第三場 ミコトとコチドリ
あくる早朝、アシナヅチに告げた通り、タケサチヒコは一人神殿付近の森の中を見回っていた。
一見したところ、異常はなにも見当たらなかった。
眠りの森は、霧をたたえ、太古の昔から変わらぬ営みを繰り返しているようだった。
だが、どこか落ちつかなげな気配がする気もした。
獣も虫も、活発というよりも、何かに怯えるように盛んに鳴き声を交わしているようだった。嵐の前の静けさ、ならぬ、騒がしさといったところか。
「本当にただの嵐ならよいのだが……」
つぶやき、タケサチヒコはゆっくりと周囲を見回す。
妖気はあまりにも微細で、どこから発生しているのか特定することはできない。
気のせいかもしれない、とも何度も思うが嫌な予感が拭いきれなかった。
「だめえぇぇ!」
その時、森の中から悲鳴のような声が上がった。
タケサチヒコのいる場所からごく近い。
不穏な予感は一気に膨れ上がり、はじかれたようにタケサチヒコは駆けだした。
声の主には心当たりがあった。
というより、この神殿で甲高い少女の声の持ち主は一人しかいない。
「ミコト、無事か!?」
悲鳴のしたと思しき場所に行きあたると、たまらずタケサチヒコは声を上げた。
「あ、タケさん」
すぐ目の前に、予期していた通りの少女の姿があった。
存外に呑気な声が返ってくる。
「なっ……」
だが、タケサチヒコの方はその光景に絶句した。
なぜか、少女は一糸まとわぬ素っ裸であった。
うっすらと立ちこめる霧に透けて見える、健康的な肌が目にまばゆい。
少女は自身の格好をそよとも気にしていない様子だった。
肌を隠すこともなく、タケサチヒコのそばにてくてくと歩み寄る。
タケサチヒコはあわてて目をそらし、横を向いた。
本当はくるりと背を向けたかったが、さきほど上げていた悲鳴が気になった。
ちらりと見えたその姿には、怪我をした様子などはなかったようだが……。
十を迎えたばかりの少女である。
短く刈ったくせっ毛に、はつらつとした顔立ち。
それにまだ幼い四肢は、一見して少年のようだ。
そうかと言って、じろじろと眺めていいものではない、とタケサチヒコは思う。
「み、ミコト、これは一体……」
しどろもどろになり、立ちつくす。
と、タケサチヒコがやってきたのとちょうど反対側のやぶの中から助け舟が現れた。
「このたわけ者っ!」
鋭い叱責の声とともに、ばちぃんと乾いた音が森に鳴り響いた。
「いっだああああ。なにするんですか、ししょ~」
ついであがるミコトの涙声。
目を遣らずとも、タケサチヒコには何があったのか手に取るように分かった。
新たに現れたのは、ミコトの直接の師であり、神殿の長老でもあるオグニの声であった。
アシナヅチが歳とともに手足の衰えた枯れた老人なら、オグニは歳とともにさらに鋭く磨きあげられた、厳粛な空気を身にまとった老媼であった。
小柄ながら背筋はまっすぐ伸び、しわだらけでも顔立ちは凛と澄ましている。
白衣と緋色の袴という巫女装束を、身体の一部であるかのように着こなしている。
先ほどは、いつも手に持っている竹製の
直弟子のミコトはもちろん、タケサチヒコにとっても頭の上がらない存在であった。
「なにするんですか、ではありません。あなたもいい加減、巫女としてのつつしみを覚えなさい。そうでなくとも、もう十になる年頃の娘が恥じらいの心一つ持たなくてどうするのです」
オグニの叱責に、ミコトは不服そうにうぅ~と喉の奥でうなる。
そうはいっても、ミコトの周りに同年代の者はおらず、神殿で二番目に年若いタケサチヒコとも倍以上の年齢の開きがある。
それに、神殿の者はみな、一つの大家族であるように暮らしてきた。
こんな環境では恥じらいの心など持ちようがないではないか。
そんなようなことを、ミコトは口の中でぶつぶつとつぶやく。
オグニは呆れてため息をついた。
再び鞭がとびそうな不穏な気配が漂う。
「まあまあ、オグニ様。ミコトにもなにか事情があったのではないでしょうか」
その空気を察して、タケサチヒコがなるべくミコトに視線を向けないよう気をつけつつ、取りなす。
「あっ、そうなの!」
その言葉に、何かを思い出したようにミコトが声を上げた。
「見て!」
そう言って両手をお椀の形にして、前に突きだした。
と、言われてもタケサチヒコは裸のミコトに目をやるわけにはいかなかった。
代わりの役目はオグニが果たした。
「……コチドリのひなですか。怪我をしているようですね」
「そう!」
師の言葉に、ミコトは勢い込んで首を縦に振る。
「泉でみそぎをしてたらこのこがタカに襲われそうになったの。あわててタカを追っ払ったの。そしたらこのこが巣から落ちちゃったの。だから裸なのはしかたないの」
ここぞとばかりにミコトはまくしたてる。最後に自己弁護をつけくわえるのも忘れない。
みそぎ、とは水浴して身心を洗い清める巫女の行の一つだ。
ミコトは日々の修行の前に、朝、みそぎをすることを日課としていた。
さっきの悲鳴じみた声は鷹を追い払おうとした声か、とタケサチヒコは内心納得した。
言われてみれば、声の方に気を取られてあまり気にかけなかったが、なにか大型の鳥が羽ばたく音もついで聞こえた気がした。
「仕方なくありません」
ぴしゃりと言ったオグニだが、その声にかすかに安堵の色が混じっていることにタケサチヒコは気づいた。
なんのことはない。
オグニもまた、自分と同じように、ミコトの上げた声を聞きつけなにごとかとやってきたのだろう。
そのことに気づき、タケサチヒコは微笑ましく思う。
もっとも、頬が緩みそうになった瞬間、内心の全てを見透かしたような視線でオグニに睨まれ、あわてて表情を繕うことになったが。
「よいですか、ミコト」
師としての威厳のにじんだ声音で、オグニはミコトを諭す。
「この世に生を受けた者はみな、他の生命をいただいて生かされています。そのひな鳥も母鳥の運ぶ虫を口にしなければ生きられません。もしかすれば、あなたの追った鷹にも、育てねばならないひなが大勢いたのかもしれません。生きとし生けるものは互いに繋がりあっている。それが自然の理なのです。人の営みも例外ではありません。分かりますね」
「はい、分かります。師匠……」
うなずき返したものの、ミコトの声はしょげかえっていた。
目を向けなくても、タケサチヒコには悄然とうなだれている姿が容易に想像できた。
自然の営みにならうことを根本教義としているラクサ神殿では、肉食は禁じられていない。むしろ、森での狩猟は自然の命をその内にいただく重要な修行の一環として神聖視されていた。
まだ幼いとはいえ、ミコトに師の教えの説く自然界の理が分からないはずはなかった。
「とはいえ、空の広さも知らず、羽ばたくことも覚えぬまま命を落としてしまうのでは、あまりに憐れです」
オグニは声の調子を少し柔らかく変え、そう続けた。
「ミコトがその命を救ったのもなにかの御縁でしょう。最後まで責任を持って治癒をほどこし、巣に戻してさしあげなさい」
「はいっ、師匠!」
うってかわって元気な声で、ミコトはうなずいた。
オグニは咳ばらい一つして付け加える。
「……服を着てからです」
「あ、はい。じゃあタケさん。このこお願い」
どういうわけか、ミコトはオグニではなく、タケサチヒコにひな鳥を手渡そうとする。
厳格な師より頼みやすいと思ったのかもしれない。
仕方なく、タケサチヒコはなるべくミコトの体の方には目をやらないようにして、ひな鳥を両手に受けとった。
それと同時に、ミコトは元気よく駆けだしていった。
タケサチヒコは手の中の鳥を見やる。重さはほとんどない。
コチドリは、黒と白と灰褐色三色のコントラストが目に鮮やかな小さな鳥だ。
けれど、ひなはまだ羽毛も生えそろわず、収穫直後の畑地のようだった。
鷹に襲われた時か、巣から転落してできた傷か、羽根が折れているようだった。
このままでは、いずれにせよそう長い命ではないだろう。
―――空の広さを知らない、か。
タケサチヒコは先ほどのオグニの言葉を思い出した。
ミコトも、このひな鳥と同じだ、と思う。
あの子もまた、幼さという殻を抜け、霧に包まれた眠りの森を飛び出し、広がる世界を見なくてはならない。
たとえ、それがどれだけ残酷な世界であろうと。
無意識に、タケサチヒコはミコトの駆け去った方を見やった。
ミコトは水行の時はいつも、泉の近くの木の枝に自分の衣服をかけている。
下着を履き、白衣と緋袴をまとう。さらに白い足袋とわらじをつっかけるといういでたちだ。ひな鳥のことが気になってか、手早く、というよりもかなり乱雑な着こなしだった。
同じ巫女装束でも、凛として一分の隙もないオグニのたたずまいとは、雲泥の差だった。
ミコトはそんな自身の格好をかえりみることもなく、タケサチヒコの元へと風のように駆けもどる。
オグニはミコトの着こなしを見咎め眉を吊り上げたが、いまは言っても無駄と判断したようで、ため息をつくにとどめた。
ミコトの眼には、コチドリのひなしか映っていないのが明らかだったからだ。
ミコトはひなをタケサチヒコから受け取りなおすと、愛おしげに呼びかける。
「待っててね。すぐによくなるから」
てのひらにひなを抱きなおしたその瞬間に、ミコトのまとう空気が一変した。
はつらつとして無邪気な少女のそれから、眠る幼子を慈しむ母親のようなものへと。
そのまなざしには、横で見ていたタケサチヒコが思わず息を呑むほど、深い慈悲の念が感じられた。
ミコトはまるで自らが傷を受けたかのように、痛ましげにひなの翼に手を添える。
その口から、先程までのはつらつとした声とはうって変わった、おだやかで、清冽な響きの文句が紡がれる。
呪法の文言である。
それとともに、ひなを包むミコトの両手に温かな霊力の光が宿る。
巫女による、癒しの呪法であった。
自身神官であるタケサチヒコにとっても、物珍しい光景ではない。
にも関わらず、タケサチヒコは目の前の光景に心が打ち震えた。
まるで、自分が治療を受けているように、胸にあたたかなものがこみあげてくる。
―――やはり、この子はわたし達の希望なのだ。
タケサチヒコはあらためて確信する。
間もなく、折れた小鳥の翼は完全に元通りに治った。
「うん、なおった、なおったー」
自分が奇跡を体現した、という自覚はまるでないようで、ミコトは無邪気に喜んでいた。
「よかったな」
タケサチヒコが声をかけると嬉しそうにうなずく。その無邪気な様子は年相応の少女のものに戻っていた。
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