5-8
三日月を折ったような形をしたその背鰭はドラグイの群れの流れからやや離れた斜め前方の沖合に突き出ていた。それが異様な巨大さであることは遠目にも一目瞭然。おそらくは平均的なドラグイの五倍以上はあり、バルタの目にそれは前方で銛を振るい続けるソルトのたくましい肢体とほぼ同じ大きさに映った。
距離はおよそ二百メード。
全ての視線がその沖合の背鰭に注目し、いつしか船上は水を打ったように静まり返っていた。やがて近くにいた男が震える声で呟く。
「……ば、化け物だ」
すると堰を切るように漁民たちが口々に慄きと悲鳴を放ち始めた。
「なんなんだよお、アレは」
「あ、ありゃあ本当にドラグイなのか。鯨じゃあねえんか」
「あの鎌形の背鰭は紛れもなくドラグイだ。たぶん二十、いや三十メードはあるかもしんねえ」
「ひいぃッ! そんなモン、撃ち取れるわけがねえだろッ」
バルタは甲板に響くそんな声を聞くともなく耳に入れながら呆然と立ち尽くした。
そばで誰かが尻餅を着く気配がした。おもむろに目線を運ぶとヨシアがそこにだらしなく座り込んでいた。
「……この舟よりデカい」
力なく呟いたその声がバルタの鼓膜の奥で何度も反響を繰り返した。
巨大なドラグイは悠々とした速度でこちらへと向かってくる。
舟に乗り込む前、誰かが口にしていた話をバルタは不意に思い出した。
ドラグイは常に群れで行動する。その群れの中で最も強く賢い個体がリーダーとなり、全てを統率している。また別の群れと遭遇するとリーダー同士で一騎打ちの決闘を行い、勝った方が敗者の群れを呑み込む。そうやってドラグイは群れを大きくしていくらしいと半信半疑の口調でその男は言っていた。
もしその話が本当であれば、あの巨大なドラグイは人間を敵対する群れと見做して売られた喧嘩に決着をつけるべくこちらに向かってきているのかもしれない。その憶測はバルタの背筋に冷たいものを走らせ、喉を引き攣らせた。次いで奥歯がカチカチと音を立て始める。
この舟に体当たりする気なのか。
バルタが息を呑むと、いつのまにかそいつと舟の距離は百メードほどに縮まっていた。
まさか、魚を怖いと感じる日が来るとは思ってもみなかった。
浜の民にとって魚はどんな時も獲物であり、収穫であり、生活の糧であった。逆にいえば魚にとって人間は無作為に自分たちを捕え、貪り喰う悪魔のような存在なのかもしれないと思ったことがある。けれど、だからといって罪悪感など覚えたことはない。自然とはそういうふうにできているものなのだと浅く腑に落ちるだけだった。
しかし今は完全に立場が逆転してしまっている。
こちらへと迫ってきているあの巨大な魚はバルタのことなど、この舟にへばりつくフナムシぐらいにしか思っていないはずだ。
死、という言葉を頭のどこかで誰かが低く囁いた。
「と、取り舵回頭ッ! 下手回しに風を受けろッ」
見張りの立つ櫓に駆け登った
応ッ!
掛け声に合わせて彼らが麻を撚り合わせた太いロープを引くと帆がそれまで右舷から吹いていた横風を受け流し、斜め前方に流れていく。それにつれて船首が徐々に左に回頭していく。
逃げるに如かず。
無論、その舟長の判断に意を唱える者などいない。
むしろ漁民たちの中には遅きに失したと喚く者までいた。
バルタが再び目を移すとドラグイと舟の距離はすでに五十メードもなかった。背鰭が切り裂く波間の下に真っ黒な影が滲み、それがどこまでも尾を引いている。現れつつあるその底知れない巨体にバルタは一瞬、目を疑い呼吸すら忘れた。
……こんなモノ、出鱈目だ。
それはもはや恐怖さえも凌駕する、ただ呆れるばかりの巨大さだった。
全長三十メード、その目測に誤りはない。それどころかさらに大きいかもしれない。しかも向かってくる速さも尋常ではなかった。悠々としたその動きを裏切るようにみるみるうちにその姿は近づき、浮いたドラグイの白い腹を掻き分けるように海面に浮き上がってくる尖った鼻先がすでにくっきりと捉えられるほど距離が狭まっている。大舟はいまだ回頭し切れていない。
とてもではないが、もう回避できない。
近くに居た漁民は悲鳴とともに銛を放り出して左舷側の甲板へと逃げ出してしまった。 バルタはグッと奥歯を噛み締め、下腹に力を込めた。そしてしゃがみ込み、右腕で震えるヨシアの肩を抱く。
あと数秒で終わる。
その覚悟と諦めを塞ぎ込むように目蓋をギュッと瞑った。
けれどその刹那、耳に入ってきたのは舟腹が喰い破られる衝撃音ではなく、海原に響き渡る力強い咆哮であった。
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