はたった三体だったが、朝方畑で倒した鬼とは比べものにならない強さだった。
浅く薙いだ程度では、ほとんど傷もつかなかった。
動きも速い。
致命傷を与えるためには、ルサも深く踏み込む必要があった。
必然的に危険は増し、ルサも無傷ではいられなかった。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
全ての鬼をほふり、地に倒した時には、ルサの額には血と汗がべったりとこぎりつき、薙刀を杖代わりにかろうじて立っているようなありさまだった。
いつまでたっても呼吸が整わず、喉の奥が焼けつくように渇いた。
気を抜くと、意識が遠くかすみそうであった。
だが、まだ倒れてしまうわけにはいかなかった。
「そ、そのまま動かないでください……」
ルサはよろよろと、とらわれた娘の方に歩み寄る。
娘の様子はひどく衰弱してみえたが、肌には生気があり、生きているのは間違いない。
ルサの呼び掛けにかすかにうなずいたようにも見え、だとすれば意識もあるようだ。
最後の気力をふりしぼってルサは薙刀を振るい、娘の手足を戒める蔦を斬り払う。
思った通り意識はあるようで、娘は崩れ落ちるように座りこんだが、ルサが支えなくても倒れてしまうことはなかった。
ルサもその傍らの床に座りこむ。
ようやくほんの少し呼気が整いはじめた。
失血も深刻なレベルではなさそうだった。
「……なんと……お礼をしていいか」
しぼり出すような弱々しい声が、娘の口からもれた。
「べつに。鬼を斬るついでです」
ルサはそっけなく答える。鬼を狩るのは復讐のためで、人を救うことになるのはたまたまの結果に過ぎないと思っている。
とはいえ、さすがに自分とそう歳も変わらない娘を助けたことを、嬉しく思わないわけではなかった。
体は疲労の極地にあったが、快い達成感が胸の内から湧き上がる。
ミコトの存在に一時は心かき乱されたが、やはり歩き巫女は自分一人で十分だ、と自信が湧いてくる。
「アラミタマ、もう元に戻っていいですよ」
少年の姿に戻ったアラミタマは、炭鉱の中にでもいたかのように、全身真っ黒だった。
ルサの姿もまた、歩き巫女の装束へと戻るが、小袖も緋色の袴も鬼の瘴気におかされ、無残に傷んでいた。
まるで焼け焦げたように黒々とした穴があちらこちらに空き、かろうじてル均整の取れた四肢を覆っているありさまだった。
それでもルサの美しい容姿は損なわれることなく、その姿は民衆のために自ずから泥にまみれ戦う聖女を思わせる。
アラミタマはルサ以上に疲労困憊の様子で、ほとんど倒れ伏すように傍らにうずくまった。
だいぶ、鬼の穢れを吸ってしまっていた。
一度清めなければ、もう薙刀の姿に変わることはできないだろう。
ともかくも、いまは動かずに少しばかり身体を休めるべきだった。
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