第3章3話 影絵の執務室
廊下を抜けて突き当たりの扉を開けると、ふんわりとした甘い香りが漂っていた。
白いレースのカーテンが風になびいている。
執務机で、のりのきいた巫女服を着た女が書き物をしていた。五十歳は過ぎているはずだが、背筋をぴんと伸ばして、年齢を感じさせない。
アスターが部屋に入ると、かけていた眼鏡をそっと押し上げた。
「──いらっしゃい、アスター。よく来たわね」
「ご無沙汰してます」
「怪我の具合はどう?」
「……おかげさまで」
「亡者相手に、またずいぶんとムチャをしたようね。連れの女の子が半泣きになってたわよ?」
「……」
どう答えたものか。視線を逸らして押し黙ったアスターに、イリーダは椅子を勧めてティーポッドの紅茶を注いだ。さっきから部屋に漂っていた香りの正体だった。
外界から切り離されたかのような穏やかな時間が、亡者との戦いで疲れた心を、つかの間、解きほぐした。
カルドラの町に着いてすぐのことはよく覚えていない。
ガノー渓谷で崖から落ちて、そのときの怪我がもとで発熱しており、意識ももうろうとしていた。が、何かの拍子にカルドラ聖堂のことを口走ったらしい。
施療院の者たちが聖堂に問い合わせて、聖堂長のイリーダが身元引受人になってくれたというわけだ。
「……迷惑をかけました」
「そう思うなら、次からはムチャな戦い方はしないこと。──といっても、あなたは聞かないのでしょうけど。わかっています。これでも長い付き合いですからね」
慣れた調子でたしなめる。親戚の子どもでも見るような苦笑いだった。
それもそのはずで、若い頃から謡い手として名を馳せていたイリーダは一時期、ノワール王国に滞在していたことがある。その頃からの旧知の仲だった。
それでも、アスターが身をすり減らしてまで亡者と戦うようになったのはむしろ、ノワール王国の葬送部隊を抜けてから──故郷が滅んでからのことだと知っている。
「──でも、あなたもやっと新しい謡い手と組む気になったのね。頼ってくれて嬉しいわ。私たちもできる限りのことはするつもりよ」
「……は?」
「あら、違うの? てっきりそのつもりでうちに寄ったのだと思ったんだけど……」
「…………誤解です」
新しい謡い手──それがメルのことだと思いいたって、アスターは天を仰いだ。
確かに、意識もあやふやな中で聖堂に担ぎ込まれてからというもの、イリーダにろくな説明もできていなかったが……。
「メルは謡い手じゃありません。魂送りの杖はもってるが、あいつは──」
「──奴隷ね? それも、歌と踊りを仕込まれて亡者の楯にされた」
「…………知ってたんですか」
「そういう子どもたちがいるって、ウワサだけ。聖堂の正規のルートを通さないで歌と踊りを仕込まれて、闇でひっそりと売買される子どもがいることは、私たちももちろん知ってる。でも、なかなか実態をつかみきれてないのが正直なところだわ」
アスターは、メルと出会ったいきさつを語った。
亡者に襲われていたところを助けたことや、預けようとした孤児院で人並みな待遇を受けられなかったこと。
イリーダは顔を曇らせた。
「……そう。ショックだったでしょう。ノワール王国に奴隷制度はなかったものね」
「この国に奴隷がいるのは知ってる。実際、見たこともある。けど、あいつの境遇は、ただガキどもを亡者のエサにしてるだけだ。なぜそんなことを……!」
魂送りは、亡者が弱ってからするものだ。そうでなければ亡者には効かないし、のんきに歌い踊っているうちに食われてしまう。もともとノワール王国の葬送部隊にいたアスターにとっては常識的なことすら──当のメルは知らなかった。
イリーダも力なく首を振った。
「実際、ただの
「わかりません。それに何の意味がある? そんなことで亡者を防げないのはわかりきってるのに……」
「自分の命の保証と引き換えに大金を払う物好きはどこにでもいるものよ。たとえそれが気休めにすぎないとわかっていてもね……。亡者が出るまでは働かせばよし、実際に亡者が出たら人身御供に差し出せばいい。大人の奴隷に比べたら、言うことも素直に聞いて扱いやすい。持ち主にとって損はないわ」
吐き気をもよおすような話だった。
主人を守るために魂送りをしろと言われ、それが
それでも、彼女たちは信じて疑わない──自分の力不足で亡者を葬送れなかった、と。
謡い手ひとりで亡者を葬送ることなど、到底不可能なことなのに。
「いくらなんでも、やり方が無謀すぎる。謡い手の素質があるかどうかもわからないヤツらに……」
アスターは沈鬱にうなった。
本来、魂送りをするには、並外れた聖性の強さが要求される。
聖性の強さは、修行をすることである程度補うことができるが、生まれつきの素質に左右される部分も大きい。つまり、形だけ歌と踊りを覚えても、何の意味もないのだ。
カルドラ聖堂にも数十人の巫女がいるが、死者の魂をなだめる謡い手はエイニャとレタ──そして、目の前にいるイリーダの三人だけ。それが現実だった。
もともと謡い手というのは、葬儀などにおいて死者の魂をなだめる祭司的な役割の聖職者だった。
その中には、従軍して戦地におもむく者たちも、少ないながらいた。そんな謡い手たちは戦場に舞い降りた天使として、仲間を喪った兵士や負傷兵たちに重宝されてきた。
けれど、いつしか大陸各地に亡者が出没するようになって、事情は変わった。
各国で独自に葬送部隊が結成され、謡い手たちが積極的に戦地登用されるようになった。それが結果的に、謡い手の地位を飛躍的に高めることになった。
とりわけ先進的だったノワール王国の葬送部隊にあって、アスターとルリアが防国の双璧とされたほどに。
純白の戦乙女──ルリア・エインズワース。
アスターの元相棒にして、ノワール王国の誇った防国の謡い手。
彼女がとある戦線で、一度に百体もの亡者を葬送ったのは、一部の者たちの間でもはや伝説となっている。それも彼女のずば抜けた聖性の強さがあってこそだった。
メルが魂送りできないのは、亡者の前ですくんでしまう恐怖のためではなく、もしかすると……──
はたして、イリーダも顔を曇らせた。
「……。あなたが連れてきた彼女も、謡い手としての素質があるかはわからないわ。それでも、試してみる価値はあると思う。彼女が望めばの話だけど……」
「……必要ない」
きっぱりと、アスターは言った。
「あいつはこれ以上、亡者なんかに関わるべきじゃない」
「……アスター……」
「そのことをお願いしようと、この町に来ました。あいつのことを保護してほしい。あなたがいるこの聖堂なら任せられる」
「そうしてあなたはまた旅に出ようと言うのね? ……彼女を置いて」
アスターは沈黙した。それが答えだった。
イリーダの、沈んだ声。
「……そう。彼女、悲しむでしょうね。あなたにずいぶん、なついてるようだったから……」
アスターはテーブルの上に置かれて手つかずなままの紅茶に目を落とした。立ちのぼっていた湯気は消え、すっかり冷めてしまっている。
部屋を包み込んでいた花の香りはいつしか消えて、意識の外にあった冷気が足元に忍び寄っていた。
窓から射し込んだすずめの影絵が、床板でチュンと鳴いた。
どことなく、さみしげだった。
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