暗雲 8

 

 なんといってもエビス波だ。

 小魚たちは浮遊するおきあみを求めて、そして回遊魚はその小魚の群れを追ってこの辺りを活発に泳ぎ回っているはずだ。

 こういう日はたいてい次から次へと針に魚が喰らいつくため、座る暇もないほどに忙しくなる。

 チリは数少ない豊漁の記憶を呼び覚まし、拳に伝わるはずの魚の引きを息を詰めて今か今かと手ぐすねを引いた。


 ところがいくら待ってもいっこうにその感触が手元に来ない。


 どうもおかしい。


 チリは首を傾け、そこでいったん舟を留めて延縄を巻き上げた。

 それから疑似餌を別の物に付け替え、もう一度海に流す。

 たったそれだけのことで釣果が変わることも少なくないのだ。

 そして今度こそと気を取り直し、再び帆を上げて舟を進め始める。


 けれどそれでもやはり針先に掛かる獲物は皆無だった。

 たまに手に重みを感じてたぐってみるとそれは流木であったり、あるいはマクラと呼ばれるとても食用にはならない毒魚であったりした。

 チリはその都度、舌打ちを繰り返しながらも延縄を流し続けた。


 途中、ふともう少し大きな舟があればいいのにと詮ないことを思った。

 舟が大きくなれば流し網を使える。

 網ならば言葉通り回遊してくる魚を一網打尽にできる。

 そして魚の通り道さえ知っておけば少ない時間でも効率よく多くの漁獲を得ることができるようになる。

 チリは小舟が引くかぼそい航跡を見つめながら、喫水の深い舟の上で二の腕を膨らませて大網を引き上げる自分をしばし想像した。


 けれどやがて夢想から醒めたチリはその自分を寂しく鼻で嘲笑った。


 毎日を食いつなぐことさえ必死だというのにどうやって舟を新調する銭を稼ごうというのだ。

 それにもし仮に舟を手に入れたところで流し網をやるならどうしたってもうひとつふたつ手が足りなくなる。

 もちろんいまさらザン爺を舟に乗せることはできないし、そうかといって他に漁を手伝ってくれそうな仲間もいない。

 漁で生計を賄って数年が経つとはいえど、チリはまだ十七歳だ。

 経験も技術もまだまだ未熟な上に、こんな向こう見ずをやらかす危なかしい若造とは誰も共に漁に出ようなどと思わないだろう。

 そう考えると今の自分がずいぶん滑稽な道化に思えてチリはフッと笑った。


 仲間どころか、友達だってほとんどいないくせに。


 そう自嘲したとき、どういうわけか光が燦く波間に見覚えのある少女の姿が鮮明に浮き上がった。


 シオリカ……。


 チリは小さく名を呟き、その幻影にしばらく目を留めていたが、やがて我に返りあわてて頭を振った。


 まったく、俺は何を考えているんだ。


 首筋のあたりに浮くような熱を感じたチリは小さく舌打ちをし、それから雑念を振り払うように大きな身振りで延縄を手繰った。

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