3-8
そのときチリは不意に足場を無くしたような浮遊感にとらわれた。
同時に自分が意識を失っていたことに気が付き、あわてて顔を上げた。
すると薄闇の中あろうことかさっきまで真横で飛沫いていたはずの白波が眼下にあった。
その時が止まったような光景にチリが息を呑んだ瞬間、舟は猛烈な速さで波腹を滑り降りた。
急降下にチリは腰骨をつかまれたような感覚に体をこわばらせた。
見開いた瞳で後ろを振り返ると迫り上がった壁のような波がいまにも舟を呑み込もうとしていた。
終わりだ。
そう覚悟して息を詰め、目蓋を強くと閉じるとまた時が止まった。
そして薄目を開くと舟はふたたび波頭に乗せられていて、そしてまた凄まじい勢いで見下ろす海面に突き落とされ、振り返れば背後にはさらに巨大な波山が立ち上がっていた。
その状況ではもはや水を掻き出すことさえ不可能だった。
チリはただきつく歯を食い縛り、身を伏せて振り落とされないように舟にしがみついているしかなかった。
大波をまともに横から受ければ舟はあっけなく転覆してしまうことは確実だったがチリにはもはやどうすることもできなかった。
舟腹に顔を押し付けるとカチメジキの血が生臭く匂った。
そして溜まった海水が舟の中で小さな波を作り、押し寄せて、口や鼻腔に容赦なく入り込んだ。
ふたたび朦朧としてきた。
なんとか意識を繋ぎ止めようとチリは必死にもがいた。
するといち早く苦痛から逃れようとする別の自分が現れ、耐えているチリの姿を横目にヘラヘラと嘲笑いながら囁く。
諦めちまえよ。
放り出せば楽になるぜ。
その声は頭の中でとても魅惑的に響いた。
まだ諦めていない自分が少しずつ溶け出していくのを感じた。
そしてそのエキスは恭順を示すようにつらつらと安易に死に向かう自分の足元へと流れ行く。
ああ、もう無理かもな。
暴れ馬のような小舟の揺れにそう諦観を認めようとしたそのときだった。
チリは思いがけず右の太腿にヒリヒリと焼け付くような熱さを覚えた。
なんだ。
失いかけていた意識がわずかに引き戻され、ほとんど反射的に手を伸ばすとそこに硬いものが触った。
そして握るとやはりそこに熱を感じた。
チリは舟から振り落とされないように少しだけ体を捻り、その不可思議な熱い物体を胸まで引き寄せる。
するとそれはいつだったかあの早春の日に網に掛かった石棒だった。
ザン爺は古の剣だと言ったけれど、まさか真に受ける訳もなく、かといって捨てるにも忍びなく、持て余したチリはそれを無造作に舟に転がしておいた。
そして大きめの毒魚が釣れるとそれで針外しをしたり、あるいは舟を上げる際に縄を掛けて浜に放り投げる重しに使ったりしていた。
そのほとんど気にも留めていなかった石棒が今、チリの胸元で不可解な熱を発している。
不思議だった。
なぜカチメジキと一緒にこの石棒を放り捨ててしまわなかったのだろう。
けれどほとんど停止しかけた思考回路ではその理由を割り出すことなどとうてい無理な話だった。
しかし石棒を当てた胸や腹に感じるそのヒリヒリと焼けるような熱は心地よい波動となって全身に伝わっていく。
それは幼い頃、母の背におぶさられた感覚によく似ているように思えた。
ラティスの女神様、チリにどうかご加護を。
母の声がふたたび鼓膜の奥に甦った。
その救いにチリは辛うじて意識を繋ぎ止め、歯を食いしばった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます