第二場 曙光

 朝を告げる山鳥の鳴き交わす声が渓谷にこだまする。

 空はまだ陽が昇るまえの薄紫色だった。

 またたく星々が、いまだその存在感を主張している。


 夜明けの薄闇の中、渓流のほとりの洞穴に、のそりと動く影があった。

 熊か猪あたりが住処にしていそうな天然の岩穴である。

 周囲に村や田園はおろか、人工物は一切ない深山の渓谷。

 けれども、その影はヒトのものだ。


 それも、うら若い少女である。


「ん~」


 まだこびりつく眠気を払うように、大きく伸びをする。

 それから空を見上げ、はっとした顔で叫んだ。


「サチ、起きて。はやく、はやく、お日様が出ちゃうよぉ」


 声だけでなく、洞穴の中でなにかを叩き起こすような仕草が見てとれる。

 ややあって、中からもう一つの影が、ふわふわと宙を漂いながら出てきた。

 夜明け前の薄暗がりでも分かる鮮やかな朱色の着物をまとい、髪には銀のかんざしをさしている。

 姿形は人間の女の子だが、仔リスほどの大きさしかなく、しかも宙に浮いていた。


「ミコ、うるさい」


 言葉どおりうるさげに、首を振る。

 先に現れた少女よりも眠たそうだった。

 目は半眼で閉じかけ、抑揚のない声音の中にも、不機嫌そうな気配が伝わってくる。


「もー、しっかりしてよ、サチ。

 先に行ってるからね」


 そう宣言すると、少女はぱっと駆けだした。

 野生の猿でも目を見張るような動きだった。

 飛び石伝いに小川をさかのぼり、岩場を跳躍する。

 岩の間の若芽を求める牝鹿を思わせる軽やかな足取りで、あっという間に渓谷の崖をよじ登ってしまった。

 その後を赤い着物の小さな女の子が追う。

 こちらは宙に浮いているのだから楽そうなものだが、その顔はひどくめんどくさげだった。


「ひのでをみるのにがけをのぼることない、とおもう」

「昨日寝る前に確認したじゃん。ぜったい、この上からが一番きれいに見えるよぉ」

「ねどこさがさずに、そんなとこまっさきにさがすの、ミコくらい」


 軽口を叩き合いながらも少女の登攀はあやうげない。

 崖の上は開けた台地状になっていた。

 少女はくるりと向きをかえ、登ってきた方を振り返る。

 複雑な地形の渓谷だが、その崖の上からだと、ちょうど東側の空が大きく開けて見えた。

 少女が登りきるのを待ちわびていたように、程なく―――来光が山の裾から顔をのぞかせた。


「わぁ」


 感嘆の声が自然と少女の口から漏れた。


 最初は金色の光の筋がゆっくりこぼれ落ちるように。

 そして一瞬のちには眩い朝日が一面に空を塗りかえてゆく。

 小川の流れが銀の魚麟のようにきらきらと輝き、岩場が鮮やかなオレンジに染め上がる。

 “昨日”が夜の向こうへと消えてゆき、あたたかな光とともに“きょう”という日が生まれるその瞬間を、少女はたしかにその目で見た。太陽の光は目に映るすべての景色に、あまねく平等に降り注ぐ。

 それを眺める少女―――天城ミコトの、純白の小袖と緋色の袴も照らしだした。

 首から下げた東風玉が涼しげな蒼色を映す。

 世界がみずみずしく、新たな息吹をあげる様を、ミコトは飽くことなく眺めていた。


 東風出ずる国、眠りの森のラクサ神殿を出てから五年の時が経つ。

 その頃は少年とほとんど区別のつかなかった姿も、快活そうな瞳こそ昔と変わらないものの、小袖を軽く押し上げるほどに程よく膨らんだ胸元や、肉つきのよい脚腰に年頃の少女らしさがかいまみえた。

 顔立ちも女の子らしく丸みを帯び、短い髪をしていても少年と見間違えるものはそういないだろう。


 ここは、生まれ故郷からはるか西、「青月籠(せいげつこも)る国」である。

 鬱蒼と茂る森と霧に抱かれた故郷とはうってかわり、複雑な稜線を形作る山々と渓谷に囲まれた国だった。

 朝陽に照らされた起伏に富むその景色に、遠くまでやってきたのだなという感慨がミコトの胸の内に湧きあがる。


「すごいねぇ、奇蹟みたいだねぇ」


 見渡す限りの展望に魅入りながらミコトは、しみじみとこぼす。


「ミコ、それ、まいあさいってる」


 一方、そっけなく返したサチミタマの姿は、ミコトと出会った頃と少しも変わらなかった。手の平サイズの背丈に、表情にとぼしい幼い顔、紅い着物もそのままだ。


「だって同じ朝は二度とないんだよぉ。すごいよねぇ」


 サチミタマのつれない態度にもかまわず、ミコトは感動しきりだった。


「それよりもミコ、あれ」


 サチミタマはミコトの袖を引き、山裾の一端を指さした。


「え、なになに?」


 ミコトはじぃっと目をこらした。

 ややあって、短く歓声をあげる。


「わぁ、畑だ。人が住んでるってことだよね?」


 ミコトの言葉に、サチミタマはこくんとうなずく。

 ここからは遠く、ほんの豆粒程度にしかみえないが、たしかに耕された土地が見えた。

 今夜は野宿をしなくてもすむかもしれない。


「すごいねぇ、こんな山の奥でも人が住んでるんだね」

「こんなやまのおくだから、かくれすめるのかもしれない」

「うん……、そうかもね」


 サチミタマの言葉に、ミコトは少しだけ深刻な面持ちになって、うなずいた。


 鬼がその封印を破り姿を現したのは、東風出ずる国だけではなかった。

 ほとんど同時発生的に忽然として姿を現した鬼の軍勢は、世界各地で荒れ狂った。

 多くの国々は全く抵抗する術をもたず、大きな街はことごとく壊滅した。

 ミコトも旅の間に、数えきれないほどの廃墟を見てきた。

 どの国でも、かろうじて生き残った人々が世界の滅亡を暗い論調でささやきあっていた。


 それでも、人々は山合いに畑を作り、しぶとく生き延びているのだ。

 そう考えると、ミコトには、遠くに見える小さな畑が希望の象徴のようにも思えた。


「行こう、サチ。もしかしたら、薄明の巫女についてなにか知ってるかもしれないよ」

「ん。かのうせいはひくいけど、だれにもあわないよりマシ」


 元々ミコトがこの地を訪れたのは、とある巫女の噂話を辿ってのことだった。

 卓越した守護の霊力を持ち、この国を護り続けているというなかば伝説化した人物像だ。

 なにか、薄明の巫女と関係あるのかもしれない。

 ところが、訪れた街は既に鬼に滅ぼされ、人の姿はなかった。

 人里を求めてさ迷い歩くうちに、こんな山奥にまでやってきてしまったのだ。

 崖からおりると、洞穴に置いた旅具を簡単にまとめ、ミコトは揚々と遠い畑地へと向かった。

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