2. 暗雲

2-1


 雨の季節。


 波打ち際に立ったチリは微かに白んできた東の空を見つめた。

 明星の輝きがまるで水平線にしつらえた宝石のように美しく、連日の曇天が嘘のように雨の気配はなかった。

 次いでチリは眼差しを足元に落とす。

 するとちょうどそのとき打ち寄せた波がザッと音を立て、たっぷりと満ちた力で足首を押した。

 普段なら爪先をくすぐる程度の波が今朝はずいぶんと景気が良い。


「エビス」


 おもわずそう呟くと、波はうなずくように足裏の砂をさらって去った。

 真っ正直に力強く押し寄せて、外連味けれんみもなく帰っていく。

 そういう波をエビスと呼んだのは父だ。

 それは古代、豊漁の神を指す名であったという。

 漁り人としてそれなりの経験を積んだチリは、その波を見て微笑んだ父の心情がいまではよく分かる。

 名の通り、エビスは魚を呼ぶのだ。

 たぶん大きく動く潮と風向きの加減だろう。

 その二つが上手く噛み合うと浜にエビス波が押し寄せる。

 そして小魚を追ってその捕食魚も湾の深くまで入ってくる。

 今の時期ならカチメジキだ。

 春から夏にかけて回遊してくるそれは大型の青魚で身は程よく脂が乗って旨みが濃く、市場に持っていけば高値で売れる。

 いつもなら兎にも角にもはやる心に任せて舟を出すところだが、けれど今、チリは迷っている。

 それは熾火のように耳に残るザン爺のザラザラとした声のせいだ。


 昨夜、床に就く間際、小屋に流れ込んできた風の匂いを嗅いだザン爺は途端に顔をしかめた。


「チリよ、こりゃあ嵐になるぞ」


「まさか。漁場の波はちっとも白くなかったけど」


 またかついでいるのだろうと笑ったがザン爺の声色がいつになく沈んでいることに気がつき、チリも真顔になった。


 沖にうねる白波が立ち、それから嵐が来る。

 漁師なら誰もが知るこの予兆が今日はなかった。

 そしていまも緩やかな風が吹いているばかりで波音は静かだ。

 これで嵐が近づいているとは到底信じられない。

 格子から青白い三日月を見上げたチリは唾を呑み、まさかともう一度呟いた。


「いんや、来る。こりゃあ嫌な湿り風じゃわい。明日、漁はやめとけ」


「嘘だろ。押し風が良けりゃタワアまで行くつもりだったのに」


「ふひひ、死にたくなけりゃやめておけ。明朝、皆にもそう伝えろ」


 そう言って薄っぺらな布団に潜り込んだザン爺をチリはひとしきり恨めしく見つめた。


 チリは舟の傍、布帆を脇に抱えて逡巡する。

 これで本当に嵐が来るのだろうか。


 たしかにザン爺の見透しは昔からよく当たると評判で、季節の変わり目、天候が読み辛い時節には漁師仲間がそれを訊ねにわざわざ足を運んでくるほどだ。

 けれどいつも当たるわけでもない。

 大風を予報しても海は凪いだままというようなことも時々ある。

 チリは起き抜けに寄合所に走ってザン爺の言葉を伝えた。

 するとそこに居た数人の者たちはやはりみなそろって怪訝な顔つきになった。


「おいおい、ザン爺もとうとうボケちまったんじゃねえのか。見たところ星も出て、嵐どころか雨さえ来そうにねえぞ」


 若い漁師が呆れ顔でそう嗤うと年長のひとりがしかつめらしく首を振った。


「いや、爺さんのいうことは聞いておいた方がいい。ムサシノの風読みにかけちゃあいまだあの人の右に出るものはねえ」


「でもよお……」


 その若者は丸太のような腕を組みむっつりと下を向いた。

 そして他の者たちも同じように不承な顔つきで黙り込む。

 チリにもその気持ちは痛いほどに分かった。

 最近は雨ばかりで誰も彼も不漁続きなのだ。

 そこにきてようやく訪れた今朝のような漁日和に舟を出すなと言われても腑に落ちないのは当然だろう。

 そもそもザン爺の見透しを伝えたチリでさえ半信半疑だ。

 チリはすっかり活気を失った寄合所から逃げ出すように浜に戻った。

 そしていま波打ち際に立ち、空と海を睨んで自分なりに天候を読んでいる。


 次第に明るさを増す天空に雲はない。

 波も落ち着いている。

 気がかりは時折ぬるりと頬を撫でていく湿り気を含んだ南西の風だ。

 チリは苦い顔になった。

 たしかに嵐が撒き散らす風の匂いがする。

 ザン爺の予言通りやはり来るのかもしれない。

 そう認めざるを得ない不穏な風だった。

 ではいつ来るのか。

 チリはスッと息を吸って目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。

 するとやがて五感は結論を出した。

 嵐はまだ遠い。

 おそらく本格的に猛威を振るうのは今宵、夜半になってからのはずだ。

 そう見極め目蓋を開いたチリは舳先に巻き付けていた荒縄を手早く解き、それを肩に背負うと砂を踏み込んで舟を波打ち際まで引いた。

 そしてチリは膝下まで潮に浸かり、素軽い動作で舟にに上がった。


 嵐は怖い。

 ザン爺の言う通り、命が惜しければ舟を出すべきではない。

 もちろんそんなことは百も承知だ。

 けれど危険を冒してでも海に出る理由。

 それは、ひもじい思いをしたくない。

 ただそれだけだ。

 体の奥底に騒めくその本能的な拒絶反応をチリに止めるすべはない。

 空腹を膝で抱え、ただ無為に海を眺めて過ごす日々はときに死ぬよりも辛いと思うこともある。

 それに自分だけならまだしも、年老いたザン爺にそれはずいぶんと酷な話だった。

 しかもいつもは口の悪いザン爺がそんな時に限って文句も言わず、ただヘラヘラと笑って馬鹿話ばかりするのだ。

 チリにはそれがなにより耐え難かった。


 浜から少し離れるとチリは帆柱を立て桁から帆を下ろした。

 すると風を受けた帆はすぐに果実のように丸みを帯びた膨らみを作り、舟を沖へと誘っていく。


 太陽が真上に昇ったら陸に戻ろう。

 東の空をうっすらと染める朝焼けにチリは心にそう取り決めをした。

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