2-13

「ほおう、誰かと思えば懐かしいの」


 振り返ると暗がりに青白い老人の顔がまるで生首のように浮かんでいた。


「ザン爺……」


「シオリカ。しばらく見かけんうちにすっかり娘さんになったのう、ひひひ」


 そう言ってザン爺はやつれた笑みをほころばせた。

 それを見た瞬間、シオリカの脚が跳ねた。

 そして蟹男の体を掻い潜るようにしてザン爺に詰め寄る。


「ザン爺、チリは。チリが海に出てるって本当なの」


「お、おい。言ったはずだ、森人が浜のことに……」


 無骨な手に肩をつかまれ体を引き戻されたシオリカは振り向きざまにキッと蟹男を睨んだ。


「チリが危ないのに森も浜も関係ない」


 その声の強さに蟹男が怯んだ。

 けれど代わりに若者が弾かれるように立ち上がり、眉間に深い皺を寄せる。


「てめえ、阿呆なことを言ってんじゃねえ。俺ら浜の人間がどれほどてめえら森の奴らに……」


 そのときザン爺がいきりたつ若者の肩に手を置いた。


「ほほ、やめんかい」


「いや、でもよ、爺さん」


「バルタ、この娘さんはチリの幼馴染みよ。心配してきてくれたんじゃ。そう邪険に扱わんでくれ」


 その言葉に若者はしばらくザン爺の顔を恨めしそうに見つめていたが、そのうちに一度舌打ちを鳴らして視線を落とした。

 そして不承不承といった様子で上がり框に腰を下ろす。


「ゼノや。おまえさんも頼む」


 ザン爺は次に蟹男に目を向け、およそ修羅場には不釣り合いなのんびりとした調子で言った。

 するとひと呼吸おいてシオリカの肩をつかんでいた手がゆっくりと離れた。

 それを見たザン爺はひとつうなずき、再び皺深い顔に笑みを作った。


「どれ、火でも灯そうか」


 ザン爺がそう言って奥の暗がりに姿を消すと蟹男もむっつりとした顔でかまちの端に腰を下ろした。

 そして訪れた沈黙はたちまち嵐の気配に埋め尽くされる。

 屋根は吹き荒れる暴風でバタンバタンと今にも吹き飛ばされそうな音を立て、また板戸や雨戸はまるで亡霊が泣き叫ぶような奇怪な隙間風を鳴らし続ける。

 そのいまにも家ごと吹き飛ばされてしまいそうな恐怖に胸が騒いだ。

 そして男たちはもはや何も言わなかったが、それでも剣呑な息遣いが肌を刺すように痛く、シオリカはただうつむきその場に立ち尽くすしかなかった。


「シオリカ。まあ、お上がり」


 しばらくして聞こえてきたザン爺の声に救われる思いで目を向けると、そこには手燭のぼんやりとした光が揺らいでいた。

 そして光に淡く照らされた白髪頭のザン爺が手招きをしている。

 シオリカは微かにうなずくと男たちを横目で窺いながら、濡れた皮編みの靴を脱いで板間に上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る