2-15

「どんくせえなあ、リカは」


 そう言って笑うチリ。そして不貞腐れる自分。

 シオリカにものごころが付いた頃、チリの父親ソルトはすでにしょっちゅう工房に出入りしていた。

 父、セギルと彼は兵役時代に仲を結んだ朋友だという話で顔を合わせると二人はすぐに遠慮のない言葉を交わし、ときに周りがたじろぐほどの激しい言い争いに額を突き合わせ、そして口論を終えた次の瞬間には豪放に笑って肩を叩き合った。

 なんだか大人なのに子供みたい。

 幼いシオリカの目にもそう映るほど二人は気の置けない友人同士だった。

 そしてまた訪ねてくるソルトの後ろにはいつも自分と同じ年頃の男の子が着いて来ていた。

 もちろんそれがチリだった。

 初対面の頃は気恥ずかしく、互いに父の背に隠れて相手を窺い見るばかりだったが、何度か顔を合わせるうちに慣れて一緒に遊ぶようになった。

 晴れた日は工房にも海辺にもほど近い森の中が格好の遊び場になった。

 運動能力に優れたチリは木登りも得意で、大人のひと抱えでも余るような太い幹の樹をまるで猿のようにスルスルと登った。

 そして梢に腰を掛けたチリはシオリカを見下ろしては声を掛けた。


「リカ、登って来いよ」


「登れないよ」


 シオリカの頬が膨れるとチリは素早く降りてきて、辺りに今度は登りやすそうな樹を探した。


「じゃあ、これなら登れるだろ」


 シオリカが不安げな顔つきで目線の高さに空いたウロに指を掛けるとその刹那、フワッと足が地面から離れた。

 驚いて下を見ると自分を肩車したチリが横目に見上げてニンマリ笑っていた。


「ほら、手を伸ばしな。枝をつかむんだ」


 言われるままにシオリカは両腕を伸ばし、真横に伸びた枝を握る。


「そうだ、いいぞ。じゃあ今度はケツを持ち上げてやるからその枝にしがみつけ」


「え、ケツって?」


 するとシオリカの腰は恥じる間も無くチリの手のひらで突き上げられた。そして体が高く浮き上がると目の高さに自分の両手とその握った枝が現れた。


「えっと、これでどうすればいいの」


 戸惑って訊くと歯を食いしばったチリがお尻の下でうめく。


「重いから早く登れえ」


 焦ったシオリカは枝に肘を乗せ、次になんとか膝を跨がせてようやく枝の上に体を真横にしがみつかせた。

 けれどまた、それからどうすればいいのか分からない。

 横枝に芋虫のように体をうつ伏せた体勢で少しでも動けばきっとバランスを失い落ちてしまう。


「チリィ、助けてえ」


 恐怖にまぶたをギュッと閉じて叫ぶと真下でチリが力強く答えた。


「待ってろ、リカ」


 声のすぐ後にシオリカは両肩をつかまれ枝の上に抱き起こされた。

 そして恐るおそる目を開けるとチリのヤンチャな笑顔がそこにあった。


「どんくせえなあ、リカは」


 馬鹿にされてシオリカはおもわず唇を尖らせる。


「そんなことない。普通だよ」


「でもさ、森に住んでるんだから木登りぐらい」


 ようやく枝に腰をかけて座ったシオリカはチリの言葉に納得がいかなかった。


「だってみんな木登りなんてしないもの」


「みんな?」


 隣に腰を下ろしたチリが何気なく訊く。


「そう、学校のみんなも木登りなんか……」


 言いかけて口をつぐんだ。

 学校に通っていないチリにその話は禁句だと子供ながらに薄々理解していた。

 その黙り込んだ自分を見てチリは不意に立ち上がった。

 そして遠くを見つめたままシオリカに声をかける。


「リカも立ってみろよ」


「え、無理だよ。怖い」


「大丈夫さ。支えててやるから」


 そう言ってチリはシオリカの手を取り、引き上げるようにして立たせた。

 それから怖じて足元の枝ばかり見ている彼女の腰に手を回し、耳元で囁くように言った。


「海が見えるよ」


 その言葉に興味を引き立てられたシオリカは不安定な足場を気を取られながらも、ゆっくりと目線をチリのそれになぞらせていく。

 すると足下から滑らかな絨毯のように続いていく若葉の茂りのその先に陽の光を受けてキラキラと宝石のように輝く海が広がっていた。

 そして海はさらにその先で青い空とつながっている。


「うわあ」


 その優美さにシオリカがおもわず歓声を上げるとチリが誇らしげに鼻を啜った。


「すげえだろ、海」


「うん」


 素直にうなずくとチリは彼女の腰を強く引き寄せて言った。


「古代の人は鉄で作ったでっけえ船に乗って、世界中の海を旅していたんだってさ」


「ふうん、そうなの。よく知ってるね」


「じいちゃんが教えてくれたんだ。それでさ、あのさリカ、いつか俺たちも一緒に……」


 チリの言葉はそこで不意に途切れた。


「一緒に、なに?」


 ふたたびチリの顔に目を戻し話の先をうながすと彼はその視線を避けて上を向いた。


「いや、なんでもない」


「チリ、ずるい。教えて」


 シオリカが詰め寄るとチリは照れて視線をまた海に投げた。

 潮騒が遠くに聞こえた。

 空高く舞う鳶が甲高く鳴いていた。

 森の所々に残る古代遺跡の廃墟が若葉の蔦を全身に巻き付かせてたたずんでいた。

 それはまだ冷たい風の残る春先のことだった。

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