4. 冥加

4-1

 あれ、いくつだっけ。

 また分からなくなった。

 ……駄目だな、オレ。


 ぼんやりとした頭でそう自嘲したチリは竹魚籠から離した右手で強く頬を張った。するとわずかに痺れたような痛みが刺し、吹き荒れる風音が鼓膜に立ち戻る。

 あれからどれくらい経っただろう。

 もうずいぶん長い間、水を掻き出し続けているように思えるけれど、この朦朧とした意識では時間の感覚などないに等しい。

 しかもエビス波の今夜は生憎あいにくの新月で雲間に覗く月光も期待できず、ならばせめて掻き出した回数を憶えておこうと数えていたのだが、それもいつのまにかあやふやになって分からなくなる。

 

 たしかさっきは五十か六十ぐらいまで数えたはず。

 その前はいくつだっけ。三十……いや四十……。その前は……。


 チリは小刻みに震える口先からふうっと細い息を吐いた。


 まあ、なんでもでもいいか。


 そしてかじかんだ手でふたたび竹魚籠を手に取った。

 

 いち……に……さん……


 腹、減ったな。

 それに喉も乾いた。

 

 よん……ご……ろく……なな……


 あれ、そういえば雨止んだのかな。

 波飛沫があるから気が付かなかった。

 参ったな。これじゃ飲み水がない。


 はち……きゅう……じゅう……


 風は相変わらずだけど、波は……どうだろう、ちょっと収まったような気もする。少なくとも逆落としみたいな大波は来なくなった。


 じゅういち……じゅうに……

 

 チリは時折、四方に満遍なく顔を向けて光を探す。

 暗闇に目が慣れたせいか、空には仄かな明るみがあるように感じられた。

 けれど、それ以外は全くの真闇で顔の前にかざした自分の手指さえも見えない。

 自分の腕の動きが網に絡まったタコのように緩慢であることは分かるが、舟底の水が一度にどれくらい掬えているのかはよく分からなかった。


 そういえばザン爺も真っ暗闇の海に取り残されたことがあるって云ってたっけ。

 そのときは浜総出ででっけえ篝火を焚いてくれて、それを目印になんとか帰って来れたって聞いたな、たしか。

 なんだっけ、トーダイ……とか云ってたかな、爺ちゃん。


 にじゅういち……にじゅうに……


 でも無理だろうな。

 浜の松を何本か切って燃やしたところで、生木は煙ばっかであんまり火は上がらないだろうし、それにさっきまでの雨で濡れて火が付くかどうかも怪しい。

 かといって浜じゅうの乾いた薪かき集めたってたいした量にならねえしな。


 にじゅうろく……にじゅうなな……


 そもそも爺ちゃんは日暮れ前までにもうずいぶん浜の近くまで帰ってきてたみたいだから、それで篝火が見えたんだろう。オレの場合はそれよりずっと沖に出てるし、浜でなにしたって見えるわけがねえよな。


 さんじゅうさん……さんじゅうよん……


 寒いな。

 ていうか、感覚がよく分からねえ。

 これ、本当に水を掬えてんのかな。

 ああ、また頭がぼおっとしてきた。

 眠いなあ。疲れた……。


 さんじゅう……あれ?いくつだっけ。

 ちくしょう、また数えなおしかよ。


 ……もう、やめようかな。


 チリは水を掬う手を止め、太腿に添わせるように置いていた石剣を胸元に抱き上げて語りかけた。


 なあ、こんなことして意味あるのかよ。

 どうせ死ぬなら、もういっそこのまま海に……。


 小舟を翻弄し続けるこの大波に身を投じれば、一瞬で楽になれる。

 

 するとそのチリの心底を読み取ったように剣がまた熱を帯び始めた。

 そしてふと目を向けると心なしか剣がぼんやりと白く光って見えた。


 え、嘘だろ。

 なんで石が光るんだよ。

 たぶん幻覚だな。

 どうやらオレ、目までいかれちまったらしい。


 チリは緩慢に何度か頭を振ってから石剣を腿の傍に戻した。

 そして膝で挟んでいた竹魚籠を手に取ると再び舟底の水を掻き出し始める。


 まあ、でもおかげでちょっとだけ眠気が覚めたし、仕方ねえからもうちょっと続けてみるか。

 それに諦めたら夢の中でまたシオリカに睨まれそうだしな。


 いち……に……さん……


 そういえば最後にアイツの顔をまともに見たのっていつだっけ。


 なな……はち……きゅう……


 ああ、そうだ。

 あのときだ。

 父さんが死んで、母さんがいなくなって、そして……


 チリはいつのまにか数えることを忘れて回想に耽っていた。


 








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