第八場 サチミタマの試練
いつの間に眠っていたというのだろう。
眩い明かりと、華やかな笛や太鼓の音によってミコトは目を覚ました。
「ほえ?」
寝ぼけまなこで前を見やる。
見知らぬ場所ではなかった。
そこはラクサ神殿の奥殿、通称祝儀(しゅくぎ)の広間であった。
新年の祝いや、祭祀を執り行うハレの場である。
けれども、その祝儀の広間も、これほど華美に彩られているのをミコトははじめて見た。
壁といわず床といわず七宝と呼ばれる色とりどりの宝玉が散りばめられ、アシナヅチの作と思われる精緻な金銀細工が飾られている。
数えきれないほどの錦の旗がたなびき、香が焚きこめられ、天井から降り注ぐように四季折々の花びらが吹き乱れている。
耳にも笛太鼓に弦楽器など、ありとあらゆる歌舞音曲がにぎにぎしい。
祝儀の広間にいるのはミコト一人ではなかった。
それどころか、日ごろはそれぞれの務めに散っているはずの神殿の者達全員が一堂に会していた。
一様にどこか晴れがましい顔つきで、にこやかにこちらを見ている。
ミコトはただ目を白黒させるばかりであった。
「どうした。大丈夫かい、ミコト」
すぐ隣りで、聞き覚えのある優しげな声がした。
「タケさん!? その格好どうしたの?」
横を向いたミコトは、思わず驚きの声を上げた。
タケサチヒコはいつもの略式の神官衣ではなく、盛装をして座っていた。
それも、黒羽二重の羽織りに烏帽子という、まるで武家のようなものだ。
目を丸くするミコトに、タケサチヒコは苦笑を返した。
「ガラじゃないのは自覚しているよ。けど、ミコトはよく似合っているね」
「え?」
言われてはじめて、ミコトは自分の格好に気づいた。
純白の白無垢姿である。
最高級の絹の感触は肌の上を滑るようだった。
まぶかに垂れる覆いが耳にくすぐったい。
ミコトの困惑がさらに深まった。
なんで自分はこんな格好でタケサチヒコと並んで祭壇の上に座っているのだろう?
絵巻物かなにかでこんな光景を知っているような気がする。
そう、これではまるで……、
「これ、ミコト。生涯一度の式の途中で居眠りとは何事です」
叱責の声にミコトは顔を上げた。
師のものだ、とはすぐに分かったが、どうしたことか、その声がひどく懐かしいものに感じられた。
オグニの姿は巫女装束だったが、これも盛装である。
いつもの小袖と緋袴ではなく、ゆったりとした千早を羽織り、金の髪飾りを身につけている。
タケサチヒコがとりなすように、やんわりと言う。
「仕方ないですよ。きっと気疲れが一気に出たのでしょう。
いざ結婚となると、わたしも昨晩は一睡もできませんでした」
ああ、やっぱりタケさんは優しいなぁ、などとぼんやり思っていたミコトだったが、言われた言葉の意味に気づき、愕然とした。
「ええーーーー!!!」
思わず絶叫を上げ、場をはばかることなく立ち上がっていた。
オグニが「これ」と鋭く叱るのも耳に入らない。
「け、結婚って、わたしとタケさんが~!?」
神殿の者達は、ミコトの動揺ぶりに困惑した面持ちを浮かべつつ、何を今さらとばかりに各々うなずく。
驚きついでなのか、ミコトは直前までの記憶を思い出した。
「で、でもわたし、歩き巫女になるための試練を受けるはずじゃあ……。それで、みんなとはしばらくお別れしたんだよ」
しかし、狼狽しているのはミコト一人だった。
タケサチヒコが気づかわしげな目を向け、自身も立ち上がり、ミコトに向き合う。
「かわいそうに。記憶が混乱しているみたいだね。それだけ壮絶な試練だったのだろう」
タケサチヒコはミコトの目をのぞきこみ、ゆっくりと諭すように言う。
「いいかい、ミコト。
ミコトはもう試練を成し遂げ、歩き巫女に―――そして薄明の巫女になったんだ。
そして、全ての役目を終えて、こうしてわたしとともにこれからの生涯を歩む決意をしてくれたんだよ」
「え、え? わたし、もうやり終えたの?」
そう言われてもミコトは何一つ思い出せなかった。
喜びは湧かず、困惑が深まるばかりだ。
「そうだ。もう悪い夢にうなされなくていい。これからわたし達はずっと一緒だよ」
タケサチヒコのささやきがミコトの頭を痺れさせる。
甘い香りとうっとりするような音楽がミコトの心に忍び寄る。
タケサチヒコのことを想うと頬が熱くなり、鼓動が早鐘のように胸を打った。
きっと、顔が真っ赤になっているだろうと自覚する。
けれども、その心地良さに身を委ねてはならない、と心のどこかが警鐘を鳴らしていた。
ミコトはタケサチヒコから目を逸らし、助けを求めるようにオグニの方を向く。
オグニもまた、ミコトをあやすようにうなずきかけた。
「タケサチヒコ殿の言うとおりです。よくやりましたね、ミコト。もう辛い修行はおしまいです。これからあなたを待っているのは悠久の平穏なのですよ」
「修行は……おしまい」
ミコトは口の中でつぶやく。
夢心地だった心が急速に醒めていくのを感じる。
視線を落とす。
と、白無垢姿に、ただ一点だけ蒼穹のような青い球が浮かんでいた。
記憶が途切れる直前オグニに手渡された、タケサチヒコが創ったという東風玉だ。
東風玉はミコトに警告を発するように青い瞬きを繰り返した。
ただ、眩い室内の明かりが反射しただけには思えなかった。
ミコトにはそれが、タケサチヒコの声のように思えた。
もう一度広間を見まわした。
鏡や榊などの神器が収められた一角に、装飾がほどこされた短剣が飾られているのに気づく。ラクサ神殿で祝祭の際に用いる、禍祓いの剣である。
にぎにぎしい式場にあって、その銀の輝きは一種異様な冷ややかさを宿していた。
「さあ、気を取り直して式の続きを執り行いましょう」
オグニがそう言って、タケサチヒコとミコトを座り直させようとする。
が、それに逆らい、ミコトは広間の真っただ中に飛び出し、禍祓いの短剣を手にした。
「ミコト、何をしているのです!?」
驚くオグニの元にミコトは駆けもどる。
そして、迷うことなく短剣を横なぎに振り払った。
『妖しきまやかしよ、とく去れ!』
手にした短剣に霊気を込め、破邪の呪文を叫ぶ。
首筋を払われたオグニは、血を流す代わりに真っ白な霧となり、空気に溶け、消えた。
「ししょうは修行が終わりなんて絶対に言わない。
生きている限り、ずっと修行は続くんだって言う」
オグニの姿が幻のようにかき消えても、ミコトは驚かなかった。
「な、なにをしておるんじゃ、ミコト」
おろおろとした面持ちを浮かべながらも、ミコトから短剣を取り上げようと近づいてくる老爺にも、刃を突きさした。
「……あなたもアシナヅチおじいちゃんじゃない」
老爺もまた、最初から存在していなかったかの如く、霧となって消える。
それがきっかけであったように、神殿の者達も次々に霧と化し消えてゆく。
あとにはただミコトと、タケサチヒコ一人が立っていた。
タケサチヒコはそれでも変わらぬ微笑を浮かべていた。
ミコトの肩を優しく抱き、口づけを迫るように身をかがめる。
「ミコト。これが夢幻か現実かなんて、関係ないじゃないか。夢の中でもいい。
永遠に解けない夢の中でずっと幸せでいよう」
「タケさん……」
ミコトはタケサチヒコの胸に倒れこむようにしがみついた。
それはタケサチヒコの言葉を受けいれ、幸福な夢幻に身を委ねたかのようであった。
けれども後ろに回したその手で、ミコトはタケサチヒコの背に短剣を突きさしていた。
「ごめん……なさい。あなたのくれた東風玉が言うの。『前に進まなくちゃだめだよ、ミコト』って。わたしにはまだやることがある。だから、夢の中にはいられないよぉ」
それがどれほど心地良いものであろうと……。
ミコトは背に回した腕に力を込める。
まるで最後の名残りを惜しむように。
けれども、タケサチヒコの姿は徐々に霧へと変じ、感触を失っていく。
―――そうか、どうか元気でいてくれ。
タケサチヒコの唇がそんな風に動いて見えた。
けれど、もうその言葉は耳に届かなかった。
頬に伸ばされた手は霧となって消える。
「わたしは薄明の巫女になってもう一度みんなに会う。
だから、その時まで、ばいばい」
ミコトの決別の宣言とともに、世界は色を失った。
音曲は鳴りやみ、鮮やかだった七宝は輝きを失くし、土くれと化す。
祝儀の間であった空間はぐにゃりと歪み、壁も天井も消え失せていく。
あたりには、ただ茫漠とした闇が広がるのみだった。
ミコトは声もなく、ただ静かに涙を流す。
言葉にならない想いが胸につかえる。
まるでこの荒涼とした暗闇そのもののように、胸の内に空虚な孤独感が広がっていく。
世界でたった一人ぼっちになってしまったみたいだった。
自分で選んだ道に後悔はない。
けれど、寂しさが消えてなくなるわけではなかった。
「おめでとう」
声が降り注いだ。
抑揚に乏しい、淡々とした少女の声だった。
同時に闇の中に小さな灯が宿る。
それは熾火のような深い赤だった。
紅い光は形をなし、一人の女の子の姿となる。
ただし、その背丈は仔リスほどしかなく、てのひらにおさまってしまう大きさだった。
腰まで届く長い黒髪に、鮮やかな銀のかんざしを挿している。
身にまとうのは藤の花紋様を散りばめた、あでやかな真紅の着物だ。
尾羽を広げたような銀のかんざしが何かに似ている。
少し考えて、コチドリの羽だ、とミコトは気づいた。
はじめて会うのに懐かしい気がする、不思議な小人だった。
「こんにちは。あなたは、誰?」
暗闇の中に突如現れた不可思議な少女にも、ミコトは物怖じすることなく話しかけた。
孤独感が急速に薄れていくのをミコトは感じていた。
怖れも警戒する気持ちもまったく湧かなかった。
「わたしはサチミタマ。あるきみこのたましいのかたわれであるじゅうしゃ」
にこりともせず少女はそう名乗る。
まるで書物の文を読み上げているような平板な口調だった。
「サチミタマちゃん?」
ミコトが呼びかけると、サチミタマは小さくこくりとうなずく。
名の一部の“サチ”という響きに、別の誰かの面影がよぎり、ほんの少し、ミコトの胸がうずく。
「わたし、試練に合格したの?」
ミコトの問いに、サチミタマは再度こくんと首を縦に振る。
「わたしにあえたことがあるきみこのいっぽをふみだしたあかし」
サチミタマの言葉は変わらず単調だったが、ミコトは嬉しげに微笑んだ。
「あるきみこは、よるべないこどくなたび。
ふみだすためには、あなたをまもるきりをはらわなければならなかった」
なんとなくだが、サチミタマの言葉はミコトにも理解できる気がした。
ずっと眠りの森に抱かれ、ラクサ神殿の大家族に守られて生きてきた。
旅に出るためには孤独を堪えて揺りかごから出なければならない。
幼年期の終わりには、痛みがともなうものなのだ。
あの幸せな幻想は、その一歩を踏み出せるかどうかをはかる試練だったのだろう。
「でもサチミタマちゃんは一緒にいてくれるんでしょう?」
「あなたがそうのぞむかぎりは。わたしはあなたのたましいのじゅうしゃだから」
魂の従者、いうのがなんなのか、ミコトにはよく分からない。
けれど、サチミタマが一緒にいるということだけは分かり、それさえ分かれば満足だった。この綺麗な着物の女の子と一緒にいられるということが、単純に嬉しかった。
「分かった。じゃあ、よろしくね。サチミタマちゃん」
ミコトは笑顔で手を差し伸べる。
が、サチミタマはすぐにそれに応じなかった。
無表情ながら、どこかミコトを試すような目で見やる。
「わたしのてをとればこどくなたびがはじまる。もうひきかえせない。
それでいいの?」
「いいよ。さ、早く!」
即答だった。
ミコトは、寸分の迷いもなく間髪入れずに応える。
サチミタマは小さくため息をついた。
どこか呆れているようにも見える。
「ん。よろしく。あるきみこのあまぎミコト」
サチミタマも手を伸ばし、ミコトの手を取った。
その瞬間、つないだ二人のてのひらから眩い光が生まれた。
光は暗闇を打ち消しながら爆発的に膨れ上がり、空間を満たした。
目がくらむほどの光に包まれながら、ミコトの意識は再び途切れた……。
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