4-2

 シオリカと森で過ごした冬の日の後、訪れた春が過ぎ、雨の季節を挟み、そしてあの忌まわしい夏が訪れた。

 すべてを奪い去った海の悪魔、ドラグイ。

 哀しみを抑え込むようにチリを支配した強い怒りと憎しみ。

 けれど沸騰するようなその感情に打ち震えながらも、チリはまず生きる術を学ぶことを優先させなければならなかった。


 父が死に、母が居なくなって、身内はザン爺ただ一人となった。

 そのザン爺もすでに年老いて漁師として沖に出ることは能わず、十歳になったばかりのチリが生計を立てるほかに選択肢はなかった。

 港でも有数の大きさを誇った父の船はドラグイに無惨な穴を開けられて沈んだため、チリに残されたのは全長およそ五メード足らずの朽ちかけた舟ただ一艘だった。

 それはチリが生まれる少し前に亡くなった祖母が浅瀬で海藻などを採るために使っていたという手漕ぎ舟で漁師の間ではボウトと呼ばれる帆柱さえないただの木っ葉舟だったが、知り合いの船大工に改造してもらって、なんとか沖にまで出せる帆舟になった。


 ただ舟が手に入っても当時のチリに操帆の知識などあるはずもなく、最初は浜辺でザン爺に手解きを受ける日々が続いた。

 そしてようやくそれが形ばかりにできるようになると、今度は魚を獲る方法を学ばなければならなかった。漁や魚に関しては父から学んだ知識もあったけれど、沖合で網を引く中型船の漁法と近場で根魚などを釣り上げる技術は似て非なるものであり、最初は小魚一匹獲れない日が何日も続いた。

 けれどそれでも失敗を繰り返すうちになんとなく魚の居場所や釣り上げるコツのようなものが分かり始め、やがてひと月が経つ頃にはそれなりの獲物を持ち帰れるようになった。


 漁具の手入れも自分で行った。

 ザン爺の左手は若い頃に負った戦傷のせいで上手く動かせないため、細かい作業はできず、チリがそのほとんどをこなすしかなかった。

 ただ浜民の家では普通、漁具の手入れは女や子供たちの役目でありチリにとっても幼い頃からの手慣れた仕事ではあったが、それでも早朝から漁を行い、浜に戻った疲れ切った体を鞭打って行う手作業はやはりかなりの苦痛になった。

 けれどそれも飢えないためには仕方のないことだった。 


 それは秋も深まる時節。

 ぬるい雨が降る日だった。


 風は穏やかだったが、海上には淡い靄が立ち込めていて漁には出られず、チリは家で網のほつれを縫い直したり、釣り糸にする亜麻の繊維を撚って過ごしていた。

 

 昼を過ぎて雨が上がった頃、シオリカが訪ねてきた。


「チリ、いるの?」


 薄暗い土間から響いた声に顔をあげることもなく黙々と作業をしていると、そのうちに上がり框に膝を立て板間を覗き込んだシオリカが不服そうな声を出した。


「もう、いるなら返事してよ」


 一瞥するとその手はいつものように果実や野菜を入れた麻袋を携えていた。

 チリは目線を戻し、それからシオリカには決して聞こえないように小さく舌打ちをする。


「ねえ、なにか手伝おうか」

「いや、いい」


 そう断ったけれど、彼女はそれが耳に届かなかったとでもいうように板間に上がりこんできた。そしてそばに腰を下ろすとチリが足先で押さえていた糸撚り台を強引に自分の方へと引き寄せる。


「持っててあげる」

「いいよ。一人でできるから」


 そう云って台を戻そうとするとシオリカはその手を遮った。


「遠慮しなくていいよ。せっかく来たんだから何か手伝わせて、ね」


 目を向けるとシオリカはその顔に無邪気な笑みを浮かべていた。

 おもわずチリは頭をクシャクシャと掻きむしる。

 そしてふうっと大きく息を吐き出しうつむいたまま動きを止めた。

 わずかな沈黙の後、シオリカが陽気な声で尋ねた。


「ねえ、ザン爺は?」

「……寄り合い」


 不機嫌に答えるとシオリカは思い出したように立ち上がり、そそくさと土間に降りて奥のくりやへと足を運んだ。


「じゃあ、なにか作るね。ほら、このトーモロ。おっきいでしょ。近所のおばさんがくれたんだよ。ザン爺、これ茹でたの好きだったよね」


 そう云いながら嬉しそうに厨で黄色く色づいたそれを掲げて見せる彼女にチリはとうとう我慢していた感情が抑えきれなくなった。


「いらねえよ、そんなもん!」


 シオリカの表情が凍りついた。

 そして手にしていたトーモロをゆっくりと下ろし、それから不安げな声で訊く。


「チリ、どうしたの。なにかあった?」

 

 チリは視線を逸らし、口を手で覆った。

 そして体の向きを変えると、胸に真っ黒な後悔が立ち込めた。

 けれど仕方がないと庇う自分もいた。


 なにもかもが耐えがたかった。

 シオリカが携えてくる食料を目にすると、森からの援助を受けているようで心苦しかった。

 シオリカの優しさや微笑みが単なる同情心から沁み出してくるものだと感じる自分が汚らわしかった。

 そしてなによりシオリカの顔を見るたびに自らの境遇を呪い、叫び出したくなる弱い己に唾を吐きかけたくなった。


 顔を背けたまま、チリはぶっきらぼうに告げる。


「リカ、もうここには来るな」


 すると背後で彼女が言葉を呑む気配があった。


「知ってるだろう。浜の人間が森の仕打ちをどれだけ恨んでいるか。森のおまえがウロウロしてると危ないんだ」


 やや間があってシオリカの細い声が聞こえてくる。


「そんなの平気だよ。だって……」


 チリはそれを吹き消すように強い口調を被せた。


「リカが平気でもオレは違う。おまえになにかあったら取り返しがつかない」


 我ながら詰まらない言い訳だと唾を吐きたくなった。

 しかしそれは紛れもなき事実でもある。

 ドラグイ飢饉に苦しむ浜には森の集落にいつ略奪を仕掛けてもおかしくない剣呑な気配が満ち溢れていたし、血の気の多い漁師連中にシオリカが見つかれば何が起こるか分かったものではなかった。


 けれどチリの言葉にシオリカはそれでも首を振る。


「大丈夫だよ。知ってるでしょ、私が通ってくる道。チリが教えてくれたんじゃない。あの小道は私たち以外、誰も……」


「そういうことじゃないんだ!」


 チリはそう叫んで作りかけの撚り糸を床に叩きつけた。

 そして両手で頭を抱え、板床を睨みながら嗚咽にも似た声を漏らした。


「違うんだよ。オレも同じ浜民のひとりなんだ。こんなにも浜が苦しんでいるのに手を差し伸べようとしない森の奴らに腹が立って仕方がない。だからリカだけを特別には見られないんだよ」


 それも本心ではない。

 けれど全くの偽りでもなかった。

 いくら王宮の指図があったとはいえ、災厄に見舞われた浜を見捨てるような森の仕打ちにチリも怒りを覚えずにはいられなかった。

 とはいえ、もちろんシオリカ個人にはなんの恨みもない。

 むしろ健気に自分を支えてくれようとしている彼女に感謝している自分もいる。

 それなのに同時にシオリカが疎ましくて仕方がなかった。

 そしてそれらのいくつもの矛盾した心情をまとめて声にしようとしても、やはり適当な言葉など見つかるはずもなかった。

 

 たぶん、……たぶんこれはタチの悪いだ。


 チリにもなんとなくそれは分かっていた。

 あの日、前触れもなく自分たちを呑み込んだ厄災。

 きっとそのやるせない鬱屈の捌け口を自分はシオリカに向けてしまっている。

 それなのに、いやそれが分かっていればこそだったのかもしれない。

 チリはうつむいたまま、最後の言葉を口にしてしまった。


「それにオレはもう……リカの顔を見たくないんだ……」

 

 二人の間に沈黙が立ち込めた。

 胸の奥底で正体不明の感情がぐつぐつと茹だるのを感じた。

 すぐにでも吐き出した言葉を引っ捕まえて喉の奥に戻してしまいたかった。

 それが無理ならせめて「いまのは違うんだ」と顔を赤らめて言葉を撤回するべきだった。

 けれどできなかった。

 チリはその心地悪さを黙って堪えた。

 どれくらいの時間が経っただろう。

 一瞬だったような気もするし、かなり長い時間であったかもしれないが、そのうちに土間の空気がゆらりと蠢いた。


「そう、分かった。……ごめんね、チリ」


 それからわずかな間があり、引き戸が開かれ、また閉じる音。

 チリはそれをジッと目を伏せて聞いていた。

 そして顔を上げ土間を見遣った時にはシオリカの姿はなかった。

 目線を漂わせると厨にトーモロがひとつ寂しげに残されていた。

 そのあと自分がどうしたのか、憶えてはいない。

 あるのはそれ以来、シオリカと言葉を交わしたことはないという結果だけだ。


 そうか。

 あれ以来だ。


 チリは自分の手の動きが止まっていることに気がつき、暗闇に突っ伏すようにこうべを垂れた。


 

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