5-6

 ご、五百……。

 バルタが息を呑むと同時にさざなみのような動揺が沈黙を打ち破り、そしてそれはすぐに驚愕と絶句の大きなうねりとなった。


「バカな、そんな数のドラグイ……」

「……お、おしめえだ。奴らに全部喰われちまう」

「くそッ、なんとかならねえのか。それじゃムサシノの海なんかひとたまりもねえ」


 怒号とも悲鳴ともつかない声が寄合所に充満し、次いで普段はすこぶる威勢の良い浜の男たちが焦燥に顔を歪め、あるいは沈鬱な表情を俯かせる。

 バルタも同じように悄然とその場に立ち尽くした。

 為す術などあるはずがない。

 駆け出しの漁師である自分にも五百という数字の意味が絶望的に理解できてしまう。その先に浜民の全てが飢えて地獄絵図と化した情景さえも頭に浮かんだ。

 そして頭を抱えた漁師たちが声を失い、やがて諦観のため息を吐き出し始めたそのとき、けれど突然、明朗な声が場違いに響き渡った。


「おいおい、どいつもこいつもなんつう時化た面してやがる」


 轟いた声は全てを威圧するような、けれどどこか何かを愉しんでいる風にも聞こえた。場に戸惑うような騒めきが立ち込め、声の主はそのさざなみの如く揺れる雑踏を掻き分け囲炉裏向こうの講壇へとゆっくりと進んだ。そしておもむろに登壇したその男は一斉に向けられた目線をひとしきり舐めるように睥睨するとやがて腕組みをして不敵な笑みを浮かべる。


「お前らに聞こう!」


 開口一喝。

 大音声にバルタを含めその場にいる全員の肩が一斉に引き締まった。

 次に男は声の勢いを緩め、その分よく通る低い声で尋ねた。

 

「なあ、俺たちは今、何を一番に考えるべきなんだろうな」


 寄合所がシンと静まり返り、バルタも思わずゴクリと唾を飲み込んだ。


 ソルト・アオタガワ。


 このムサシノの地でその名を知らぬ者はいない。

 風読みの達人ザンジバル・アオタガワの子息にして、数々の戦功により鬼神とも呼ばれる豪傑である。中でもタマリバの戦いにおいて敵に包囲された戦姫レスカをほとんど単身で救い出した奇跡はまだほんの数年前のことであるのに、もはや伝説のように語り継がれている。


 そのソルトが再びよく響く声を放った。


「もう一度聞くぜ。俺たちにとって今いっとう大事なもんはなんだ」


 そう問われて最初にバルタの頭に浮かんだ『大事なモノ』は銭だった。銭があれば飢えることはないし、新しい漁具も買える。大金があれば舟だって新調することができるかもしれない。バルタは金持ちになった自分を想像に膨らませてみた、がしかし上手くできなかった。金持ちという人種がどういう身なりをしてどういう生活を送っているものなのか実は見当もつかなかった。考えてみればそもそもそういう人間を間近で見たことがないのだから仕方がない。この貧しい漁村に必要以上の銭を持っている者など皆無だったし、裕福な商人が店を連ねる森の街道にはほとんど出向いたこともないのだ。見たことのないものの姿を自分に重ね合わせるのはやはり無理な相談であった。

 そこで仕方なく今度は王宮が鋳造する金貨を数枚握りしめた自分を思い浮かべてみた。金貨なら一度だけ浜長に見せてもらったことがある。表にはムサシノ王宮の紋章、裏には神への従順を誓うという意味の古代文字がそれぞれ刻印されたまん丸で薄っぺらい金貨。その一枚で小さな家が建ってしまうと聞かされたがバルタはとても信じられなかった。それが数枚も手の中にあれば紛れもない金持ちであろうし、さぞや気分がいいだろうと思ったものの、目に浮かべた誇らしげにニヤつく自分は唾を吐きつけてやりたいほど耐え難く滑稽で浅ましいものだった。

 その考えを追い出そうとこめかみを指でギュッと突くと、どういうわけか寡黙な父と何かと口うるさい母、そして近頃妙に娘っぽくなってきた三つ下の妹の像が金貨と置き換わった。

 いきなり現実に引き戻され、思わずフンと鼻を鳴らしたくなった。

 けれど裏腹に胸の内側がほんのりとした熱を持った気もした。加えていとこのヨシアも現れた。寄ればすぐにケンカになるが離れていると無性に味気なさを感じるアイツだが今そばに居てくれればどんなに心強いだろうと素直に思えた。

 不意に壇上に立つ鬼神が求める答えに理解が及んだ。いや、それは考えるまでもないことだっった。そして気がつくと周囲の男たちは唇を引き結び、あるいは砕けんばかりに奥歯を噛み締め、ほぼ全員が無言で壇上に熱い眼差しを向けていた。

 ソルトは頃合いを見計らったようにひとつ大きく頷き、優しく落ち着いた声を落とした。


「ふふ、その通りだ。これは俺たちが絶対に守らなけりゃならねえのはなんだという話だ」

 

 そして挑戦的でやけに子供っぽい笑みをその彫りの深い顔に浮かべると組んだ腕をゆるりと解き、そして右の拳で胸をドンと叩く。


「決まっているよな! そりゃあ家族だろう! 仲間たちだろう! 突き詰めりゃ大事なモノなんてそれ以外にあるはずがねえッ! そしてそれを育み支えてくれているのがこのムサシノの海だッ! なら俺たちはどうするべきだ? たかが鮫の大群に尻尾を巻いて奴らが好き放題に海を凌辱して去るのをただ指咥えて見送るってのかッ! 飢えて路頭に迷う自分の家族や仲間を黙って放っておくってのかッ! ここにいる浜の男どもはそんな情けねえ奴らばかりなのかッ! どうなんだ、お前らッ!」


 その挑発に突如として血液が沸騰したかのような熱がバルタの喉元に迫り上がった。そして無意識のうちに唇が蠢き、呟きがこぼれ落ちる。


「……やる、……俺はやる」


 その刹那、周囲にも小さな声が無数に散りばめられ、それから瞬時にして大きな渦を成して沸き立った。今や誰しもが紅潮した顔を壇上のソルトに向け、あるいは拳を突き上げて口々に叫んでいた。


「うおおッ! 俺は行くぜ! 海と浜を守れるのは俺たちしかいねえ!」

「ワシもだ。銛打ちならまだまだ若いモンには負けはせんわい」

「畜生、ドラグイがどれほどのもんだってんだッ! 所詮は鮫コロ、いくら大群でも人間様にゃ敵わねえってことを教えてやる!」


 さっきまで満ち満ちていた消沈と絶望はすでに跡形もなく消え失せ、代わりに殺気だった高揚が完全にその場を支配していた。その変貌ぶりにバルタの肌は泡立ち、全身を鳥肌が覆っていた。


「ああ、いいねえ。やっぱりお前らは最高だ。それでこそムサシノの男たちってもんよ。ドラグイ五百、上等。あっさり返り討ちにして家族と仲間を守ろうじゃねえか。そんで今宵は全員そろって鰭酒で祝杯と行こうぜッ!」


 ォォオオオーーーッ!


 地響きか怒涛かのような喚声が上がった。

 寄合所はもはや興奮の坩堝るつぼと化していた。

 知らず知らずのうち、バルタも拳を突き上げ「やってやる! やってやる!」と何度も雄叫びを上げていた。

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