3-14


 それはホッと息をつくようなある冬日和のことだった。


 その日、チリとシオリカは枝に雪を積んだ樹々の中で野リスを追いかけていた。

 リスの肉は美味だ。

 それに毛皮も役に立つ。

 また市場で売ればそれなりの金で引き取ってもらえるのでチリは手網を片手に懸命に追ったが、さすがに動きが素早すぎてなかなか捕まえられなかった。そしてシオリカといえば、野リスに翻弄されて雪上を跳ねて転げ回るチリを追いかけ、歓声を上げ、応援して、時に笑い転げた。

 笑い者にされてチリが憮然とすると、その顔を見てシオリカはまた肩を震わせた。


「笑うなって。これでも必死なんだぞ」


「だってチリ、動きがバッタみたいなんだもの。可笑しくて」


「なんだよバッタって。せめて猿だろ」


 チリが膨れるとシオリカは噴き出してその口を両手で覆った。

 その屈託のない笑い声を聞いているとなんだか呆れてきてチリも可笑しくなった。


 そういえば、あのとき……。

 ぼんやりと霞む記憶に手を伸ばそうとしたそのとき、背中に突き上げられるような衝撃を受けて意識が少しだけよみがえった。


 痛み、痺れ、寒さ、空腹、喉の渇き。


 途端に無数の耐えがたい感覚がチリの内側から針刺してきた。

 けれどチリが呻き声を漏らす前にそれはどんよりとしたただの疼きに変わり、やがては小さくてまだらなただの触覚のようなものになって消えていく。

 そしてその様子をすぐ真上に浮遊する誰かが俯瞰して、冷静に見定めているのが分かる。


 死神。


 海には女神よりもずっとたくさんのそいつがいる。

 舌舐めずりをしながら自分を眺めているのがまさしくそれだろう。

 そう考えると、けれどなぜか却って恐怖が薄れた。

 それどころかチリはたとえそれが死神であったとしても手を握りたくなる衝動にさえ駆られた。

 その不可思議な感情の出所はつまり孤独だった。

 孤独は途切れることなく低く深い音を響かせ、時と共に次第にその音量を上げていく。強弱を単調に繰り返す苦痛よりもその孤独の極まりのほうが何倍も堪えがたいものなのだとチリは初めて知った。

 

 絶え間ない揺れに舟底に溜まった海水がその都度飛沫を上げて、横たわったチリの体に降りかかる。小刻みに震える身体からはもうずいぶんと感覚が抜け落ちて、まるで自分のものではなくなってしまったようにも思える。

 チリはそれを確かめるように凍えた右腕を闇へと差し向けた。

 

 いいさ。

 どこにでも連れて行ってくれよ。

 

 瞬間、大きなうねりに舟が高く突き上げられた。

 音が消えた。

 チリは願った。


 そうだ。このまま天空までオレを連れて行ってくれよ。

 そうしたら父さんにまた会える。

 いや、もうすぐそこに……ほら……。 


 そして笑った父の顔が闇に浮かび上がろうとしたその時、身体の中心に灼熱の痛みがほとばしった。


 チリは苦しげに呻き声を上げた。

 同時に音と意識が立ち返る。

 舟は海底にまでたどり着くような勢いで波を滑り下りていた。

 そこかしこで砕ける波と吹き曝す風が魔物の咆哮のような怪音を再び紡ぎ出す。

 チリを呼び戻したのはまたしても石剣だった。


 石が熱など発するはずもないのに。


 安楽への逃避を邪魔されてチリは舌打ちでもしたい気分になった。

 そして胸に抱いた石剣に右手を戻すと、仄かな熱が波動のように全身に広がった。その心地よさにチリは唇を歪め、心の中でぼやく。


 なんだよ。まだ苦しめっていうのか。


 すると石剣は答えるように熱の波動を強めた。

 


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