5-2

 バルタの指先はレイトの光が照らしている海面よりわずかに遠い場所に向けられているようだった。


「なんだ、また流木じゃないのか」


 ゼノは素っ気ない調子で聞き返し、けれどすぐさまバルタが指し示す辺りに光を向ける。

 レイトの光線がいかに強力とはいえ、照らすことができる範囲は真っ黒な海原のごく一点に過ぎず、また海面には未だ盛大に波飛沫が立っているのでたとえ光が当たっても数百メード先の小舟を見つけ出すことは容易ではない。

 実際これまでにも何度か発見の声が上がったがいずれも波間に漂う流木だった。

 未だ亡霊が泣き叫ぶような風音の中、バルタはずっと遠くの暗闇を指差し続け、そして自信なさげな言葉をつなげる。

 

「いや、一瞬だったからよく分かんなかったすけど、なんか波間に舟の帆みてえなのが突き出て見えたような……」

「本当ですかッ!」


 その言葉に弾かれたようにシオリカが走り寄り、柵板から身を乗り出すようにして指先が示す方向へと懸命に目を凝らした。


「いや、だからはっきり見えたわけじゃねえんだ。そんなに期待されても困るぜ」


 押し付けてくるシオリカの肩に思わず身を捩ったバルタにゼノが訊く。


「バルタ、どのあたりだ。もっと遠めか」


 そして微調整されていく光線の向きにバルタが答える。


「えっと、もうちょい左ですかね。あ、その辺りっす、多分」


 四人の目線がうっすらと照らされた海面に集中した。

 けれどいくら注意深く探してもそこには流木の影さえ見えない。

 しばらくしてバルタがうなじを掻いた。


「おかしいな、確かになんか見えたと思ったんですけどね」


 すると背後でハンドルを回すヨシアの荒い息遣いの狭間に揶揄いが入った。


「ハハッ、おおかた跳ねた刃魚やいばうおとでも見間違えたんじゃねえか」

「バカやろ、刃魚が跳ねっかよ。ありゃあ海底に近いところでまっすぐに立ってだな……」


 バルタが身を翻してヨシアに突っかかって行こうとするとゴツい手がその肩口をつかんだ。振り向くといつのまにかゼノがそばに立ち、厳しい顔つきで睨んでいた。


「戯れあってる場合じゃねえ。海から目を逸らすな」

「あ、はい」


 その迫力にバルタは素直に向き直り、海へと目線を漂わせた。


 それから四人はレイトが照らす海面を注意深く凝視し続けた。

 けれどいつまで経っても誰からも声は上がらず、やはり見間違いだったのではという空気が流れ始めた頃、ザン爺がおもむろに口を開く。


「ゼノ、もうちょっと右の方に光を向けてくれんか」

「ん、ああ」


 レイトの光が向かって右の方に移動していき止まる。


「もっと右じゃ」

「分かった。この辺りでいいか」

「もっとじゃ」

「いや、爺さん。ここから右はたしか岩場だぜ」


 そう云いつつゼノはレイトをちょっとずつ右へと向けていく。


「なにかあるんですか」


 シオリカが不審げに訊くとザン爺は小さく鼻を啜った。


「うむ、あの辺りの海底には岩礁があっての、波が高くなると潮が右の方に廻るんじゃ。もしあそこに舟が入って来とれば立ち往生かあるいは……」

「あるいは?」

「…………座礁」


 そのときバルタの大声が風音を切り裂いた。


「あッ、今なんか見えたッ! ゼノさん、もうちょい手前ッ!」

「お、おう」


 さすがにゼノも慌てた手つきになり光がぶれる。

 

「どこですかッ」


 シオリカがバルタとゼノの体の間に割って入った。


「岩場だ。あれ、帆じゃないっすか、ゼノさん」


 訊かれたゼノはレイトにヒゲ顎を載せるようにして光の先を一心に見つめ、そして刹那、野太い声を張り上げる。


「おおッ、捉えた。こっからじゃ遠くて小せえが確かに帆柱と帆布に見える。し、しかし、ありゃあ……」

「やはり座礁しておるか」


 その硬い声色にシオリカが顔を向けると、ザン爺の皺深い目蓋から憂いの瞳が覗いていた。


「ざ、座礁って……でも、それって岸に着いたってことですよね、じゃあ……」

「いや、岩に乗り上げているとしたらヤバいぜ」


 バルタはその懸念に満ちた言葉とともに身を翻すと、櫓の隅にとぐろを巻かせていた縄紐を引っ掴んで肩に掛ける。


「ゼノさん、後は頼みます!」


 そのときバルタの足はすでに縄梯子に掛かっている。


「おうッ、分かった。お前も気をつけろよ」


 そしてゼノの言葉が終わらぬうちにバルタは見えなくなった。


「どういうことですかッ」


 シオリカは素早く顔を戻して責付いた。

 するとゼノはうっすらと岩場を照らす光から目を離すことなく答える。


「この高波にあの小舟だ。岩にぶち当たったら間違いなくバラバラになっちまう。そうすりゃチリは海に投げ出されて……」


 一瞬、呼吸が止まった。

 そして全身が総毛立つ。

 同時に足が床板を蹴っていた。


「私も行きますッ」


 そして駆け出そうとしたとき、左手が何者かにつかまれてつんのめった。

 振り返るとザン爺が自分の手首を握っていた。


「やめとけ。まだ打ち寄せ波が高い。それでなくとも夜の岩場はワシら浜の民でも危ないんじゃ。お前さんに何かあったらセギルに申し訳が立たんよ」

「でも、もしチリが海に落ちていたら……」


 シオリカは悲壮に顔を歪めたが、ザン爺はやはり首を横に振った。


「ここまでやってくれただけで十分じゃよ。感謝しとる。後はワシらに任せてくれ」


 その静かで柔らかな口調にヨシアの声が被さった。


「んじゃあ、俺が行ってきますよ」


 そういってハンドルを回す勢いが緩まるとゼノの怒声が飛んだ。


「バカやろうッ!まだアレがチリの舟と決まった訳じゃねえんだ。俺たちはここで作業を続けるぞ」

「いや、んなこと言ってもゼノさん。もしチリだったらバルタ一人じゃどうにもならんですよ。それにこうなったらやっぱり他の漁師連中にも声を掛けた方が」

「ダメだ、浜人の中にも王宮に通じている奴がいるかもしれん。もしこの機械のことがそいつの耳に入ってみろ。そんときゃここにいる全員が牢獄行きだぜ」


 ゼノの言葉にヨシアは苦い顔で「ちくしょう」と吐き捨て、闇雲にハンドルを回し始めた。


「シオリカや、頼むからここに居ってくれ。岩場にはワシが行く」


 手首を離したザン爺が後ろに手を組み、そう言って肯く。


「で、でも……」

「ほほ、これでも若い頃には岩礁猿はえざるのザンジバルと呼ばれたもんよ。心配するでないわい。それに自分の孫のことじゃ、ワシが行くのがスジじゃろうて」

「爺さん、気持ちは分かるがやめておいた方がいい。足手纏いになるだけだぜ。それより岩場には俺が行くからレイトの方を頼めるか。お嬢と二人なら交代でなんとかなるだろう」


 その提案に今度はヨシアが荒息まじりの素っ頓狂な声を上げる。


「え、ゼノさん、そしたらハンドル回すの俺だけになるじゃないですか。いくらなんでもそりゃ無茶っすよ」

「うるせえ、海の男ならそれぐらい耐えてみろ」

「そ、そんなあ」


 そのときだった。

 

「ふん、何事かと思って来てみれば、こりゃあまたずいぶんな悪さをしていやがる」


 不意に背後から聞こえてきた正体不明の声に全員が凍りついた。

 そして振り向くと櫓の上り口で意外な人物が口をへの字して自分たちを睨み据えていた。

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