5-4
一瞬、視界を真っ白な輝きで埋め尽くされたチリは反射的に目蓋をギュッと瞑った。そして刹那のち再び目を開けると、そこはやはり荒れた海原が漆黒の闇に佇んでいる。遅れてぼんやりと思う。
いま……光の中に入ったのかな。
その想像に、けれど歓喜は微塵も訪れない。
代わりにやっと光の近くまで来たという微かな安堵感のようなものが胸中で浮遊している。
もはやチリに鮮明な思考能力は残されていない。
死に誘われる恐怖も生にしがみつく気力もなかった。
―― あの光のところまでたどり着かないと。
チリはランプに集まる夏虫のようにそれを唯一の責務とする人間の形をした何かだった。そして視線は再び光を求めて突き上げる波間と真っ暗な宙空の間を行き来する。
光はどこに……。
緩慢に動く瞳がそれを捉え、またすぐに見失ってしまう。
刃のような光跡が頭上を漂うことがある。
それに沿わせて目線を走らせると光の点を一瞬だけ捉える。
あ、あそこに……。
無機質な思考が浮かび、それに連動して帆縄を持つ手が自動的に動く。
冷え切った体に感覚はなかった。
けれど未だ意識を失わないことを少々不可解に感じている自分がどこかにいる。
時折、ザン爺やシオリカ、そして浜の人たちの笑顔が走馬灯のように音もなく閃いては消えていく。また太ももに挟んだ石剣が熱を放ち、まだ眠るなと酷な指図を残した。
オレは何をしているんだろう。
ふと浮かんだその自問に答えようとする自分はもういない。
けれどそれでもチリの瞳は光を探し、腕はなけなしの力を振り絞って帆縄を引く。
―― 光の色が強くなった。
―― もうすぐかもしれない。
―― この苦しみから解放される。
やがて甘美な想像が小刻みに震え続けるチリの身体をわずかに温めた始めたそのとき、それは唐突に起こった。
得体の知れない何かが恐ろしいほどの力で舟底を突き上げ、その衝撃でチリは宙に放り出されたのだ。
えッ。
次いで帆縄に絡めていた腕が凄まじい力で引っ張られてもんどり打ち、背中が海面へと強く叩き付けられた。そしてチリの身体は否応なく海中へと引き摺り込まれていく。
なんだ、何が……。
と、不鮮明な洞察が働いたのも、ほんの束の間に過ぎなかった。
チリにはもはや抗う力など残されていなかった。
ただ鼓膜に響き渡るくぐもった泡の音を聞きつつ、気道へ入り込もうと押し寄せる水の力を呼吸を止めてなんとか堪えておくことだけがチリにできる精一杯の抵抗だった。
―― 終わり……か。
それはまるで霜を積む冬の朝を想起させるような恐ろしく冷え切った心の声だった。けれど何もかもが麻痺しきったチリにはその絶望さえ、なけなしの感情のひとつだった。
―― いいや……これで。
すべてを手放す時が来たことは明白だった。
ザン爺、許して……。
シオリカ……会いたかっ……。
そして水底に沈んでいくチリの脳裏にそんな片言の想いが消え入りそうに響いたそのとき、不意に太腿に灼熱が走った。その突然の痛みに耐えかね思わずうっすらと目を開くと真闇であるはずの海中がなぜか仄かに明るい。
なんだよ……?
オレはもう楽になりたいだけだ。
放っておいてくれ。
ただ煩わしく思った。
けれどそれでもわずかに体を折り曲げると下帯で挟んでいた石剣がそこで青白い炎をゆらめかせているのが見えた。
…………。
途切れかけていた意識が矢庭に覚醒する。
同時に気管が開き、海水が雪崩れ込んだ。
ぐッ……苦しい……。
チリは遮二無二もがいた。
―― 生きろ、チリ。
どこか遠いところから父の声が響いた気がした。
そうだ、生きなきゃ。
チリは石剣の光を頼りに腕に絡みついた帆縄を無造作に剥ぎ取ろうとする。
けれどそれはなかなか解き外せない。
ぐうッ。
ゴボゴボと音がして肺に水が入っていくのが分かる。
胸全体が焼け付くような感覚にチリは歯を食いしばりギュッと目を閉じた。
苦しい。
痛い。
それでもチリは縄に指を掛け、皮膚ごと掻きむしらんとばかりに強く引っ張った。
―― その瞬間。
閉じた目蓋の裏が不意に明るい青白さで染まり、息苦しさに悶えながらもチリは無意識にその目を開いた。
するとどういうわけだろうか。
目の前に金色の長い髪を放射状に揺蕩わせた女性の白面があった。。
え、誰……?
時間が止まったように感じられた。
そして戸惑うチリに向けて女がやわらかく頬を緩める。
その微笑みに見つめられた瞬間、チリは全てを許されたような安らかな心持ちになった。
不意に、腕に絡みついていた重さがなくなった。
次いで再び、意識が薄れ始めた。
女性がゆっくりと滲んで霧散していく。
苦しさも痛みも同じように消えていく。
やがてチリはなにものからも解放されたような心地よい浮遊感とともに完全なる闇に堕ちていった。
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