第23話 おしゃべりな標本
息子が歯科検診の結果を不満そうに見つめていた。
本当は新学年最初の身体測定の時に一緒に行われていたのだが、転入手続きの関係で個別に受診してきたのが今日だった。
そして残念なことに小さな虫歯が発見されてしまったらしい。
幼稚園の頃、かかった歯医者が怖かったようで息子は歯磨きに熱心だったのだが、生え変わりが近い乳歯が抜けそうでブラッシングが遠慮がちになっていたようだ。
もう抜けそうなので特に治療はほどこさないことになったが、虫歯の種が口の中にあるということが嫌なのだろう。
いっそ早く抜けないかな、でもできたら学校で抜きたいし……とぶつぶつ言っていた息子は、ふと顔をあげるとそういえばさ、と話だした。
「今日、診察してくれたおじいちゃん先生、もう三十年以上、七坂小学校の検診してるんだって」
「そうなの。長いのねぇ」
「それで話の流れで、七百七十七不思議集めをしてるって言ったら、教えてくれた話があって」
息子は最近、雑談から怖い話をしていい相手かどうかを見極めているらしい。
しかし、歯の診療中にどうやって話の流れを作ったのか。
そちらに気をとられている私には気づかず、息子は聞いてきた話を披露しはじめた。
七坂小学校に保健室に歯の模型がある。
今プラスチック製で歯茎のピンク部分と抜き差し出来る歯のパズルのような口腔内模型だ。
通常より大きなサイズのそれは一年生への歯磨き指導と、保健体育の授業の時に使われるくらいで、普段は保健室の補完棚に仕舞われている。
模型は大人の歯型、永久歯なのだが、以前、子供の歯型があった。
約四十年ほど前、まだ昭和だった時代のこと。
はじめて担当医として七坂小学校にやってきた歯科医師は、歯科検診の始まる前の空き時間に乳歯のある標本をもの珍しげに眺めていた。
ピンクの歯茎部分がある模型ではなく、白い顎骨に支えられて白い歯が並んでいる、頭蓋骨標本から顎骨と歯だけを残した真っ白い口蓋標本だった。
蓋の開けられた箱の中、紺色の布の上に置かれた標本をしばし眺めていた歯科医師だが、ふと何かが聞こえた気がして室内を見渡した。
今回の歯科検診では三つの歯科医院から四人の歯科医師が来ることになっている。
最年少にあたる歯科医師は遅くなってはいけないと早めに来たが、まだ残りの3人は来ていない。
保険医と同行してきた衛生助手は検診会場の設営に体育館に行っている。
空耳だろうか、と思った時、また何かの声がした。
同時に何か軽いものがぶつかり合ったようなカタカタという音も聞こえる。
上階の教室などから、子供たちの声や椅子が床に当たる音が漏れ聞こえているのだろうかと天井を見上げたが、音の発生源はすぐ近くであるように感じた。
どこだろうと目線を前に向けた時、先程まで見ていた口蓋標本がカタカタと、まるでおしゃべりをするように歯を開け閉めしていることに気づいてしまった。
思わず声をあげて飛び退さったが、血の気の引いた歯科医師の様子にまったく構わず、歯の標本はカチカチと歯を鳴らしていた。
その動きに合わせて、先程の聞き取れない声も聞こえてくるようだった。
目の前で起きている出来事に、どうしようもなく恐れ慄き立ち尽くしていた歯科医師だったが、唐突にガラッと扉が開く音がした。
はっとして振り向くと数人の医師がどやどやと保健室にやって来たところで、先にいた歯科医師ににこやかに挨拶をしてきた。
「やあ、今回はよろしく」
「は、はい、よろしくお願いします……って、あの、今、その…」
自分よりベテランの医師たちに先程起きた現象について話そうとしたが、すでに標本は沈黙した後で、何も話せないまま、その日の検診は終わってしまった。
それから数年。
数度の歯科検診のたびに何故か保健室で一人になる時間があり、そのたびに歯の標本はカタカタと動いて歯科医師に話しかけてきた。
最初はただひたすら薄気味悪く思うだけだったが、やがて慣れて、話す内容は相変わらず聞き取れないままだったが、適当な相槌まで打つようになったいたそうだ。
「まあ、標本ってくらいなんで、本物の子供の骨だったわけなんだけど」
「そういう話なんだろうなあって、思ったわ」
頷くと、だよねー、と息子も頷きを返した。
今となっては出自ははっきりしないが、亡くなった生徒の希望で標本が作成され、寄贈されたそうだ。
歯科医師以外にも話しかけられていた教師や生徒はいたようだったが、ある年から急に口蓋標本は話すことがなくなり、きっと話し終えて満足したのだろうと寺に納められ、供養されたという。
「昔だと歯磨き粉も歯ブラシも今みたいなのじゃないから、虫歯って多かったらしいんだけど」
昨今の歯磨き粉はフッ素が含まれているものが多いし、幼少期に親などから虫歯菌を移さないようにする指導などもあるので、子供の虫歯は減っているらしい。
とはいえ、完璧ではないので今回の息子のように隙を見せれば、虫歯はすぐ出来るのだけど。
「とってもキレイな歯だったらしいよ。歯並びもよかったから、大人になって永久歯が生えそろったのを見てみたかったなって、おじいちゃん先生が言ってたよ」
いくつくらいで亡くなった子なのかは知りようもないが、死後に話しに耳を傾けてくれた人がいたことが、救いになっていれば良いなと思った話だった。
45、おしゃべりな口蓋標本
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