星砂 3

 

 鼓膜に届く穏やかな潮騒。

 ひとり浜辺に腰を下ろし、チリはぼんやりと夜空を眺める。

 すると星々がおもむろに線をつなぎ始め、いつしかそれは幼き頃に別れた母の相貌になった。


 うなじで束ねた黒髪。

 白くふっくらとした頬。

 そして優しげな眼差し。


 チリは目を細め、ぼやけているその母の顔をもっとはっきりと描こうとした。

 けれどその甲斐もなく、幻影はゆっくりと消えていく。

 小さく息を吐いたチリは座ったまま砂をひとつかみ海へ向かって投げた。

 落胆は少しずつ母の姿を思い出せなくなっている自分に対してのものだ。

 あと何年かすればおそらくもうこのぼんやりとした母さえも描けなくなるのだろうと思うと自然と肩が丸くなった。


 古代では目に映るものそのままの形、色合いを写し残しておく技術が誰にでも使えたと聞いたことがある。

 しかもそれは王宮が召し抱える画師でさえ遠く及ばない鮮明さを持つものだったともいう。


 チリは自分の手を見た。

 星明かりにぼんやりと白く浮き上がるそれは、けれどざらつく砂粒の他には何も持たない。

 古代の科学どころか、日々の生活をなんとかやり過ごしていくただそれだけの力さえこの手には乏しい。


 チリはもう一度夜空を見上げた。

 目線で星々をつなぐと今度は父の顔になった。

 顎髭を蓄えた四角い輪郭。

 高く通った鼻筋と青く澄んだ瞳。

 肩車のときつかんだ縮れた褐色の髪と汗の匂い。

 目を凝らすと母とは違い、幻影はさらに濃さを増した。

 逞しい筋骨が硬い弾力で触れる感触が肌に甦り、その野太い声が耳に宿る。

 そして星つなぎの父が頬を緩め、破顔しかけたそのとき、突然、闇夜が紅く燃えた。


 それは紛れもなくあの日の夕空の色だった。

 深紅に染まった西空に下に父は静かに身を横たえていた。

 そして筵からはみ出た上半身にいつも軽々とチリを抱き上げた右腕はなかった。

 死者となった父はその灰色に濁った瞳で虚ろに夕空を見つめていた。

 父の体にすがって泣く母の声とザン爺の深いため息が鼓膜に響いた。

 皮肉なことにその情景だけはいままさにその場に居るが如く、鮮明に甦る。

 チリは耳を塞ぎ、砂に向かって言葉にもならない叫びをひとしきり上げた。

 そして顔を伏せたまま沈黙して、その忌まわしい記憶が霧散するのを待つ。

 しばらくするとふたたび潮騒が耳に戻ってきた。


 チリはまた顔を上げる。

 そして砕けた波が白く帯のように浮かんでは消えていく様をしばらく眺め、これは儀式なのだといつものように心に言い聞かせた。

 あのとき涙を流せなかった自分はきっとまだ父を弔えていない。

 だから何度もこの悲劇の情景が目に浮かんでしまうのだ。

 けれどいったいいつまで繰り返せば良いというのか。

 チリはため息をつき、恨めしく星々を睨んだ。

 そしてふたたび砂を握ろうとすると、指先に硬いものが触れた。

 チリはふとその存在を思い出し、それをつかんでおもむろに持ち上げた。


 それにしてもこれが。


 チリは星空から手にした物へと目を落とした。


 それは片腕の長さほどのやや平たい石の棒。


 夕食ゆうげを終えてこれを見せると、ザン爺は刻まれた紋様に目を見張った。

 そしてしばらく押し黙った後、おそらく石の剣だろうと推した。

 この紋様がずっと昔、宮廷で見た古代の文字にそっくりだと言うのだ。

 しかもそれはトウキョウよりもさらに千年も古い時代のものなのだと興奮気味にツバキを飛ばした。

 その話にチリは多少の興味を覚えたものの、あえて詳しく聞かなかった。

 問えばまた足が痺れるほど長い昔話が始まるに違いない。

 けれど見つめているとたしかにその形状は剣に見えないこともなかった。

 棒の片先はやや鋭く尖り、またもう片方は束のように丸みを帯びている。そして刃文のようなその紋様には言い知れぬ威厳と妖しさがある気がする。


 まさか。


 いつのまにか一心に棒を見つめていた自分に気がついたチリはフッと笑った。

 チリは石棒を砂に刺し肩に抱くと、その束の部分にそっと耳を当てた。


 すると寄せる波音が、静かに笑う母の声になった気がした。


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