3-16


 白っぽい綿入れの貫頭衣をすっぽりと被り、頭に狐皮の帽子を載せたシオリカが雪深い森をずんずんと進んでいく。

 後ろをついていくチリはその背中にうんざりした声を掛けた。


「なあ、今日はもう諦めようよ」


 するとシオリカは歩きながら振り返ってその白い頬を膨らませる。


「だめ。私、工房のみんなに言っちゃったもの。リスかウサギを捕まえるまで帰らないって」


「そんなの誰も本気にしてないから大丈夫だって」


 そう宥めてもシオリカは歩速を緩めない。

 むしろ駆け出しそうな勢いになった。


「せめて一匹ぐらい持って帰らないと恥ずかしいよ」


「そんなことねえって。ていうか捕まえるのオレなんだけどぉ」

 

 そんな問答を繰り返しながら、いつのまにか自分たちは森のずいぶん奥深くまで足を踏み入れてしまっていた。

 森の奥には野犬が群れていて人間を襲うこともあるらしい。不安を覚えたチリがさすがに本気でシオリカを引き留めようとしたとき、突然、シオリカが悲鳴を上げた。

 もしやその野犬が現れたのかと驚いて走り寄ると立ち止まった彼女の前に滝のような氷柱つららを携えた小高い崖が聳えていた。


「ここ、誰かの声が聞こえる」


 シオリカはその雪と氷と樹木と岩でできた斜面の一角を指差し、震える声でそう告げた。目を向けるとそこに縦に細長い岩の裂け目があった。そして耳を澄ますとそこからたしかに亡霊の叫びに似た奇怪で甲高い声のようなものが聞こえてくる。


「風だろ……たぶん」


 呟くとシオリカが腕にしがみついた。


「嘘。誰かの声よ。助けてって聞こえたもの。誰かこの奥で遭難してるのかもしれない」


 チリはシオリカの言葉に首を捻り、それから防寒着の撓んだ袖口をその裂け目に近付けた。すると呻き声に似たその音に合わせて袖がひらひらと動く。


「ほらな。ここから空気が流れ出して、それで笛みたいに鳴ってるんだ」


 するとシオリカは恐るおそる岩壁に歩み寄り風穴に手をかざした。


「ほんとだ……」


「だろ?」 


 得意げなチリの顔にシオリカは憮然とした表情を作り、けれどすぐさまキョロキョロとあたりを見回し始めた。すると帽子と襟巻きの隙間からはみ出した亜麻色の髪がなにかの動物の尻尾のように小刻みに揺れる。


「でもさ、風が出てくるってことはどこかから空気が中に入ってるってことでしょ。そんな場所どこにもないみたいだけど」


 チリも付き合って崖のあちこちに目を遣ったが、やはりそれにそぐうような亀裂は見つからなかった。


「ま、雪に隠れて見えないだけさ。それか穴が小さくて分からないのかも」


 その回答にシオリカは納得がいかない様子でしばらく顎に手を当て、そして不意にチリに顔を向け目を輝かせた。


「ねえ、チリ。この崖、ちょっとおかしくないかな」


「おかしい? ……どこが」


 訝しげな目を向けると彼女はやにわに後じさりを始めた。

 そして後ろにあった巨木に行き当たり、それに背を預けたまま崖の輪郭を切り取るように何度も視線を巡らせる。


「やっぱりそうかもしれない……」


 シオリカに歩みを寄せたチリはその呟きにまた首を傾げた。


「なんだよ」


「たぶん、これって遺跡……」


 その言葉に驚いたチリは背後の崖に鋭く振り向いた。

 

 冗談だろ、そんなわけ……。


 そう笑い飛ばそうとしたチリは、けれどあまりにも整然とした直線をどこまでも引く崖の上端を目線で辿るうちにそのセリフは喉奥へと消えていった。


「……けど、もしそうならこれは」


 巨きすぎる。

 

 呑み込んだ驚嘆にシオリカが「うん」と小さく同意した。


 

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