間話2 赤い靴の女の子

「プールの横………赤い靴が……」

 最終下校時間が近いというのに、中央玄関に屯っている生徒を見つけ帰宅を促そうと近づいた時だった。

 一人の少年が何か友人に話している中に、聞きたくない単語が紛れ込んでいて足が止まった。

 笹崎忠寛は勤続三十年を迎える教師だ。

 七坂小学校には新任のころに四年、それから別の学校をいくつか経て、また三年前に戻ってきた。

 今の教頭が定年退職した後、次の教頭として着任する予定で、いわば出世のために七坂小学校にきたといってもよかったが、叶うことなら別の小学校に着任したかった。

 七坂小学校には嫌な思い出がある。

 出来ることなら消し去ってしまいたい過去だ。

 声をかけ損ねている間に生徒たちは帰ったらしく、大きくため息を吐くと残っている生徒がいないか確認した後、中央玄関を後にした。

 この後は見回り当番を済ませ、十七時半から職員室で会議。

 それが終われば特に用事はなかったはずだ。

 笹崎はほんの数分間でどっと疲れた気分になりながら、ノロノロと歩いた。


「……伝達事項は以上です。他に何かございますか?」

 進行役の六年生主任が声をかけると、あの、と遠慮がちにまだ年若い女性教師が手を挙げた。

「特に問題になっているというわけではないのですが、近頃生徒の間で、怖い話、が少し流行り出しているみたいです」

 小学生にとって『怖い話』というのは魅力的らしく、一定周期で流行るものだ。

 ただ、テレビなどで特集が組まれる夏前ごろにちょっと流行り、夏休みが終われば大体別の流行りにとって変わられることが多い。

 そういう意味では少し時期外れといえよう。

「低学年でそれを真に受けて、ちょっと怖がっている子がいるみたいで」

 彼女は二年生の担任だったか。

 怖がっている生徒がいるというのは気にかけておいた方がよいだろう。

「おそらく、ゲームかテレビの影響でしょう。なんちゃらというお化けと戦うアニメが放映しているようですし」

「できるだけ気にしないように伝えて、極端に怯える生徒にはカウンセリングルームに少し通わせてみては?」

 幾つかの提案がなされ、そのうちの具体案に賛成し、とりあえずは経過を見て、流行が加熱するようなら朝礼で話をする、ということで落ち着いた。

 それ以上の議題は上がらず、本日の会議は終了となった。

 塞いだ気持ちは変わらず、体の怠さまで感じ始めた。

 先生方と挨拶を交わしながら、帰宅準備を進めていると五年生の担任たちの会話が聞くともなしに聞こえてきた。

「……じゃないかと思うと、注意するべきか悩んでしまって」

「でも危ない場所に行こうとしたり、校則を破っているわけではないんでしょう?」

「ええ、それにその趣味を公言することであっという間に友達ができて一緒に行動しているのを見ていると止めるのも…」

 そう言えば転校生が来たのは静川先生のクラスだったか。

 転校生が馴染めるかどうかは、ある意味、運だと言える。

 下手に孤立してしまうと、いじめなどに発展しやすく、また周囲に繋がりが少ないため相談先がなくて深刻化しやすい。

 一緒に行動ができる友人ができているなら安心だといえよう。


 ふっと、一人の少女が脳裏に浮かんだ。


 まだ若かった。教師になって三年。通常業務にようやった慣れたところにやってきた転校生。

 おとなし過ぎてクラスに溶け込めず浮いていた。

 なんとかしなければと若さゆえの情熱で張り切って、その結果、懐かれて。

 懐かれ過ぎて。


『せんせい』


 少し舌ったらずな声で呼ぶ声。

 モノトーンの制服に、赤い靴だけが鮮やかだった。


「…先生、笹崎先生!」

 名前を呼ばれてハッと顔を上げた。

「大丈夫ですか?顔色が、酷く悪いですよ?」

 肩に手を置き、顔を覗き込んでいた男性教諭の言葉に、なんでもないと首を横に振ってみせる。

「風邪でも引き掛けているのかもしれません。今日は早く帰って休みますよ」

「お家までお送りしましょうか?私は車ですし…」

「いえ、駅まで十分もかかりませんから。駅を出れば数分ですし」

 親切は遠慮して、荷物を手にした。

 もう大半の教職員は帰ったようだ。

 外はもう暗い。早く帰るに越したことはない。

「ではお先に」

「また明日」

 言葉を交わして裏門へと急いだ。

 裏門から行けば、駅への抜け道がある。

 なのに、いつも正門から帰っていたのは……。


『せんせい』


 先ほど思い出した声に呼ばれた気がして、体が硬直した。

 そうだ。

 裏門までの間にはプールがある。

 七坂小学校に再び赴任してから、ずっと無意識に避けていた場所。

 なのに、彼女のことを思い出した今日に限って、無防備にこちらに来てしまったのだろう。

 立ちすくんでいた私の耳に…いや鼓膜ではなく脳裏に直接、声が響いた。


『せんせい』


 見たくない。

 見たくないのに私の視線はプールへと向く。

 プール開きまで、まだ期間があるためにフェンスは固く閉じられている。

 なのにその向こう側に立っている、足が見えた。

 赤い靴を履いた、少女の足。


『あたし、まってたよ。せんせいがきてくれるの』


 これはきっと幻聴だ。

 ずっと誰にも言えずに心に抱いた罪悪感が見せている幻だ。


『まってて、よかった』


 クラスに馴染めなかった転校生の少女は、自分に構ってくれた担任教師に非常に懐いた。

 教師側もそれを嬉しく思っていたが、少女の瞳に徐々に行き過ぎた熱が宿ってきたことに気がついた。

 同時に他の生徒から『贔屓している』という言葉が出始め、適切な距離をとろうとした。

 それを捨てらそうになっている、と感じ、少女が焦ったことには気付けずに。


 いくつかの不幸が連鎖した。

 少女の両親が家庭に無関心で、少女の不在に朝まで気づかなかったこと。

 少女が手紙を託した教師の机の引き出しが、その日開かれなかったこと。

 少女が教師を呼び出し、学校の裏門で待っていた夜に、窓ガラスを割ってやろうと小学校に忍び込んだ素行不良の少年たちがいたこと。

 そして校舎に行く前に一人きりの少女を見つけた少年たちは、暴力を矛先を小学校校舎ではなく、小学生の少女に向けた。


 朝、少女は暴行を受けた無惨な姿で、プールに浮かんでいた。

 数日後、目撃証言や物証から少年たちは逮捕されたが未成年であったため実名報道はされていない。

 そして何故、少女が夜の学校に一人でいたのかは不明なままだった。

 事件から数日後、引き出しにあった手紙で真相を悟った教師が、不適切な関係を勘繰られ、責任を負わされることを怖れたために。


『せんせい』


 音ではない声が響く。

 少女の姿が動けない笹崎に近づいてくる。


『    』


 滴り落ちる水の音がした  気がした。

 意識が落ちる最後の瞬間、目に映ったのは少女の顔ではなく、お気に入りだと話していた赤い靴だった。



 裏門に続く道の途中で倒れていたところを、心配して追ってきた男性教師に発見された笹崎はそのまま入院し、鬱病の診断を下されて休職となった。

 予定されていた教頭就任は取り消され、そのまま退職することになるかもしれない。

 笹崎が見た少女が怪談であったのか、笹崎の罪悪感が生み出した幻覚だったのかは分からない。

 ただ、七坂小学校の怪談話に赤い靴を探す少女と、プールサイドに立つ赤い靴を履いた少女、のふたつがあると、ある男子生徒はSNSで語っていた。



16、プールサイドの赤い靴

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