5-5
未だ強い風によって吹きつけてくる波が岩礁で弾けて豪放な音を響かせている。
「チリぃぃッ! 聞こえたら返事しろぉ! おおーい、チリぃぃッ!」
バルタは闇に目を凝らしながらゴツゴツとした岩場を草鞋ごしに伝わる足裏の感覚だけで焦りつつ、けれどゆっくりと進む。そして轟く潮騒に掻き消されまいと声を張り上げ、何度もチリの名を叫んだ。けれどいくら繰り返しても応える声はなく、それどころかその気配さえ感じられない。
畜生、チリの奴どこにいやがるんだ。
これ以上、面倒掛けさせるんじゃねえよ。
思わず舌打ちをするとその途端、悪い想像が頭に浮かぶ。
……てことは、やっぱりまだ海の中に。
この暗闇と波ではさすがに海中の捜索までは無理だ。
それに体力など消耗し切っているはずのチリがこの荒波の中でいつまでも泳げるはずがない。そうだとしたらチリはもうすでに水底に沈んで……。
その最悪の予感にバルタはブンブンと頭を振る。
んなわけあるかよ。
あいつがこんなところでくたばっていいはずがねえ。
だってチリは……あいつはあのソルトさんの息子なんだから。
そう考えて奥歯を噛み締めると不意に少年だった日の記憶が甦った。
それは八年前、突如ムサシノの海にドラグイの大群が襲来したあの日。
いまでも胸の奥に焼きついていて色褪せない恐怖と無念の記憶。
ドラグイ ――――
それは腹白く、胸鰭から上は墨で塗り潰したような漆黒の分厚い皮を持つ巨大鮫の呼び名だ。その大きさは総じて5メードを優に越え、中には10メードを超える巨大なものまで居ると聞く。
またドラグイは底無しの大食漢にして獰猛。
常に数匹から十数匹の群れを作り、大海流クロシオを餌場として北へ南へと回遊を繰り返しているとされている。よってその姿を内海であるムサシノで見かけることは滅多にないが、ただ時折獲物を追って湾奥まで入り込んでしまうことがあり、そうなるとたとえそれが数匹の群れであったとしてもかなりの食害が出てしまうので浜では昔から海の無法者として忌み嫌われていた。
とはいえ奴らは外海ほどに食すものがないと分かると数日でいなくなってしまうのが常であり、たまに内海でドラグイを見かけたという報告があってもそれほど大きな話題にはならなかった。
けれど八年前のあの盛夏の日にその常識は覆された。
バルタは十六歳だった。
ようやく漁の基本を学び終え、数日後にはいよいよ大舟に乗せてもらえるということになっていたバルタはその日も浮き立つ心を抑え込みつつ寄合所の戸を開けた。
するといつもは耳を塞ぎたくなるほどに笑声や怒号が飛び交っている屋内がやけに静まりかえっている。不審に感じて見渡すと人がいないわけではなく、むしろ身じろぎするのも難しいほどにごった返していて、その咽せるような熱気と体臭に相反する静けさにバルタは一気に底知れない不安に駆られた。
「やっぱ、おめえらの見間違いじゃねえのか。だってよう、そんな数の大群なんかこれまでに見たことも聞いたこともねえし」
土間に立ち尽くしている数十という漁民のうちの誰かがやや引き攣った含み笑いで沈黙の堰を切った。するとすぐさま奥の囲炉裏近くにいる男が興奮して裏返った声で言い返してくる。
「くそッ、絶対に見間違えなんかじゃねえよッ! 俺たちは確かに見たんだ。虹橋辺りにたむろしていたドラグイがダイバの岬を超えて次々に湾内に入ってくるのをよお。なあ、そうだろ、おめえも見たよな」
すると同じ場所で別の声が素っ頓狂な調子で響いた。
「ああ、アレはドラグイだった。一匹が小舟ほどもある真っ黒な奴だ。見間違えるわけはねえ。背鰭を数えただけでもざっと百匹、いや、二百匹はいたか。いや、もしかするとそれ以上かもしれねえ……。とにかくものすげえ大群がムサシノの海に入り込んできたんだ。なあ、信じてくれよ。俺たちがそんな嘘ついてどうする。つくはずねえだろう」
最後は泣き言のように掠れた男の声色に一同は再び沈黙する。
話が本当ならば一大事であると若輩のバルタにも飲み込めた。
数匹でも入り込めばそれなりに無視できない食害が出るというドラグイ。
それが数百も襲来したとなればおそらくムサシノの海は数日のうちに何もかも喰らい尽くされて壊滅するだろう。
しかもドラグイは人に対しても獰猛であるらしく、銛で威嚇して追い払おうとした者が返り討ちに舟ごと喰われてしまったという話を聞いたこともある。そんな悪魔のような鮫の大群から浜を守るにはどうすればいいかなどバルタだけでなく、その場にいる誰にも分からなかったに違いない。
そのときバルタの真後ろにある戸口が乱暴に開けられ、続報が息咳切った声で叫ばれた。
「浜長の大舟からの報告だ! いましがたタワア付近の漁場を襲っているドラグイの大群を確認したと伝えてきた。それによるとその数はおよそ五百! 繰り返す、数は五百だッ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます