2-6


 目当ての寄合所に向けて角を曲がると正面からまともに風が吹き付けて危うく傘が飛ばされそうになる。

 シオリカは身をすくめるようにして傘を盾に前に進む。


「よお、もしかして工房の娘さんじゃないか」


 野太い声に少しだけ傘を持ち上げると目の前に蓑笠姿の男が立っていた。


「あ、たしか舟大工の……」


 名前は思い出せないけれど、その髭面には見覚えがあった。

 父に舟造りの相談があるらしく時々工房に顔を出す男の人だ。


「おいおい、セギルの旦那にも呆れたもんだ。こんな嵐の日にわざわざ娘に荷を運ばせるなんてなあ」


 まったく同感だと何度も頷いてみせると男は気の毒そうな顔で少し笑い、それからシオリカを案内した。


 もうすぐ夏が来るというのに寄合所の中央に据えた囲炉裏には赤々と火が焚かれていた。

 そして蒸せかえるほど熱い空気にシオリカが一瞬息を詰まらせたその時、なにやら切羽詰まった声が同行の男に向けられた。


「おい、北の櫓からなにか連絡はなかったか」


 舟大工の男は表情を曇らせて返答する。


「ないな。しかし、本当にあいつこの海に出てんのかよ」


「ああ、間違いないらしい。舟がねえっていうんだからそうだろう」


 声を放った中年の男は囲炉裏で濡れた衣服を乾かしているらしく、上半身は裸だった。

 シオリカは腹も胸板も厚いその体躯から目を逸らし、戸惑いつつもかまちに麻袋を下ろした。

 何気なく見渡すと寄合所には七、八人の男たちが各々互いに離れた場所に陣取り、けれどそろって張り詰めた表情を浮かべていた。

 そして会話からシオリカにも緊迫した状況が飲み込める。

 どうやらこの嵐の中、漁に出てしまった者がいるらしい。


「いや、だけどよ。そもそも爺さんの予報をここに伝えに来たのはあいつなんだろ。それなのになんで当の本人が出ちまったんだよ」


 笠と蓑を剥ぎながら舟大工の男が言う。

 すると囲炉裏で背中を温めていた若い男がポツリと声を漏らした。


「そりゃあ、なあ」


 そして彼は首筋を一度か二度撫でた後で周囲に同意を求めるように見回した。


「ザン爺のところはいつだって苦しいだろ。あいつも嵐が来る前に少しだけでもって思ったんだろうぜ。今朝は潮も良かったし、嵐が来るような空でもなかった。だから」


 ザン爺。

 久しく耳にしていなかったその呼び名にシオリカはまずは懐かしさを覚えた。

 それから人懐こい笑い方をする好々爺の顔が思い出された瞬間、その男が放った言葉の意味にようやく辿り着き愕然とした。


「もしかしてこの海に出てるのって、チリなんですか」


 シオリカは近くにいた若者に突っかかるように詰め寄り、早口で問うた。


「え、あ、ああ、そうだ。けど、あんた誰だよ」


 シオリカの豹変に目を丸くした男はうなずいた後、訝しげにそう訊く。

 シオリカは我に返り、返答に詰まった。

 チリやザン爺とはもう何年もまともに会っていない。

 たまに市場で顔を合わせてもシオリカはチリの視線を正面から受け止めることができなかった。

 そしてチリの方も彼女を見かけてもすぐに目を逸らしてしまう。

 幼馴染みというにはそのあまりに希薄になった関係を上手く説明することができない。

 けれどそれでも彼のことを案じずにはいられない自分が口を開いた。


「わ、私はシオリカ・マミヤといいます。その、チリとは同い年で……。そんなことより捜索はどうなっているのですか」


 若者にもう一度詰め寄ると、彼は深刻な顔つきになり首を横に振った。


「捜索といってもこの波風ではなあ、大舟もさすがに出せんよ」


 舟大工の男が背後でそう答えた。次いで半裸の男が続けて答える。


「一応、北と南の櫓に交代で物見を立てて沖を見張ってるが視界も悪い。それにもうしばらくすりゃあ陽が落ちて闇になる。そうしたらお手上げだな。あとはチリの運次第だが、十中八九生きては帰れねえだろう」


「そんな……」


 シオリカは絶句した。


 見廻すとそこにいる男たち全員が沈鬱な表情を浮かべている。

 彼らもできる限りの手を尽くしているのだと気づき、シオリカは取り乱してしまった自分が恥ずかしくなった。

 そして心を落ち着かせて、またひとつ訊く。


「ザン爺はどうしているのですか」


「ああ、爺さんはなんとしても舟を出して孫を助けに行くって息巻いててよ。止めるのに二人ほど張り付かせているところさ」


 それを聞いてシオリカは居ても立っても居られなくなった。


「私、行ってきます」


「おい、あんた。行くってどこへ」


 戸口へ駆け出したシオリカの背中を舟大工の声が追ってきた。

 けれどそれに答える余裕もなく外に飛び出すと風雨はさっきよりもいっそう酷くなっていた。

 海上ではもっと強い風が吹き荒れ、波が暴れているだろう。

 そんな中を果たして枯れ葉のような一艘の小舟が無事に岸にたどり着けるものだろうか。


 チリの運次第。


 男の言葉が耳の奥で何度も繰り返される。


 シオリカは取り留めもなく膨らんでいく不安を胸に抱え、記憶頼りの道を傘も刺さずに駆け始めた。


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