第3章8話 その瞳の見つめる先に……

 ぽっかりと口を開けた洞窟が少女の姿をのみ込む少し前、アスターは、不安げな視線を感じた。


 気のせいだった。

 メルは振り返ることをしなかったから。


 イリーダが言うから、メルを聖堂に預ける件は保留にしたものの、たとえ試練の結果が出たとしても何も変わらない。


 メルに謡い手としての素質があろうとなかろうと、子どもを亡者との戦いに巻き込むのはたくさんだ。


 家族、仲間、謡い手だった相棒も、亡者との戦いで亡くしたのを、アスターは忘れない。



(あいつには、もっと普通の……──)



 ──彼女の生き方を。



(亡者との戦いなんかじゃなくて……──)



 ──あなたが決めることはできないわ。



「…………」



 腹の傷がズキリと痛んで顔をゆがめた。

 ガノー渓谷で負った傷。……危険をかえりみず、助けてくれたのは、メルだった。


 しかめた顔に気付かれないように木の根元に座り込んだところに陰が差した。

 心配顔の聖堂長がのぞき込んでいる。



「アスター。あなたは少し休んでなさい。顔色が悪いわ」


「……いつものことです」


「心配性の保護者さん──あの子なら大丈夫よ」



 アスターは憮然とした。子どもの頃を知られているせいか、どうもこの聖堂長の前に来ると立場が弱い。

 イリーダはくすりと、いたずらげに笑った。



「実は、謡い手としての適性がない方が安全なの。神器は聖性の強さに反応するから」


「あぁ、やっぱり。そういうことだったんですね……」



 げんなりとした様子で、レタが言う。



「おかしいと思ってました。他の巫女たちはけろっとした顔で帰ってきたのに、私とエイニャのときは、洞窟から出てくるまでそりゃもう大変で……」


「ふふふ、ごめんなさいね。試練の内容は、本人たちには言えないことになってるから。謡い手になる素質のない者が、聖女アウグスタ様の姿を見ることはない。それだけの聖性の強さがなければ、神器はただの……──」



  ☆☆



「──…………鏡?」



 洞窟のゆるい勾配こうばいを降りていった、そこが終着点だった。


 メルは首をかしげながら、背後を振り返った。来るまでの道のりは一本道で、迷いようがない。


 行き止まりにあったのは、メルの姿が映る大きな姿見が一枚。


 縁の見事なガラス細工を燭台しょくだいのろうそくが照らしている他は、何の変哲もないただの鏡である。手をかざしても、裏をのぞき込んでも──何もない。


 イリーダ聖堂長が脅かすから、どんなものかと思ってた。拍子抜けした気分で、ちょっと立ちつくした。



(確か、魂送りの杖をかざして……)



 ──身体の中の聖なる光を集めるイメージで。


 姿勢を正し、呼吸を正し、精神を落ち着かせた。

 自分の中に深く潜っていくように、言葉を自分の中に迎え入れる──遠い昔の、神代の言葉。

 唇から、亡者の魂を葬送るのとは違う響きの旋律がこぼれ、身体が動くのに任せて足を踏み出した。



 ──生者と死者の狭間はざまにある者よ。

 ──我が前に、力の正統なる継承者であることを示せ。

 ──我が力の器たりうる証を示せ。

 ──我は忘却の河を守護する者。

 ──生者と死者のことわりを正す者。



 メルの歌声が洞窟の中で高く低く反響し、ろうろくの炎が踊りを奏でる手足の影絵を浮き上がらせていく中、風で湖面が揺らぐように、鏡に映ったメルの姿が……──



「……え?」



 鏡の中からまばゆい光があふれた。

 次の瞬間、メルは慈愛にあふれた優しい光に包まれていた。


 鏡の中──メルの姿があるべき場所に、ひとりの少女が立っていた。


 年は、十四歳のメルよりも二つ、三つ上だろうか。闇よりもなお濃く深い黒鉄くろがねの髪に、優しげな漆黒の瞳。黒のロングドレスをまとう手足は細く、儚げな微笑を浮かべている。


 メルは声を失った。



(このひと……──!)



 鏡の中の少女はにこりと笑って、歌うように言葉をつむいだ。



「私は、アウグスタの力の欠片。神器『アウグスタの瞳』に宿る者。なんじ、死者と真に向き合う覚悟はありますか?」


「は、はい……!」


「──ならば、その証をお見せなさい」



 言って、鏡像の少女が鏡の中から指し示す方へ、メルが振り向くと──


 二度と見ることがないと思っていた微笑みが、そこにあった。


 闇の中にぼんやりと浮かぶ、粗末な白いワンピースと、鎖のつながった足枷。赤毛のおさげと、そばかすの浮いた笑顔。

 メルの記憶の中、十二歳で時が止まったままの……──友達。



「…………リゼ……ル?」



 ──死んだはずの彼女が、変わらぬ姿でそこにいた。


 刹那、メルの脳裏に、二年間の記憶が鮮やかに浮かび上がり、……遠い思い出の中で、十二歳の友達の声がした。

 苦しい現実を感じさせない、ほがらかな明るい声。


 隊商に連れられて旅をする中、周りのひとも景色もどんどん移り変わっていったけれど、彼女の笑顔はいつだって変わらない。その日も、暗がりで隠れて泣いていたメルに微笑んだ。



『まーた泣いてるの?』


『……──番?』


『やめてよ、リゼルって呼んで』


『……何それ?』



 きょとん、と当時のメルは──まだ名前もなかった子どもは言った。


 赤毛のおさげの友達が笑った。にっかりと。

 メルと同じ粗末なワンピースと足枷の姿で。でも、メルとは全然違う笑顔。



『今はやってる『河のほとりの恋人たち』っていう舞台の舞台女優ヒロインの名前。私、気に入っちゃった』


『また屋根の上から無賃観覧タダ観して……』


『これも魂送りの練習のうちだよ』



 しれっと「リゼル」は言う。

 その後に続いた内容がとんでもなかった。



『私、いつかあのひとみたいに舞台で歌うの』


『……えぇ?』



 それは、明日あすをも知れない奴隷の少女が願うには、あまりにも壮大な夢物語。


 メルの脚の鎖が、じゃらりと鳴った。

 影のようについてくる重たいくさび。一緒に、心まで暗闇の中に深く沈み込んでいくよう。


『……ムリだよ。私たち、奴隷なんだよ? 亡者に食べられて死ぬだけだよ。歌なんか練習したって、どうせ……』


『ストップストーップ。はい、お口チャック』


『あうっ!』


『奴隷が夢見て何が悪いの。いーい? 泣いたって何も変わらない。だったら、笑って生きるの。そう思わない?』



 メルは目をみはった。


 ──あぁ、彼女は強い。


 泥の中に沈んでおぼれている自分とは違う。

 彼女はちゃんと空を見上げている。

 頭上にどこまでも広がっている無限の空を。


 いつの日か、本当に舞台で歌う彼女が見えるようで──



『だからね、笑おう。運命だって笑い飛ばしてやるわ。そうしてたら、きっと──』



 ──いつか、きっと、夢は叶う。


 そう言って、命の輝きそのものみたいに笑った彼女は、メルの中で時を止めたまま。永遠に十二歳のまま。


 彼女が最期のときに笑っていたのか、メルは知らない。いつまで経っても、彼女ほど、強くはなれない。

 でも「リゼル」が死んで、彼女の分も笑って生きようと思った。


 ──その彼女が、あのときの姿のまま、そこにいた。


 メルはその場に立ち尽くした。


 生きてるはずがない。

 彼女は亡者の中に置き去りにされたのだ。

 主人に魂送りをしろと言われて、その仕事やくめを果たしたのだ。


 ……それでも、会いたかった気持ちに、嘘はない。


 夢でも、幽霊でも、いい。メルは、リゼルに、ひと目会いたかったのだ……。



「……まーた泣いてるの? 相変わらず泣き虫だなぁ」



 そう、リゼルが言ったから。

 ますます涙が止まらなくなった。



「ねぇ、行こ! あっちでみんな、魂送りの練習してるよ。こんなところで油売ってたら、またご主人様にどやされちゃう」



 リゼルの背後で、死んだはずの仲間たちも笑っている。

 メルの中から試練のことも、アスターとの日々も、何もかもが吹き飛んだ。


 リゼルの少し小さな手に引かれるまま、メルは暗闇の中を駆けていった。泣き笑いで。

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