3-6

 海面は泡立つ波頭と風雨に白く煙り、空は渦巻く黒雲に覆われて視界などほとんど皆無に等しかった。

 そして雨と飛沫を全身に浴び続けている麻布の衣服はぐっしょりと濡れ、チリの体温と生命力を容赦なく奪い取っていく。

 タワアに向かう途中で時化はさらに酷さを増した。

 それでもチリはなんとか舟を進ませようと苦心して帆縄を操っていた。

 けれどやがて突風が帆を孕ませるようになると何度も舟が転覆しそうになり、チリは仕方なく帆を下ろすしかなかった。

 そして暗く色彩の乏しい灰色の景色からさらに少しずつ光量が失われていく中を今度は櫂を握り、度々よろめきながらも懸命に舟を漕いだ。

 けれどほとんど時を待たずにそれもできなくなった。

 気がつくと激しい波飛沫により舟底にはチリの足首の高さまで水が溜まっていた。

 このまま水嵩が増していけば、あっという間に舟が沈んでしまう。

 チリは櫂も手放し、代わりに四角い竹魚籠を手に取った。

 生き残るために優先させるべきはすでに舟を進めることではなく、なんとか転覆を避けることだった。

 チリは焦りに悶えながら、しきりに竹魚籠で溜まった海水を掻き出した。

 けれどいくら水を捨て続けても、一行に水位は下がらない。

 掻き出した分だけ、あるいはそれ以上に雨や波飛沫によって水が溜まっていく様子にチリは幾度も取り乱しそうになる。


「こんなところで死ねるかよお」


 狂気を抑えようと大声でそう叫んでみた。

 けれど風の音にかき消されてそれは自分の耳にさえ上手く聞き取れなかった。


 もうダメかもしれない。


 その言葉は呟いたわけでもないのに、なぜか耳の奥深くで谺のように何度も響いた。

 恐怖と寒さに奥歯がカチカチと鳴った。

 背筋は強張り、脚には力を感じず、ただ竹魚籠を握る右手だけがなにか自分とは別の意識を持った滑稽な生き物のように水を掻き出し続けた。

 チリは寒さに震えながら青紫に変色した唇で呟き続けた。


 俺は生きる。

 生きて浜に帰る。


 そして竹魚籠に掬った水を海に散らしながらたびたび視線を上向けた。

 空は逆巻く渦のような黒雲で一面覆われていたけれど、よく気をつけて見ればその暗い空の一端にうっすらと黄色味を含んだ雲があり、それはその向こうに西に傾きかけた太陽があることを示していた。

 父の最期を思い起こさせる西日など大嫌いだったが、今はその微かな明るさが唯一自分をこの世に繋ぎ止めてくれている慈悲のように感じた。

 それに方角を教えてくれるだけでもありがたかった。

 あれが西なら、ムサシノの浜はあっちだ。

 そう見当を付けた方向に顔を向けるとザン爺や浜の人たちやあるいは食べ飽きた雑炊から立ち昇る湯気などが次々に目に浮かんで消えた。

 けれど同時にその淡く黄色い雲は夜の来訪を告げる使者でもあった。

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