5-7

「おおォーい、チリィイイッ! いるなら返事しろぉッ!」


 バルタが張り上げたその声は岩礁で砕ける波濤の音に掻き消される。そして一瞬後には何事もなかったかのような静けさが訪れ、次いで鼓膜は再び風音と潮騒で満たされていく。

 チリを探し始めてから四半刻は経っただろうか。

 夜目には自信があるバルタだが月の出ていない夜、嵐の岩場での捜索は当然ながら困難を極める。

 レイトの光に照らされたあの難破舟は間違いなくチリのものだった。

 見紛うはずがない。

 港には係留せず、砂浜に打ち上げている全長五メードほどの小ぶりな舟。

 もとは波打ち際に近いところで海藻などを採るための平舟だったそれに帆柱を立てて漁舟にすると聞いたとき、バルタは心ならずも少し笑ってしまったのだ。

 無理だと思った。

 舟が小さ過ぎるし、なにより帆を立てたとしても底の浅い平舟が横風を受ければすぐに転覆してしまう。そんな無茶をするよりも他の漁船に乗せてもらって分け前をもらう方がずっと良い。

 そう助言するとチリは幼い顔つきを硬く強張らせた。

 そして服に着いた虫でも払うように言葉を吐き捨てた。


「誰も乗せてくれるはずないさ。だって俺は疫病神の息子なんだから」


 チリの瞳の奥には暗い色合いの焔が宿っていた。

 全てを失い、全てに裏切られた少年の瞳だとバルタは感じた。

 バルタは何も言えなかった。


「ソルトさんは疫病神なんかじゃない。英雄だ。だからチリ、胸を張れ。お前は英雄の息子だ」


 そう言ってやるべきだった。

 取り繕いの慰めなんかじゃなく本心からそう思っていたのにその言葉を口から出すことができなかった。

 なぜだろう。なぜ言えなかったのだろう。

 きっとそう言い切れる自信がなかったのだ。

 まだ駆け出しの漁師である自分がそう断じて良いものかどうか、それが分からなかったのだろう。

 愚かだった。そして幼過ぎた。

 ずっとずっと後悔している。

 浜の人間たちがなんと言おうとも俺は心のままをチリに伝えてやるべきだった。

 


 今でもバルタはあの時、壇上で満足げに笑ったソルト・ザンジバルを網膜に鮮やかに浮かべることができる。またその頃新造したばかりの中型の風帆船の舳先で仁王立ちになり、バルタの乗り込んだ大舟やその他の小舟の船団を引き連れて沖へと向かっていく彼の勇姿もついこの間のことのように思い出せる。

 ドラグイの大群にはタワアの近くで相見えた。

 統率の取れたその群れは大舟から見下ろすと途方もなく巨大な一頭の鯨の背のように見えた。けれどよく見るとそこには漆黒の背鰭が無数に立てられ、それらが代わる代わるに海中へと潜り、また浮いてくるのを認めた。おそらくドラグイたちは海底までのあらゆるものをそうやって食い尽くしながら悠々と進んでいた。

 奴らが通り過ぎた海には海藻一本残らない。

 その言葉が一塊の脚色もない真実であることを見せつけられたような気がしてバルタは怖気を覚え、思わず体を硬直させてしまった。

 不意に気持ちが怯んだ。


 これは無理かもしれない。


 寄合所ではあれほど意気軒昂に膨れ上がった闘志が急速に萎んでいくのを感じた。

 そして武者震いがただの臆病な震えに変わった。

 それは自分ばかりではなかったのだろう。

 出港したときの威勢が船上から瞬時に消え、嘆息を含んだ呻き声がいくつかの口から漏れ聞こえてきた。けれどそんな不穏で終息的な空気感の中、ただひとり先頭を行くソルトが振り返り意気揚々と手にした銛を突き上げ、大音声で叫んだ。


「よおしッ、頃合いだぜ! そろそろおっ始めるとするかよッ!」


 刹那、ソルトの腕に渾身の力が込められ海面に向けて銛が突き降ろされた。

 すると次の瞬間、彼の厳つい肩幅と比して引けを取らないドラグイの大きな尾鰭が波間を激しく叩く。ソルトの銛は正確かつ奥深くそのドラグイの脳天を屠っていた。血液が真っ黒な海を赤く染め替えていき、間を置かずドラグイの白い腹がソルトの舟の真横に浮かんだ。

 船団の全てがその一部始終を息を呑んで見つめていた。

 やがて銛を引き抜いたソルトがもう一度振り返った。


「おいおい、どうした野郎ども! いいのか、早くしねえと俺が全部狩っちまうぜ!」


 その恐怖など微塵も感じさせない少年のような笑みに海上の全員が再び奮い立った。喚声が上がり、そして各々が目が覚めたように次々と雄叫びとともにドラグイ目掛けて銛を放ち始めた。たちまち海が赤黒くなり、ドラグイの腹が青い波間ににいくつもの白点を打った。闘争心を新たにした漁民たちは噴き出す汗を拭うこともせず、ドラグイを屠り続けた。

 バルタの役割はもっぱら先輩漁師たちの補助作業であった。もちろん自ら勇ましく銛打ちをして貢献したい気持ちはやまやまだったが、ドラグイの表皮は恐ろしく硬く厚く、余程腕っぷしに自信のある者でも場所や角度を間違えれば銛先は容易に弾かれてしまうのを目の当たりにして早々に断念した。

 バルタは引き抜いた銛の刃先から脂を拭き取ったり、力余って、あるいは目測を誤り舟腹に当たって折れてしまった柄の棒を予備のものに付け替えたりと懸命に働いた。気がつくといつのまにかそばにヨシアが居て同じように補助作業に徹していた。

 いつもなら軽口でからかってやるところだったがそんな余裕があるはずもなかった。それはヨシアも同じだったのだろう。二人は時々目線を合わせ、頷き合い、そして自分にできる仕事に集中した。

 やがて討ち取られたドラグイの血と腹の色により船団周囲の海面のほとんどが白と赤でまだらに染まった。その戦果に立ち向かうことなど無謀としか思えなかった五百という数がそれほど困難なものではないと思えてきた。

 けれど無我夢中で噴き出す汗を拭く暇もなく立ち働き続けているとやがてその疲労から次第に集中力が途切れ始める。また多くの漁師たちが肩で息をするようになり銛を放つ頻度も緩慢さを増してきていた。その状況に再び消え失せたはずの不安が顔を覗かせた。

 周囲を見渡せば確かにドラグイの遺骸が無数に浮かんでいる。けれどその数はおそらくまだ百にも満たない。見上げれば太陽はすでに天頂を過ぎていた。また辺りに視線を流すと疲れ果てもはや一指も動かせないといった体で舟板に倒れている漁師が何人もいる。

 日が暮れるまであと数刻。はたしてそれまでに残りのドラグイをあらかた討ち取ることなど本当に可能なのだろうか。

 生じた不安は腹の底を根城に一気に膨らんでいく。

 そんなときバルタは激しく頭を振ってその弱気を振り払い、次いで助けを求めるように未だ船団の先頭で銛を振い続けるソルトへと目を遣った。

 そこには褌以外の衣を全て脱ぎ去った彼の裸身があった。遠目にも超人的に盛り上がったそれは噴き出した汗とドラグイの魚油に塗れて神々しい光を放っていた。

 瞬間、バルタは熱風に煽られたような錯覚に陥った。

 次いで身の内で再び燻り始めていた不安と絶望が一気に拭い取られ、それに置き換わるように熱気が全身にほと走り皮膚が泡立っていく。

 バルタは独り、昂る気持ちを持て余した。

 同時に奮い立つ心が全身に蘇った。

 

 無尽蔵の体力と気迫はまさに鬼神。

 大丈夫だ。あの人がいる限り、俺たちに敗北はない。


 その勇気を火種にしてバルタは再び気合いを入れた。

 そしてそのような息切れと回復を何度か繰り返したそのとき、突然、大舟の舳先に立つ見張りが悲鳴のような声を上げた。


「お、おい見ろ! な、なんだありゃあ!」


 蒼白となった男が指差した先に目を向けたバルタは思わず瞠目して呼吸を忘れた。

 

 その海面に突き出した巨大な背鰭はまさしく死神の鎌のように見えた。

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