3-7
陽が落ちて真っ暗闇になったこの荒れた海を想像するとチリは途端に絶望感に苛まれた。
おそらくあと半刻もすればこの心もとない薄暗ささえも失われる。
そうなったとき自分はどうなってしまうのか。
考えると恐怖に体は萎え、水を汲み出す手が止まり、チリはその絶望を掻き消そうと青ざめた顔を何度も振った。
するとそのとき前触れもなく母の記憶が甦った。
日焼けした小麦色の肌と短く切った赤茶けた髪。
スッと通った鼻筋に緑がかった大きな瞳。
その母がチリの背に額を押し当ててなにか呪文のような言葉を囁く。
思い出した。
それはチリが七歳になった春、生まれて初めて父とともに漁に出ることを許されたその朝の記憶だった。
緊張した面持ちで港の岸壁に立っていたチリは不意に後ろから母に抱きすくめられた。
「大丈夫よ、チリ。お父さんが一緒だもの。怖くないわ」
「おれ、怖くなんか……」
ない、とは言い切れなかった。
浜に暮らす者たちは皆、幼い頃から事あるごとに海の怖さを耳に注ぎ込まれる。
命の糧を与えてくれる海は、けれど気まぐれに軽々しく人の命を奪っていく悪魔にもなる。
だから海に出れば決して気を緩めてはならないと。
チリも物心がつく前からそう聞かされて育った。
だから初陣を前にして浮き立つような武者震いとその耳伝えの漠然とした恐怖にどう折り合いをつけていいのか幼いチリに分かるはずもなく、ただ気を引き締めなければならないと無闇に全身をこわばらせていたのだった。
そのチリを母は後ろから優しく抱きしめ、それからいつも父にそうするように額を背中に押し当てて小さく唱えた。
「ラティスの女神様、チリにどうかご加護を」
母の吐く息が首筋の下に小さな温かみを作った。そして微かに柑橘に似た匂いがした。
母の温もりと柔らかさに包み込まれていたチリはやがて気恥ずかしさに肩を揺すってその腕から逃れた。
「お母さん、おれ、サワラジいっぱい釣ってくるよ」
そう見栄を張り鼻を啜った。
そして腕組みをしてはにかむチリに向けた母の微笑みがまぶたの裏からゆっくりと消えていく。
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