2-9

 

 波が高くなってきた。

 そう感じて西の方角に目を遣ると遥か遠くにたたずむ陸地の切っ先にどす黒い雲が小さく滲んで見えた。

 次いで目線を上向かせるとまるでチリの焦燥を嘲笑うかのように眩い太陽が粛々と天高く昇っている。

 チリはその陽光に目を細め、そして大きく嘆息した。

 枇杷びわの葉を敷き詰めた竹魚籠たけびくは空のままで、今朝、あれほど意を決して臨んだ漁だというのにそれは散々な結末だった。

 チリは舟板に力なく胡座をかくと、渋面で髪をグシャグシャと掻いた。

 そしてにこやかに微笑む記憶の父につい恨み言を向けてしまった。


「なんだよ。エビスもたいして当てにならねえんだな」


 するとすぐに言いようのない後ろめたさに苛まれた。

 チリはもう一度頭を掻きむしり、舟板を見つめて黙り込んだ。

 それからしばらくそのまま波に揺られていたチリは、けれどやがてひとつ大きく息を吐き出し立ち上がった。


 仕方がない。運がなかったのさ。


 チリは踏ん切りを付けるように水筒の水を一気にあおると帰り支度を始めた。

 いったん帆を下げて、舟足を緩めた。

 それから流していた延縄をゆっくりと手繰りはじめた。


 と、そのときだった。

 指先に掛けていた糸が前触れもなくググンと強烈に引き込まれた。


「来たっ!」


 チリはおもわず叫んだ。

 そして下腹と腕に力を込め物凄い勢いで繰り出していく糸を握り留めた。

 けれど獲物も負けじと猛烈な勢いで海中深くへと潜っていく。

 その攻防の摩擦で猪皮の手袋から微かに煙が上がった。


「遅えんだよっ」


 食い縛った歯の隙間からチリは不服を漏らしたが、裏腹にその口角は嬉々と吊り上がっている。

 針に掛かった瞬間から遮二無二突っ走るこの感触は間違いなく待望のカチメジキだ。

 しかも手応えからして相当にデカい。

 これをバラすわけにはいかない。

 丁寧に撚りを掛けた麻糸は強度に優れてはいるが、これだけの大物になるとそれでも心許ない。

 無理に引き上げようとすると結び目が伸び切れてしまうかもしれなかった。

 チリは焦れる心を抑え、慎重に糸を手繰る。

 カチメジキはその後もかなり長い時間、海中を縦横無尽に暴れ回った。

 チリはその無鉄砲な引きを糸を出してなし、あるいは加減しつつ引き止めながら魚が弱るのをじっくりと待った。

 すると魚の動きはやがて少しずつ緩慢になり、抵抗する力も衰え始めた。

 それでもチリは慎重に手元の力を抑えながら、ゆっくりと糸を寄せる。

 そしてとうとう波間に獲物がその白い横腹を見せるとチリはようやく破顔した。

 海面に浮き上がったその青魚はやはりチリの肩幅よりも二回りは大きいカチメジキだった。

 興奮で足が震える。

 そして網で魚を取り込むと腹の底から歓喜が込み上げた。

 両拳を握り締め、空に向けておもわず叫んだ。

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