第五場 襲来
衝撃を受けるタケサチヒコをよそに、オグニは洞穴へと近づき、注連縄の片方を手に取った。
洞穴に不用意に近づくことは、神殿の者にとって禁忌とされていた。
さしものタケサチヒコもおそるおそるといった態で、オグニに続いた。
オグニは目を細め、つぶさに注連縄を観察している様子だった。
「ふむ、どうやら注連縄の妖気を封じる力を逆手にとられたようですね」
タケサチヒコもオグニの手にする注連縄を近距離で覗きこみ、思わず「あっ」と声を上げた。
遠目からでは、編みこまれた麻布の表面が傷つけられているようにしかみえなかったが、そこに墨のような何かで、小さな紋様とも文字ともつかない黒い何かがびっしりと刻まれているのが見てとれたのだ。
「どうやら鬼の中に優れた鬼術師がいるようですね」
「鬼術師……とは?」
「鬼術とは妖力を用いた法術と思えばよいでしょう。我らの霊術と対をなすものです」
「つまり、この注連縄に描かれているのは鬼術の紋様、ということですか」
オグニはタケサチヒコの言葉には答えず、注連縄を地に置きなおすと、印を結び呪法の文言を唱えはじめた。
オグニのてのひらに霊力が宿り、注連縄へと注がれてゆく。「……ぐっ」
突如感じる禍々しい気配に、タケサチヒコは思わず洞穴に向かって身構え、霊術を唱えようとする。
それを、オグニがそっと制する。
「御安心なさい。ここはもぬけの殻です。この妖力は鬼どもが封印を破った力の跡。
いわば残り香のようなものです」
それとともに、表面にびっしりと刻まれた黒い紋様がゆっくりと薄れていく。
完全に紋様が消え去った瞬間、
妖気の渦が周囲に吹き荒れた。
「は……はい……」
タケサチヒコは霊術を唱えるのはやめたものの、肩の力は抜けなかった。
もぬけの殻、と言われても洞穴の暗闇から妖異が襲いかかってくる想像がなかなか拭い去れなかった。
残り香でこれほどの妖力だ。
あらためて、鬼の怖ろしさを思わされる。
「やはり鬼術で妖気を抑え、封印を破ったことを気取られないようにしたようですね。
我らの目を欺き、鬼どもはどこへ向かったのか……」
「オグニ様!」
身を押しつぶさんばかりの妖力に耐えかねたように、タケサチヒコは叫んだ。
「何故そのようにのんびり構えていられるのです!?
鬼が―――封印を破ったのですよ!」
「タケサチヒコ殿こそ、落ち着きなさい」
オグニの声は静かなものだった。
だが、有無を言わせない力強さがあった。
「ミコトが神殿に来た時から、遅かれ早かれこの時が来るのは予感していたことです。
そして、そのために今日までできることはしてきました。
たしかに、鬼が封印を破ったのに気づかなかったことは、わたくしの落ち度です。
ですが、今はそれを謝罪するよりも次の手を講じる時のはずです」
己の取り乱しようを恥じつつ、タケサチヒコは押し黙り、うなずいた。
「強大な闇を相手に我らの力が及ぶか否かは問題ではありません。我々はただ、最善を尽くすまでです」
凛とたたずみ、一片の淀みもなくそう告げるオグニの姿に、感に打たれる思いだった。
とてもこのような境地には至れない、とタケサチヒコは遠い憧れのように思った。
そんなタケサチヒコの内心を見抜いたようにオグニは言う。
「タケサチヒコ殿。あなたはまだお若い。我らと同じ道を辿らずとも―――」
「いえ」
アシナヅチにも同じことを言われたな、と内心苦笑しつつも、タケサチヒコはやんわりとオグニの言葉を遮った。
「覚悟はできている……などと生悟りなことを言うつもりはありません。ですが、あの子の、ミコトの行く先を照らすためと思うと、不思議と苦がなくなるのです」
タケサチヒコは懐を探り、昨日作ったばかりの東風玉をオグニに差しだした。
「オグニ様、これをあの子に渡していただけますか。最期の時に、あの子のそばにいるのはあなたでしょうから」
「……わかりました」
オグニは東風玉を受け取ると、それ以上「その時」については何も言わなかった。
「さて、鬼の動向も大いに気になるところではありますが、まずは神殿の皆に火急を知らせねばなりません。急ぎ戻るとしましょう」
「はい……それでは」
それ以上の問答は不要とばかりに、二人は再び森を無言で駆けだした。
だが、タケサチヒコは己の焦燥を抑えるのに必死だった。
一刻も早く神殿に戻りつきたかった。
こうしている間にも神殿の者に、ミコトに鬼が襲いかかっているのではないかと思うと気が気ではなかった。
オグニにならい、泰然自若としていたい、と思う。
けれども、森の獣たちのざわめきがうつったように、胸が騒ぐのをどうしてもおさめられなかった。
二人が神殿に戻りつく直前のことだった。
再びの異変を二人は見て取った。
「これは……」
「おお」
一瞬足を止めて、タケサチヒコとオグニは上空を見上げた。
決して晴れることがないといわれていた眠りの森の霧が、うっすらと溶け消えていったのだ。
森の中では決して見ることのなかった陽光が木々の間から降り注ぐ。
これもまた、異変には違いなかった。
だが、タケサチヒコには、妖気を感じた時と違いこれを凶兆と受けとっていいのかどうか分からなかった。
「なるほど……。鬼の狙いはどうやらこれだったようですね」
「えっ」
しかし、オグニにはなにかしら思い当たることがあったらしい。
思案気にそうつぶやいた。
「詳しい話は皆がいるところで致します。急ぎましょう」
「は……はい」
―――
一方、神殿に残った者達も異変に気づきはじめていた。
オグニが注連縄の紋様を解いたその時、北東の方角に強い妖気を感知した。
さらにその直後、眠りの森の霧が晴れたのだ。
神殿の長たるオグニが不在ななか、主だった神官、巫女達が集まり、議論を交わしはじめた。
だが、何らかの決断を下されるよりも早く、外界からさらなる動きがあった。
都からの急使がやってきたのだ。
東風出ずる国の王都からラクサ神殿のある眠りの森までは、ずっと駆け通しでも、まる二日ほどの距離がある。
使者は疲労困憊の様子であった。
おそらく都からここまで一時も休んでいないのだろう。
外傷こそ見当たらないものの、衰弱がひどかった。
「これはいかん。すぐに食事と休息を」
出迎えた神官は使者を抱きかかえるように奥へ連れていこうとしたが、使者はそれを拒んだ。やむなく本殿中央の間に連れてゆくと、すぐに神官、巫女達が何事かと集いはじめた。
「そ、それよりもこれを……」
切れ切れに途絶えがちな声で使者は言い、懐から書状を取り出す。
封は王家の家紋であった。
「うむ、たしかに預かった。おぬしはもう休め」
「……いえ。この目で見た光景も合わせて報告するようにと仰せつかっています」
かすれた声ながら、確固たる声音で使者は言う。
そして、一度ゆっくりと呼吸をすると、面を上げ、告げた。
「――鬼が、現れました」
「なんと……」
そのたった一語に、その場に居合わせた神官、巫女達は騒然となる。
「お聞きしましょう」
ただ一人、いささかの動揺も見せずに、オグニが神殿の表から姿を現した。
その傍らにはタケサチヒコの姿もある。
「オグニ様、ご無事で!?」
「いままでどちらに!?」
神殿の者達が寄ってくるのに構わず、オグニは使者に語りかけた。
「お務めを果たさねば御使者殿も心安らかにくつろげないでしょう。
そのままで構いませんので、どうか、都で何が起こったのかお教え下さい」
オグニは使者に向けて丁重に頭を下げた。
「お心遣い、感謝いたします」
オグニよりもさらに深々と頭を下げ、使者は報告する。
息も絶え絶えの様子であったが、その口上は居合わせた神官たちを騒然とさせるのに十分な迫力を宿していた。
内容は凄絶、の一語に尽きた。
昨日、未明、鬼はいずこからともなく忽然と姿を現し、都を急襲したという。
東風日ずる国の兵士達は勇猛果敢なことと、伝統的な長槍の武芸によって近隣諸国にも知られていたが、その光景にはなす術もなく、呆然とするしかなかったという。
その力が、あまりにも圧倒的すぎたからだ。
鬼の軍勢は百は下らないだろう、と使者は言う。
神殿の者達もその数を聞くと、顔色を失った。
鬼の腕力はすさまじく、石筒にも耐えうる城壁が紙のようにたやすく崩れ落ち、鬼どもは大挙して街に押し寄せた。
そこから先は一方的な虐殺であった。
兵士と民間人の区別も、老若男女の別も鬼には存在しない。
建物は徹底的に破壊され、逃げ惑う民衆はあるいは踏みつぶされ、あるいは放たれた業火に巻き込まれた。
長槍も鬼にはほとんど通じず、市民を守ろうとした兵士達はまっさきに命を落としていったという。
自分はこのことを告げるため、からくも戦火を逃れ都を脱出したが、おそらくもう王城も落ちているであろう、と使者は結んだ。
重い沈黙が落ちた。
絶望的な空気が広間を満たす。
誰もが言葉を発するのをはばかり、重苦しく黙したままうなだれる。
胸中では、使者の報告におののいていた。
が、その沈黙を破ったのはやはり神殿の長たるオグニであった。
「一つだけお訊きしてもよろしいでしょうか」
「なんなりと」
使者のいらえにうなずき返し、オグニは問う。
「鬼は、ただ闇雲に都を襲ったのでしょうか。何かを探している様子ではありませんでしたか」
「……私の目にはただ破壊と殺戮を撒き散らしているようにしか。
あ、いや、鬼の司令官らしき者が何かを大声で呼ばわっていたような……。
なにか、聞き慣れない岩の名を上げ、それはどこだ、と」
「ゴトビキ岩、ではないでしょうか」
「そう! ゴトビキ岩。そうです。ゴトビキ岩はどこだ、と何度も繰り返していました」
その名に聞き覚えがあるのはオグニただ一人だけのようだった。
他の者達はこと問いたげに神殿の長を見やる。
が、オグニは説明の前に使者にいたわりの言葉をかけた。
「よくぞ大事を知らせてくださいました。さあ、今度こそ、ごゆっくりとお休みください」
使者を奥へと連れてゆく役は、その場で一番年若いタケサチヒコが担った。
「さて」
使者の姿がなくなると、オグニはあらためてその場にいる者達の顔を見回した。
「聞いての通りです。
とうとう、我らの使命を果たす時が来ました。
みなを呼び集めて下さい。
もちろん、ミコト以外のみなを、です」
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