第七場 歩き巫女とは

 ラクサ神殿の修行場は霊場というよりも武術の道場のような造りをしている。

 余計な装飾を排した板敷きの修行場は昼なお薄暗く、足を踏み入れるだけで身が引き締まるような厳粛な空気が漂っている。


 その修行場の床に座りながら、ミコトはなんとなく落ち着かない心地がしていた。

 理由の分からない不安が胸に募っては、ミコトをとらえようとする。


 なにか、よくないことが起こるのではないか。

 いや、すでに起こっているのではないか。そんな気がしてならなかった。

 ちょうど、天変地異の匂いを嗅いだねずみのような気分だった。


 時間に厳格なオグニが遅刻することなど、いままでただの一度もなかった。

 その師が修行場に自分を置いたまま戻ってこない。

 そのこともまた、ミコトの悪い予感を増長させていた。

 だから、師が再び修行場の入口に顔を出した時は、ほっと大きく安堵のため息を吐いた。


「ししょー、おそ……い?」


 が、ミコトはオグニの様子がおかしいことにすぐ気がついた。

 まるでミコトに挑みかかるように、まとう霊気が膨らんでいる。

 そして、オグニは無言で地を蹴った。

 考えるよりも先にミコトの身体が動く。

 ぱっと跳びすさったミコトの一瞬前までいた空間を、オグニの鞭が剣閃の如き鋭さで薙ぎ払う。


「……くぅっ!」


 ミコトはオグニの動きに目を離さずに、後ろ手で修行場の錫棒を手に取った。

 が、着地した瞬間、床がかちりと鳴った。

 薄暗い道場の天井付近から弓矢がミコト目がけて飛ぶ。

 ミコトから見て右手と左手から二本同時だった。


「うををっ!?」


 ミコトは袴の裾を手で押さえながら、バク宙の要領で後ろに跳びすさり矢をかわす。

 が、今度は着地した床から竹槍が飛び出した。それも五、六本ほどが同時である。


「なんとおっ!?」


 床に転がるようになんとかそれをかわすミコト。

 そこを狙いすまし、再びオグニがミコトに打ちかかった。

 手にした竹の鞭を、電光石火の速さでミコトの頭上に打ち下ろす。


 が、ミコトは一瞬で姿勢を立て直し、立て膝の態勢でオグニの面打ちを錫棒をかざして防いだ。

 ばちん、と乾いた音が堂内に響き渡る。


「……強くなりましたね、ミコト」


 平素と変わらぬ静かな声でオグニは言い、何事もなかったかのように鞭を引っこめた。


「もー、びっくりするじゃないですかぁ」


 ミコトも頬を膨らませるものの、言うほど驚いた様子ではなかった。

 これくらいの不意打ちは日常茶飯事なのだ。

 道場に踏み入れた瞬間から、一切の行動は修行の一環となる。

 とはいえ、先ほどのオグニはいつにもまして鬼気迫る太刀筋だった。


「……それにしてもえらく派手な仕掛けですねぇ、今回」

「アシナヅチの自信作だったようです。まあ、ミコトには少々手ぬるすぎたようですが……」

「うげぇ」


 矢や槍が散乱して、すっかり荒れ果てた道場を見まわし、ほんの少しミコトはげんなりとした。

 好々爺然たるアシナヅチだが、不自由な足を引きずって道場に罠を設置して回っている姿を想像すると、少々不気味だった。


「ミコト、みそぎは済ませましたね」

「あ、はい。もちろんです」

「よろしい。では、ついてきなさい」

「へ? あ、あの、ししょー。それより、すっごく嫌な予感がするんです」


 ミコトの声に一切耳を傾けることなく、オグニはきびすを返すと道場の奥に歩き始めた。

 有無を言わせない、素早い足取りであった。

 しかたなく、ミコトも錫棒を置き、その後をついていく。


「もう、聞いて下さいよ、ししょ~」と、追いすがりながら何度も話しかけるが、オグニは取り合わない。

 修行場の奥へ行くのはミコトには初めての経験だった。

 ラクサ神殿で生まれ育ち十年が経つミコトにも、踏み入れたことのない箇所は少なくなかった。

 今日になって唐突に、師が自分に立入を禁じていた場所に連れていこうとするのは、この嫌な予感と関係があるのだろうか。

 ミコトはそう思い当たる。


 奥へと伸びる通路は、修行場以上に暗かった。

 それに、先へ進むにつれ空気に混じる霊力が濃くなっていくようであった。

 ミコトは半ば師にすがりつくようにして、その後につづく。

 オグニの面持ちは暗くてよく分からなかったが、いつも以上に厳粛な雰囲気を感じた。


 なにかの決意を胸に秘めているようにも見える。

 はじめのうちはオグニに呼びかけ続けていたミコトも、通路と師の両方が醸す雰囲気に気押されて、やがて押し黙る。


「着きました。ここです」


 やっとオグニは立ち止まり、ミコトを振り返った。

 ただの行き止まりではないか、と一瞬ミコトは思った。

 けれど、よく見ると目の前にあるのが巨大な扉であることが分かった。


 観音開きのようで、中央にうっすらと縦の線が見てとれた。

 ミコトの背丈の優に二倍以上はある。

 造りは青銅製で、人が押したぐらいではびくともしそうになかった。


「いままで辛い修練によく耐えましたね、ミコト」

「えっ?」


 不意にあらたまった口調で呼びかけられ、ミコトは思わず師の顔をまじまじと見た。


「けれど、それも今日までです。この最後の試練をもって」

「し、ししょう。最後ってどういうことですか!?」


 ミコトの問いには答えず、オグニは扉へと向き直り、両手を頭上にかざした。

 すると扉全体が、オグニの霊力に呼応し、白い光をまとう。

 そして、雷鳴のような轟音を立て、扉はゆっくりと左右に開いた。


「さあ、この先なにをすべきかは最後の試練が教えてくれるでしょう」


 そう言ってオグニは扉の内へとミコトをうながす。


「オグニししょう……」


 ミコトは戸惑い、師の名前を呼ぶも、何を問うべきかもよく分からなかった。

 今朝から漠然と感じていた不安が、溢れだしそうなほど胸の内で強まる。


「ししょう、どこかへ行っちゃうんですか」

「いいえ。旅立つのはミコト。あなたの方です」


 オグニの言葉にミコトはますます混乱した。師は何を言っているのだろう。

 この神殿を追い出されるということなのか。

 けれど、理由もなしにそんな理不尽を言うオグニではないはずだ。


「ししょう、わたし、なにか悪いことをしちゃったでしょうか。だから怒っているんですか」

「ミコト、よくお聞きなさい」


 思わず師に向かって詰め寄ろうとしたミコトを、オグニは言葉だけで制した。

 その声は鋭かったが、決して怒りなどは含まれていないことにミコトも気づいた。

 動揺が完全に収まったわけではないが、黙って師の次の言葉を待つ。


「あなたにはこれより、歩き巫女になるための試練を受けていただきます」

「歩き巫女……とはなんでしょうか」


 それはミコトにとってはじめて聞く言葉だった。


「国や神殿を定めず、自由に諸国を巡り行く巫女のことです」

「えっと、それは旅人……のようなものでしょうか」

「ただの旅人ではありません。いままでなどより、遥かに過酷な、辛い修行の旅となることでしょう」

「うげげげげ。い、いまよりキツいの……ですか!?」


 ミコトは思わず言葉遣いを忘れかけ、慌てて語尾を言い繕った。

 オグニは特にミコトを咎めることはせず、静かに諭す。


「無論です。歩き巫女となれば、わたしも神殿の者達もあなたを助けることはできません。

 すべて己一人の身でなさねばならないのです。

 行住坐臥、旅の一日一日全てが修行となるのです。 

 ミコト、あなたの心根はとても素直で、人の心の痛みが分かる、慈愛ある巫女となるでしょう。ですが、この世界は数多の不条理に満ちています。

 歩き巫女となるためには、慈悲の心のみならず、強い心も持たなくてはなりません」


 師の言葉にも、ミコトはいつものように元気よくうなずくことはできなかった。

 もし、この扉をくぐってしまえば、二度と師や皆と会えなくなってしまう、そんな気がしてならなかった。


「い、嫌です。わたしは師匠やみんなと別れたくありません」


 オグニの本気を悟ったミコトは、溢れる想いのままに叫んだ。

 これほど正面切って師の言葉に逆らったのは初めてのことで、その声音は上ずり、震えていた。


「ミコト、人としてこの世に生を受けた以上、愛する者との別れは必ず経験しなくてはならない苦難です。これも修行とお思いなさい。この辛さを乗り越えた時、あなたはまた一回り大きく成長するでしょう」

「で、でも……」

「あなたにはあなたにしか為せない使命があるのです。

 歩き巫女として世界を旅し、そして薄明の巫女におなりなさい」

「ハクメーノミコ?」


 またもはじめて聞く言葉だ。


「薄明とは夜明けの曙光のことです。薄明の巫女とはすなわち、夜の闇を打ち払い、あまねく世界を救う救世の光をもった巫女なのです。

 歩き巫女の修行の旅は、この薄明の巫女となるための旅でもあるのです」


 ミコトには師の言うことが半分も理解できなかった。

 とりあえず、疑問に思ったことを素直に口にする。


「……どうすれば、薄明の巫女となれるのでしょう?」

「分かりません」

「はい?」


 あっさりと告げるオグニの言葉に、ミコトは一瞬師への敬意も忘れて、間の抜けた声を上げてしまった。

 オグニは澄ました声で言う。


「正直に話してしまえば、わたしにも分からないことがたくさんあります」

「ししょー……にも?」


 それはミコトにはにわかには呑みこめない告白だった。師オグニは世界の森羅万象全てを知り尽くしている、そんなイメージを持っていた。


「ここは世界のほんの片隅の森に過ぎません。ここに留まっていては分からないことばかりです。広い世界を観て回りなさい、ミコト。そして、己の進むべき道を見出すのです」

「…………」


 ミコトはオグニの命にすぐに返答せず、じっと何かを考えていた。

 が、ややあって、己の考えを確信に変えて、言う。


「薄明の巫女が世界中の人達を救う巫女なら、それになれば、もう一度ししょー達にも会えるよね」


 この言葉には、オグニも虚を突かれたようだった。

 オグニ自身、ミコトを送り出したなら、もう二度と会えないだろうと思っていた。

 だが、神殿の伝承によるなら、薄明の巫女は生きとし生けるもののみならず、死者の魂まであまねく救うことができるという。

 もし、ミコトがそんな伝説の巫女になれるのなら、その時は―――あるいは……、


「ええ、そうですね。その時は喜んでお逢いしましょう」


 オグニは思わずそう答えていた。

 それは決して、ミコトを納得させようとして言った空約束ではなかった。

 オグニ自身、そう願い、そしてそう予感していた。もう一度会える、と。

 ミコトははじめて、迷いが晴れたように笑顔になった。


「約束ですよ。それならわたし、必ず薄明の巫女になります!」

「ええ。あなたなら必ずやり遂げられるでしょう」


 ミコトに告げた通り、オグニは歩き巫女の修行の旅についても、世界をあまねく救うという薄明の巫女についても、この扉の向こうに何が待ち受けているかさえ何も知らなかった。

 ただ、ラクサ神殿の長として、先代から受け継いだ役目を担っていたに過ぎない。

 しかし、ミコトの顔を見ていると、それがどんな試練であれ、彼女なら絶対に大丈夫だ、という確信が湧いてくる。


「さて、ミコト、これをあなたに」


 ふと、オグニはその身にまとう峻厳な空気を幾分和らげた。

 そして、懐から何かを取り出し、ミコトに手渡す。

 それは、タケサチヒコがつくった東風玉だった。

 思わぬ贈り物に、ミコトは「わあ」と歓声を上げ、無邪気に顔を輝かせた。

 そんなミコトの首に手を回し、オグニは東風玉の紐を結んでやった。


「……これ作ったのって、もしかして、タケさん?」

「おや、分かりますか」

「分かるよ~、だって、へたくそだもん」


 そんな風に言いつつも、ミコトは滑らかな瑠璃の表面を愛おしげになでる。


「よいですね、ミコト。ここまでの言葉は師としての最後の訓戒です」

「はい。決して忘れぬよう、心に刻みつけます」

「よろしい。そして、ここからはあなたを育て、あなたと共に過ごした、ただのばばの言葉です」

「へ?」


 オグニがあまりに優しげに相好を崩したことで、ミコトは困惑した。


「あなたにはただ健やかに、元気で生きていてほしい。それがわたしの、いえ、わたし達皆の願いです」


 あまりにも日ごろの厳格な師とかけ離れた様子に戸惑っていたミコトだが、少しずつその言葉に込められた優しい想いが、胸の内に染み込んでゆく。それと同時に、皆との別れという事実に現実感が湧いてきた。

 たまらず涙が流れ落ちた。

 あふれる衝動をこらえきれず、ミコトはオグニの胸に飛びついた。


「ししょ……オグニ、おばあちゃん」


 もし他の時にそんな呼び方をすれば、すかさず竹の鞭がとんだことだろう。

 しかし、この時ばかりは、オグニもただ優しくミコトの背をさするばかりであった。


「いけませんね。皆に平素通り振る舞うよう命じながら、わたし一人それを破ってしまいました」


 泣きじゃくるミコトを受けとめながら、オグニの瞳にもうっすらと光るものがあった。

 しばし、巫女の師弟は別れの抱擁を交わしあう。


「さあ、もうおゆきなさい」


 オグニに軽く肩を押され、ミコトは涙を拭い、こくりとうなずく。


「はい……。天城ミコト、行って参ります!」


 元気よく宣言すると、ミコトは扉の奥に猛然と駆けだした。

 試練の扉はその小さな姿を暗闇の中に呑みこむと、再び重い音を立てて閉じてしまった。


「……結局、あの子に一番救われていたのはわたしなのかもしれませんね」


 ミコトを送ったオグニの瞳は、いまも光るものが滲んでいた。

 が、身をひるがえした時には、決然とした神殿の長の顔に戻っていた。

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