4-6

 ゼノの身長は低い。


 けれどその分、ゼノの肩や胸幅、腰は他に類のないほどに分厚く頑丈にできている。しかも腕は長く、脚は極端に短く太い。


 シオリカと自分の背丈はそう変わらない。

 けれど身体の幅はシオリカの三人分を寄せてもまだ自分の方が勝っている。

 この華奢な体躯がゼノに途轍もなく大きく見えるのはなぜか。

 俺は圧倒されているのだ。

 ゼノはそう認めざるを得ない。

 外連味けれんみもなにもない。

 チリを助けたい。

 全身から漲るその無垢でまっすぐな波動に気圧され、そして同時に心地よく推し包まれている。

 それは三十年余りを過ぎたゼノの人生で数えるほどしか経験のない稀有な感覚だ。


 たとえば齢八十を超えてなお矍鑠として若々しい大婆様マルス。

 また隣国サガミとの戦闘中、馬上に見上げたあの変わり者の第三王姫レスカ。

 そして我が妻であるユイカナ。


 ゼノはいつも人の目を気にして暮らしていた。

 物心ついた頃からすでにそんな体型だったから、口さがない村の子供連中からは渡り蟹ガザミなどとからかわれ、遊び仲間にも入れてもらえなかった。

 また年嵩の悪童にはことあるごとに手酷く苛められ、泣きながら家に帰れば「海の男のくせに情けない。戻ってやり返して来い」と父親に叱責された。

 思春期になってもそれは変わらなかった。

 腕っ節が強くなったせいで表立って虐げられることはなくなったものの、誰からも相手にされず、孤独のうちに十代を過ごさなければならなかった。

 その頃はこんな風貌に産んだ両親を恨む気持ちさえあった。

 また海村にいくつかある鏡の前に立つと、そこに映る醜い自分に吠えつきたくなる衝動を覚えた。

 そんな風にずっと裏ぶれた心持ちでゼノは思春期を過ごし、やがて成人した。

 

 けれどゼノが二十二歳の時、ユイカナがそれを変えた。

 彼女は戦乱により滅亡に追い込まれた西方小国から流れてきた一族の娘だった。

 十数年前、ムサシノにたどり着いた彼らは王宮の許しを得て、海辺近くの荒地に居を構えていた。

 ある晩春の早朝、ゼノは彼女に出会った。

 長い黒髪を頭の上で丸く結い、ムサシノではあまり見かけないカスリと呼ばれる紺色の着物を麻紐でたすき掛けに縛ったユイカナは、そのとき港から突き出た桟橋の中ほどで三人の男たちに囲まれて身を縮めている様子だった。

 ゼノは別にそれを気に留めたわけではなかった。

 できることならいざこざには巻き込まれたくないと思っていた。

 けれど係留した自分の舟がその先にあったので近寄ると彼らの会話が聞くともなく耳に入った。


「いえ、わたくしは貝を獲りたいだけなのです。ですからその場所を……」


「だからよお、さっきから教えてやってんじゃねえか。あんたら余所者よそものが入っていい海なんかここにはねえんだよ」


 そのゼノよりもいくつか年嵩の小柄な男はそう答えながら不埒な目線で彼女の肢体を舐めるように上下させていた。

 海辺に暮らす女の肌はたいてい小麦色に日焼けしているが、彼女のそれは百合のように真っ白で、袖口や深くたぐり折った着物の裾から突き出た腕や脚はその場に居合わせた漁師たちの下卑た目線を集めるのに十分な妖艶さを醸し出していた。

 

「まあ、その代わりにいい方法を教えてやる。なに、難しいこっちゃねえよ。ちょっと俺たちに付き合ってくれるだけでいいんだ」


 すると小柄な男のセリフを横に立つ腹周りの太い男が継いだ。


「そうそう、そうすりゃ貝コロなんてしけたことは云わねえ。デカい魚を二、三尾くれてやるよ」


 そしていやらしげな笑い声を漏らした長身の男が付け加えて浜辺に指を向けた。


「で、その代わりと言っちゃあなんだが、あんたにはそこの浜小屋で俺たちにちょっとしたご奉仕をしてもらう。なあ、金の掛からねえいい話だと思わないかい」


 少し離れたところからそれを聞いていたゼノは思わずため息を吐いた。

 彼らは昔からゼノに偏見の目を向けてくるいけ好かない連中だったが、一応は年長者であり、序列を重んじる浜において多少のことは目を瞑るという暗黙の掟のようなものがある。

 それにゼノは取り立てて正義感が強いわけではなく、できれば関わり合いになりたくないというのが正直な気持ちであったが、ここまで道に外れた行為をさすがに黙って見過ごすわけにはいかない。


 義を見てせざるは勇なきなり。


 古来より伝わる諺に従うというより、そういう思考しかできない奴らには反吐が出る思いがした。


 男たちがジリジリと彼女に詰め寄る。

 ユイカナは一歩後退り、困惑しきった表情で肩を窄めていた。

 小柄な男がはしゃぐように跳び出して彼女の手首をつかんだ。

 そして海老のように体を曲げて抵抗するユイカナを力ずくで引き寄せようとし、残りの男たちはその様子を薄ら笑いで眺めていた。


「おい」

 

 ほとんど無意識に喉から出た声に男の一人が振り返った。

 ヒョロリと背の高い男だった。

 そして「よう、ゼノじゃねえか。おまえもどうだ」と、口を開いた時にはすでにゼノの拳がそのニヤけた男の腹にめり込んでいた。

 グエッと蛙が踏み潰されたような声と共に男が腰を二つ折りに曲げ、桟橋に跪く。


「くそ、なにしやがる」


 それを目の当たりして大柄で腹の突き出た男が殴りかかってきた。

 ゼノは避けることなくその拳を左頬で受ける。

 衝撃で顎が少しばかり揺れたが、それほど痛みらしいものは感じなかった。

 ゼノの平然とした様子に相手は呆気に取られたように動きを止めた。

 そしてゼノは詰まらないものでも見るように頬に当たったままの拳を見遣り、それから左手でそれをつかむと思い切り外側に捻じ曲げた。

 すると男は絶叫しながら翻筋斗もんどり打って、そのまま海に落ちた。


「ゼノ、てめえ……」


 残った男は小柄で見るからに嫌味な顔をした奴だった。

 たしかこいつは干物や海藻の仲買をやっている問屋の次男坊。

 金をチラつかせて数人の若衆を取り込み、小悪党まがいのことをやっているチンピラ風情だと聞いたことがあった。

 高価な木綿の長羽織なんぞを着流しているが、ゼノよりも背が低いせいでその裾が桟橋の板に触れそうに揺れている。

 ゼノが睨みつけると男はジリジリと数歩後退り、腰布にぶら下げた皮袋からやおらナイフを抜いた。

 ゼノは思わず舌打ちをした。

 別に怖くなったわけではない。

 ちらりと背後を見遣ると桟橋の袂に数人の人垣ができている。

 となれば、おそらくはすでに誰かが寄合所か番屋に走っているに違いない。

 血の気の多い漁師同士、小競り合い程度は日常茶飯事。

 たいていのいざこざは喧嘩両成敗で大目にみられるが、刃物まで出てきたとなるともはやただでは済まないだろう。

 これでまたしばらく懲罰小屋暮らしかと思うと無性に腹が立った。


「そんなもの出しちまったら、そっちもタダじゃ済みませんよ」


 声を鎮めてそう嘯いてみたが相手がナイフを引っ込める気配はなかった。

 その心情は理解できる。

 曲がりなりにも奴も浜の男だ。

 ここで怖気づき漁師仲間に臆病者と謗られるわけにもいかないのだろう。

 ゼノは男の背後に突っ立ったままのユイカナに「下がっていろ」と目配せをした。

 同時に腰を低く構えて、わずかに踵を浮かせた。

 瞬間、男が桟橋を蹴り、ゼノ目掛けて突っ込んでくる。


「クソがぁ!」


 よほど頭に血が昇っているのか、槍のようにナイフを突き出したまま闇雲に間合いを詰めてくる。

 ゼノはサッと右足を引き、体をはすに構え直して刃先を躱わした。

 そして素早く反転して男の腰を左腕で絡め抱くと、そのまま思い切り背を反らして真後ろに倒れ込んだ。

 男二人の体が叩きつけられた桟橋がその激しい衝撃で大きく揺れた。

 次いでカランと音がして目前にナイフが転がった。

 とりあえずゼノはそれをつかんで海に投げ入れ、それからゆっくりと上半身を起こし真横で泡を吹いている男を見下ろした。

 どうやら呼吸はしている。

 たぶん気を失っただけだろう。

 打ちつけた後頭部をさすりながら立ち上がると、腹を押さえていたヒョロ背の男が自分を恨めしげに見つめていたが、ジロリと睨み返すと短い悲鳴を上げてまたうずくまった。

 海に落とした男はこちらに怖じた目を幾度も返しながら岸の方に向けて泳いでいく。

 目を遣ると桟橋袂に人だかりができていた。


 やれやれ、また親父に叱られちまうな。


 やるせない気分で仕方なく岸の方に足を向けると、そのとき貫頭衣の腰紐に掛かる手がある。

 なんだ。まだ、やるつもりか。

 面倒臭げに振り向くと思いがけずそこにはゼノの目をまっすぐに見つめてくる女の瞳があった。


「なんだ」


 ぶっきらぼうにそう訊く。

 すると女は腰紐から手を離し、次いで深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」


 その声はやや低く掠れてもいてあまり女らしくはないものの、発音は明瞭でよく通り耳障りが心地よかった。けれどゼノはどうでもいいというように軽くうなずき、再び岸に足を向けようと踵を返す。するとまたもや腰紐が軽く引かれた。

 

「なんだ」


 不機嫌な声とともに振り返ると女はまたもやゼノの目をまっすぐに見つめ、けれど少しばかり口籠った。


「でも……」


 女の背丈は自分よりもかなり高い。

 だからその潤んだ瞳をゼノは少しばかり見上げる格好になる。


「でも?」


 思わず、問い返していた。

 一応、俺はこの女を助けたことになるだろう。

 よって礼を云われる筋合いはあるかもしれない。

 けれどその先に続ける言葉などあるとは思えなかった。

 村の若い女は誰もがゼノを敬遠していた。

 恐ろしくて目を合わせることさえできないという者さえいると噂に聞いた。

 けれどそれも仕方のないことだとゼノも諦めていた。

 こんな化け物じみた姿の男に好き好んで近寄ってくる女などいるはずもない。

 この女だって早いところ俺なんぞからは離れたいだろうに、いったい何を言い出そうというのだろうか。

 ゼノが怪訝な目つきのまま返答を待っていると女は抑揚のない声を発した。


「なりません」

 

 なにが、なのか。

 意味が分からず不審げに眉を寄せると、その恐ろしいはずの形相を真正面にユイカナはふっと頬を緩めた。


「いきなり争い事をしてはなりません。まずは相手の話を聞くのです。いかなるときも武力は最後の手段だと父が申しておりました」


 そう云ってさらに微笑みを膨らませるユイカナ。

 助けられておいて、その相手に説教とは随分と破天荒な真似をする女だ。

 普通なら睨みつけてやるところだが、なぜか不快さなど微塵も感じない。

 それどころか、次第に気分が晴れて朗らかにさえなってくる不可思議な自分をゼノは持て余した。

 よく見ると彼女は愛嬌のある顔立ちをしていた。

 面長な輪郭にはやや不釣り合いなやけにクッキリとした目鼻立ちをしていて、その唇は芳醇な果実のように紅く濡れて見えた。

 そして返す言葉もなくただ唖然と目を丸くしているゼノに彼女は改めて頬を引き締めた。


「あの、それでつかぬことをお伺いしますが、貝はどこにいるのでしょう」


 刹那あり、ゼノは思わず吹き出した。

 するとつられて彼女もクスクスと笑った。


 それが伴侶となったユイカナとの出会いだった。

 

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