5. 帰還

5-1

 未だ荒々しい海に舟は木の葉の如く翻弄され続けている。

 尖った高波に突き上げられたかと思えば、次の瞬間その波底へと滑り落ちていく舟。そのひっきりなしに繰り返される昇降にあって、けれどチリの瞳は激しい波間の向こうに見え隠れする救済から逸らされることはなかった。


 冷え切って消耗した身体が小刻みに震えている。

 歯はカチカチと鳴り止まず、呼吸は浅く速い。

 残りわずかとなった体力はそのほとんどを帆の向きを支える縄手に集中させていて、あとは座った姿勢と光をとらえ続ける顔の向きを保つことで精一杯だった。

 意識は朦朧として、もはや長い思考を継続することもできない。

 ただ時折、誰かの顔が頭に浮かぶ。


 ザン爺のしわくちゃな顔。

 真っ黒に日焼けした父さんの四角い顔。

 髪を後ろで束ねた小麦色をした母さんの面長顔。

 そして亜麻色の髪を揺らす青みを帯びた瞳のシオリカ。

 他にもゴツい体つきで無愛想だけど頼りになるゼノさん。

 口は悪いけれど案外面倒見の良いバルタさん。

 そのバルタさんとしょっちゅうケンカをしている従兄弟のヨシアさんや、村長や大婆のマルス様などたくさんの人が目蓋の裏に一瞬だけ現れては消えていく。

 彼らはなぜか皆一様に破顔していた。

 普段、人前で笑うことなどほとんどないゼノさんまでがガハハと声が聞こえてきそうなほどに大きな口を開けている。


 どうしてみんなそんなに楽しそうなのだろう。


 その理由を考えようとしてみてもその思考はすぐに断ち切られてしまう。

 けれど彼らの顔が浮かび上がると途端にチリの胸は温かい熱で充満した。

 そして今にも破綻してしまいそうな精神を繋ぎ止めた。

 それでも意識が遠退きそうになると、今度は太腿に沿わせた石剣が灼熱を帯びて危険を知らせた。

 チリは我に返り、その度に頬を強く張って自分の弱さを戒める。


 あの光のもとへたどり着く。


 チリにとっていまやそれだけが唯一認識を保っている使命であった。

 

 光を見つけてからどれくらいの時間が経ったのだろう。

 もう半刻は過ぎただろうか。

 いや、案外まだ四半刻も経ってはいないのかもしれない。

 よく分からない。

 時間の感覚もとうに失われてしまっている。


 けれど気まぐれのように点滅するその青白い光がどれくらい前からか消えずに輝いていることが多くなったとチリは朧げに感じ始めていた。

 それにはっきりとは分からないけれどなんとなく光の強さも増したように思える。

 そして光が消えた瞬間、か細い糸のような光跡が微かに見えることもあった。


 光が近づいてきている。

 

 それは希望でも歓喜でもなくひとつの無機質な観測としてチリの脳に捉えられた。

 もはやチリの頭は自身の生死よりも光にたどり着くことだけを考えていた。



 **********


 

 ふと気配がしてシオリカが振り返るとそこに梯子から櫓に力尽きたように上半身を投げ出した老人の姿があった。 


「ざ、ザン爺、どうして」


 慌てて駆け寄るとザン爺は荒やいだ息を継いで顔を上げ、そしてまばらな前歯を覗かせてニヤリと笑う。


「あっ、ザン爺。家から出るなってあれほど……」


 見張り役だったバルタがその台詞とともにやってきて、ザン爺の両脇に腕を差し入れ軽々と櫓へと引き上げた。

 するとしばし息を整えたザン爺はその場に「ヨッコラセ」と胡座を掻き、それから照れくさそうに横髪の白髪を撫でる。


「まあ、家に居っても落ち着かんしのう」

「けどよ、まだ風も強えし、梯子から落ちたりでもしたらどうするつもりだよ」


 バルタが口を尖らせるとザン爺もまた言い返した。


「なんじゃ小僧、年寄り扱いするでないわ」

「だって年寄りだろ。こっちは心配して言ってんだ」

「ふん、余計なお世話じゃ。それよりどうなっとる」


 ザン爺に目を向けられたシオリカは沈痛な面持ちで首を左右に揺らし、けれどすぐに表情を引き締めて告げる。


「チリは必ず帰ってきます。だから、もう少しだけ待ってあげていて」


 その言葉にザン爺はゆっくりと深く肯き、それからヨシアがハンドルを回すエルキ発生器に目を向けた。


「すまんのう、シオリカ。こんな大層なもんまで使わせてしもうて」

「ううん、全然。気にしないで。それにこんなことでもなければ使いようもないから」


 そう言って首を振るとザン爺はペコリと頭を下げ、それから立てた片膝を支えにヨロヨロと立ち上がった。


「ヨシア、どうも腰が入っとらんな。どれ、いっちょワシが代わるか」


 するとヨシアは手を止めることなく振り返り、発生器の騒音に負けない声で言い返す。


「せっかくだけどやめておくよ。疲労困憊のチリとぎっくり腰で動けない爺さんの対面なんてあんまり面白くないからね」


 その返答にザン爺は戯けて肩をすくめ、今度はレイトを海に向けたゼノに近づいた。


「ゼノ、波の具合はどうじゃ。ずいぶん風も落ち着いたが」

「ああ、これぐらいならなんとか帆が張れるはずだ。だがあのボウトは小さいからな。まだまだ風向きも舞ってるし、強い横風を受けそこなえばあっさり転覆するかもしれねえ」


 その不穏な言葉にザン爺は小刻みに何度か肯く。


「確かにな。じゃがあの舟はチリの手足も同然よ。風読みの感覚さえしゃんとしておればよもや間違うことはないわい」

「まあな、そうだといいが……」


 そう答えつつゼノは波打ち際よりおよそ数キライほど先の海原に線を引くようにゆっくりとレイトの白光を滑らせていく。

 不意にザン爺が小さなため息をついた。


「……しかし恐ろしいもんじゃな、これは」


 するとゼノも海を見つめたまま同意する。


「ああ、とんでもねえ代物だ。もし王宮の誰かがこれを見ていたらと思うと背筋が冷たくなる」

「ふふ、そんときはゼノ、ワシを捕吏に突き出せ。まあ、こんな老ぼれの首ならいくらでもくれてやる」


 その物騒な言葉にゼノは声を押し殺してくつくつと笑った。


「爺さんの首じゃなんともならんだろうよ。それより俺は逃げるぜ」

「なんと……」


 鳩が豆鉄砲を食ったような顔になったザン爺にゼノはもう一度笑って言葉を継ぐ。


「ああ、逃げるさ。このデカい背中でシオリカとうちの嫁さんを背負ってどこか別の国に逃げ切ってやる。だからよ、そのときは後のことを頼んだぜ、爺さん」


 チラリと目線を流すとザン爺も肩を揺らして笑っていた、そのときだった。


「……あれ? ゼノさん、今なんか見えませんでした?」


 声に目を向けるとバルタが不審げな顔をして海原を指差していた。

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