ハーンベルク家のとある一日

霞(@tera1012)

ハーンベルク家のとある一日

6:00 ネレア 寝所にて


 窓辺には、ほんのわずかに薄明かりが差している。

 その光にぼんやりと浮かび上がる夫の寝顔を、私はしげしげと眺める。

 彼の寝顔を見られるようになったのは、ここ1年ほどのことだ。2年前に彼が近衛隊長に昇格し、日勤中心の勤務になったため、同じ時間に寝所に入れるようになったことも大きいが、それでもしばらくは、私は夫の寝顔をほとんど見たことがなかった。本当に眠っているのだろうかと思う程、彼の眠りは浅く途切れやすかった。


 いつもキラキラと忙しく動き回る黒い瞳が閉じられた寝顔は、普段の彼とは大分違って見える。精悍で、そしてわずかに、こわれやすそうな繊細な美しさがある。


 起こしてしまわないよう、そっと背を向けベッドを抜け出そうとしたとき、ズシリと腰に重みがかかった。彼の腕。


「ネレア、あとちょっと、一緒に……」


 そのまま寝息になる彼の胸の呼吸の動きが、私の背中に伝わってくる。

 私は微笑み、彼のぬくもりに包まれながらもう一度目を閉じる。



10:00 カイト 居間にて


「ほんとごめん、ネレア。朝稽古つぶしちゃって」


 すっかり忘れていたが、子供の頃の俺は、だいぶ寝相が悪かった。一度、寝たまま風呂に入っていて、医者に連れていかれたことがある。寝言とは思えないほどはっきりしゃべり、翌朝覚えていないこともよくあった。

 それにしても妻にしがみついてベッドに足止めするなど、どこの子供かと恥ずかしい。

 背を向けた妻は、笑いを含んだ声で答える。


「大丈夫よ。今日はお客様だし、もともと、軽く済ませるつもりだったから」


 今日は、昼から友人を招いていた。

 ネレアは身体を動かしているのが好きな性質たちで、朝から楽しそうに女中たちと部屋を花で飾りつけている。正真正銘の役立たずの俺は、お茶をあてがわれソファーでぼんやりと彼女らを眺めていた。


 ふと、サイドテーブルに飾られている赤い実が目に入る。


「透かし鬼灯ほおずき……」

「ああ、それ」

 ネレアは、背を向けたまま楽しげに言う。


「前に、好きだとおっしゃっていたから。武術の生徒から、人工的に作る方法を教わったの。割と簡単にできるのよ。かわいいでしょう」

「へえ、どんな作り方なの」

鬼灯ほおずきをお水に浸けて、ガクの部分を腐らせて、葉脈を残して洗い流すのよ。10日ほどでできたわ」


 いや、かなりめんどくさいだろ、それ。俺は心の中で突っ込む。少なくとも、貴婦人が進んでやりたがる作業とは思えない。


 俺のために、ネレアが作ってくれた不思議な赤い実。

 そっと指で触れてみる。

 胸が、はち切れそうで痛いほどだ。

 結婚から6年も経つのに、こうやって何かあるたび心の中で七転八倒してる俺って、ちょっとおかしいのかな、などと考える。



11:50 居間にて


「ようこそいらっしゃいました、ナギ様。奥様も。ああ、坊やはおねむですかな」

「爺や、久しいな」

 手土産を爺やに手渡しながら、銀髪碧眼の王宮最高位魔術師は目を細める。


「この度は、誠に、重畳に存じます」

「ありがとう」

 ナギが魔力を取り戻し、彼の息子が無事生まれて1年ほどになる。


「いつぶりかな、この家に寄らせてもらうのは」

「最後にお越しになられたのが、お二人が成人された時でしたから、かれこれ、12年ほどに、なりますか」

 ナギは懐かし気に部屋を見回す。


 ナギとカイトが初めて出会った10歳のころから、12歳でナギが魔術師学校に入るまで、彼はかなりこの家に入り浸っていた。

 何のことはない、彼は王宮ではなかなかのいじめられっ子だったのだ。カイトが彼と親しくなったのも、王宮の中庭でいじめっ子に囲まれていた彼をかばってやったことがきっかけだった。

 彼が魔術師学校に入学し、瞬く間にその力が王宮に知れ渡った時、青くなった子供やその親は一人や二人ではなかった。


 そのころから、ナギは絶対に、いわゆる一般の人間に攻撃の魔法を使うことはなかった。今に至るまで、それは続いている。多分、自分が殺されるとしても、彼は生身の人間に自分の攻撃魔法を向けることはないだろう。


(こいつは、そういう奴だよな)

 いつもの穏やかな笑顔で庭を眺める友人の横顔を見やりながら、カイトはしみじみと思う。




「それにしても、ずいぶん豪勢な昼食だな」

 庭にしつらえられたテーブルの上に運ばれてくる料理を見て、ナギは目を丸くする。


「……兄貴のせいだよ」

 カイトは顔をしかめて答える。


「お前知ってたっけ、あの、ネレアの決闘騒ぎ。その後さ……」

「ああ、あの、お前が危篤きとくになった時の話か」

「え」

 危篤きとく?初耳だけど。カイトは仰天してナギの顔を見直す。


「そうか、言っていなかったな。あれはだいぶ厄介な悪霊だった」

「……やっぱり、あの時最初にはらってくれたの、お前だったのか」

 ナギはなぜだか苦笑いする。


「部下たちでは間に合わない輩だった。ところが私はちょうどその時、大掛かりな術を使った直後で、外の魔力が空っぽでな。なかなか魔力がたまらなくて、焦った焦った」

 リアの焼き菓子をあんな勢いで食べたのは、後にも先にも、あれきりだよ。のどに詰まって、こっちが死にかけた。ナギは笑いながら言う。


「出来る限りは落としたつもりだったが、やはりあの後、かなり霊障が長引いたらしいな。側にいてやれればよかったが」

「……いや、ほんと、ありがとな」


 あの当時、ナギは長くは歩けない程度には衰弱していたはずだ。


「しかし、あの時の王太子殿下の取り乱しっぷりは、なかなかの見ものだったぞ」

 ナギの口調には愉快そうな響きが混じる。

「本人は顔に出していないつもりなのがまた面白くてな……」


 こいつもなかなか、いい性格してるよな。カイトはナギのぞっとするほど美しい微笑みを眺める。


「殿下の暴走は、あの後だいぶ、ひどかったらしいな。いつものように、お前が一喝すれば収まるだろうとそのままにしてしまったが、悪いことをした」

「……まあ、終わったことだし、それはもういいんだけどさ」

 カイトは気を取り直す。


「あの件で、兄貴はネレアが気に入ったらしくてさ。それからこっち、やばいくらいの贈り物攻撃なんだ。5年がかりでどうにか半年に一回まで減らさせたけど、とにかく、俺たちには食べきれない豪華食材を送り付けてくるもんでさ……」

 このままじゃ、爺さん、絶対痛風になる。食べきるのを手伝ってくれ。

 割と真剣な、カイトのお願いである。


「王太子殿下のお前への執着は、尋常ではないからな。弟が無事育ったのが、よほどうれしかったんだろう」


 ナギはやや、遠い目をする。現国王の子供たちで、成人まで生き延びたのは、王太子を除いてはカイトと、女児のみだ。


「兄貴もなあ……。腹違いの弟たちが長生きできない原因が自分の母親ってのも、難儀だよな」

 カイトはため息をつく。

 

 それから首を振り、立ち上がり明るい声を上げる。


「……さ、昼にしよう。やばいワインがあるぞ」


 二人は、光あふれる裏庭へと踏み出した。



15:00 前庭にて

 

「ここにいたのか」


 少し、外の空気を吸ってくる。言い置いて前庭に出て行き、しばらく戻らなかったナギの横顔に、カイトは声をかける。

 ナギは、前庭の百日紅さるすべりの木の幹に手を当てて、目を閉じていた。カイトは眉を寄せる。


「ナギ、お前、……この庭に、何かしてるのか」


 静かに、銀髪碧眼の魔術師は振り返る。


「……気づいていなかったか」

 その目は柔らかく微笑んでいる。


「結界を、張っていた。初めてここに来た時……11歳の頃からだ」

「何だって」

 さすがに予想外の言葉に、カイトは絶句する。


「お前やこの家の者たちに害意を持つ悪霊や人間の侵入を阻む、結界だ。多分爺やは気づいていただろう」

 ナギの微笑みが深くなる。


「カイト、お前は時々本当に、にぶいな。夜這いの客や刺客が、成人するまで夜襲を待ってくれるわけがないだろう。お前がこの家を出たから、そんな目にあったのさ」

カイトはぐっと詰まる。しかしそれにしても。

「……でもお前、俺なんかのためにそんなことして、大丈夫なのか。立場があるだろう」


 ナギは、自分の魔術の私情での濫用を、自らに固く戒めている。カイトはそれを誰よりも良く知っていた。


「11の子供の、出来心だ。時効だろう」

「でも」


 ふいにナギの口元から、微笑みが消えた。瑠璃色の瞳が光を帯び、カイトはどきりとする。


「カイト。魔力を失っていた時、お前が私にしてくれたことを、私は生涯忘れない。私もお前も、人の力を借りるのは好かない性分だが、私は、お前やお前の家族のためならば、いつでも何をおいても全力を尽くす。……時には、私を頼って欲しい」

「……」


 前庭を、静かに風が吹き抜ける。


 ありがとな。しばらくの沈黙の後、ため息のようにカイトはつぶやく。


「でもさ、あのころ、魔術師たちだってみんな、お前を心配していたんだぜ。王宮以外での接触を拒否っていたのは、お前の方だろう。あのころのケインのしょげっぷりと言ったら、なかったぜ……」


 あの頃のナギは多分、一人でゆっくり死のうとしていた。リアがあの店にやって来るまで、あの店の扉を開けるのが、カイトは毎回怖かった。


「ケインか。……あれには、計り知れない荷を背負わせてしまった。何とか報いたいとは、思っている」

 ナギは静かにつぶやく。


 前庭には、裏庭で遊ぶナギの息子と爺やの笑い声が、微かに響いている。



21:00 寝所にて


 いつものように、ネレアとカイトはテーブルをはさんで、二人でお茶を飲んでいた。昼食が豪華すぎて、夕食は二人とも、口をつける程度しか入らなかった。

 にぎやかで楽しく、目まぐるしい一日の終わり。二人はようやく息をつく。


 カイトは目を落とし、自分の右の掌を眺める。

 今日の昼間の感触がよみがえる。彼の指を握った、柔らかく小さいてのひら。首の周りに巻き付いた、甘い香りのするもっちりとした腕。


「……ネレア、俺、今日、考えたんだ」

 夫の静かな声音に、ネレアは目を落としたまま軽くうなずく。


「もしも、俺たちに、子供がいたら」


 そこで初めて、彼女は夫を振り向いた。


「……俺はその子を、守り切れるだろうか」

「カイト」

 気づかわしげな妻の声。


「今日、気がついたんだ。今の俺は、10歳の時の俺とは違うんだよな。俺には、君も、あいつらもいる。そして俺自身も、今は多分、あの時よりは、誰かを守るための力を持っている」

 カイトは目を上げる。


「すごく勝手な話だし、そう都合よくいくかもわからないけどさ……もし、俺が、これから親になることに挑戦したいと言ったら……怒るかい」



 ふいにネレアが顔を逸らした。


「……怒るわけ、ないでしょう。私も、……子供が、欲しかったから」


 表情の見えない彼女の声に微かに混じる涙の気配に、カイトは焦って立ち上がる。


「ネレア」

 彼女は、そのままの姿勢で動かなかった。

 傍らに歩み寄り、カイトは彼女の頭を抱え込む。


「そんなに、我慢してたのか。……ごめん、……ごめんな……」

「……いいえ。あなたと生きていくと、あの時決めたのは、私だから。……謝るなら、私の方よ」


 また、泣いてしまった。私、だめね。ネレアは静かにつぶやく。


 ランプの光が、テーブルの上の透かし鬼灯ほおずきの柔らかな影を揺らしている。

 静かに夜が更けていく。

 


**


5年後、ハーンベルク家



「ネレア・ハーンベルクに届け物これあり」


 また、先ぶれなしの訪いだ。あのクソ兄貴、今度は何を送り付けてきたんだ。

 『木』の格好――要は腕を上げた仁王立ちだ――をさせられ、両側を娘たちによじ登られながら、俺は顔をしかめて思う。


「爺や、今度は一体、何なんだ」


 汗をふきふき戻ってきた爺やに、俺は苦々しく声をかける。


「あの大きさは……多分、ベビーベッドですな」

「送り返せ」


 3人目の赤ん坊に、新しいベビーベッドがいるはずがないだろう。まったく、王族には経済観念というものがない。


「お父様、動いてはダメです」

「……ああ、ごめんごめん」


 頬を膨らませた長女は、おもむろに俺の腕にぶら下がる。


「お父様、回ってください」

(ええ……俺、目が回るの、苦手なんだよな……)


 しょうがないな。俺は二人の娘を両脇に抱えて庭へ飛び出す。


「よーし、どうだ、お前たちは今、飛んでいる!!」



 きゃいきゃい。裏庭には、騒がしい声が響いている。

 居間のソファでその声を遠くに聞きながら、お腹に手を当てたネレアは静かに微笑む。


 今年も、前庭には百日紅さるすべりが美しい花を咲かせている。

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