3-18

 チリはうっすら目を開けたつもりだったが、視線をいくら彷徨わせても微小な光の粒ひとつ拾えなかった。

 周囲を隙間なく埋め尽くしていたのは闇という言葉さえ尻尾を巻いて逃げ出してしまいそうなほどの虚無だった。

 その完全なる漆黒の世界に懐疑が浮かんだ。


 もしやすでに自分は死んでしまったのでは。

 ここは冥界へと向かう道の途中なのでは。


 しかしそれはたちまち鼓膜を削ぐような激しい風音に打ち消された。そして砕ける波音とともに大きく揺さぶられる舟上で自分がまだ辛うじて生きている奇跡にチリはかえって絶望感に苛まれた。

 

 どうすればいい。


 もはやそそり立つ大波が迫ってきても一瞬の覚悟さえできない。

 またそう考えている矢先に舟が転覆してもなんら不思議ではない。

 さらに一点の光さえない闇の中では時を知る手がかりすらないが、それほど長く意識を失っていたはずもなく、夜はまだ始まったばかりなのだ。


 助かるはずがない。


 その諦観に続けて自暴自棄が顔を出した。


 いいさ、もうどうにでもなってくれよ。


 すると刹那、胸に抱いた石剣が再び熱を放射する。

 しかしそれはさっきとは異なり、優しく寄り添うような温かみだった。


 チリは可笑しくなった。


 たぶんオレの頭はもう相当にイカれてしまっているんだろうな。


 ただの石の棒だ。

 百歩譲ってザン爺の言う通り、もしこれが霊験あらたかな古代の石剣だとしてもこんな風に熱くなったり冷たくなったりするはずがない。

 きっと過酷な状況から心が勝手に逃避しようとして、それで幻覚を感じてしまっているのだろう。

 チリは冷静にそう考え、けれどそれでも石剣を強く胸に押し付けた。


 弱いな、オレ。

 こんなものに縋ったりして潔くねえな。


 心の中でそう吐き捨てると不意に闇の表面に幼いシオリカが現れ、不安げに曇らせた顔つきでチリを覗き込んできた。


 なんだよ。


 決まりが悪くなりチリは目を逸らした。

 けれど瞳をどこに向けても幻影の彼女は視界に居座り、なにかもの言いたげにジッと自分を見つめてくる。


 ああ、そうだった。

 あいつは何かにこだわるとなかなか引き下がらない奴だったな。


 その鬱陶しさが妙に懐かしく感じられ、やがて観念したチリは仕方なく心奥で呟いた。


 分かったよ。ちょっとだけ足掻いてみる。


 すると闇に映るシオリカが少しだけ表情をほころばせた。


 とはいえ……なにができる。

 意識を現状に立ち戻らせたチリはたちまち悲観に押しつぶされそうになった。

 もちろん真の闇の中で操船など不可能だし、そもそもこの大時化の海原では櫓を漕ぐことさえかなわない。

 できることといえばやはり横たえたチリの体に揺れに合わせて飛沫を浴びせてくる舟底に溜まった水を掻き出すことぐらいだろう。


 まあ、それでも……。


 チリは闇に見透すような視線を向け、石剣をつかんで問う。


 やらないよりはマシだよな。


 すると、うなずいたシオリカの幻影がフッと解けて消えた。


 寒さと衰弱であらかた感覚を失ってしまっている体を石剣を支えになんとか起こした。そして手首に縛り付けておいた麻縄を手繰って竹魚籠を引き寄せると舟底に溜まった水をノロノロとした手つきですくった。


 やらないよりマシ。


 一杯の水を捨てるたびにチリは心の中で呪文のようにそう呟いた。


 やらないよりマシ。


 けれど捨てた分だけ大波に翻弄される度に飛沫が入り込んでくる。


 やらないよりマシ。


 チリは凍えた体に鞭打って、すくった水を掻き出す。

 重い。

 いや、重いのかどうかもよく分からない。

 暗闇の中で本当に自分の手が水をすくっているのか、それさえ疑わしくなってくる。

 けれど動きを止めるとすぐにその隙を突いて恐怖、絶望、後悔といった感情が暴発しようとする気配が忍び寄る。


 やらないよりマシ。


 視覚が失われたせいか、怒濤と暴風が紡ぎ出す咆哮が鼓膜の奥で巨大で悍ましい怪物の姿を想起させる。それでもチリはできるだけ思考を空っぽにして水を掻き出し、舟縁から外に捨て続けた。


 だからそのときはまだチリに気付けるはずもなかった。


 次第に少しずつ波風が収まりかけようとしていることに。

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