Disease

ツジセイゴウ

第1話 Disease

「お疲れ様でした。本当にいつ見ても素晴らしいメスさばきだったわ。」

 そんな誉め言葉にも平然とした様子で手術着を脱ぎ捨てる一人の外科医の姿が鏡に映った。結城秀人、西都大学病院第一外科に勤務する外科医である。弱冠三十二歳にして、手術の腕だけではなくガン研究においても学会の第一人者の名を確立しつつあった。

 言葉をかけたのは折原恵理。秀人とは同じ第一外科で研修医として勤務中の身である。今日は補助者として秀人のオペに立ち会っていた。

「浸潤した組織は全て切除した。再発の可能性はまずないだろう。」

 恵理の言葉にニコリともせず、秀人は黙々と着替えを続ける。恵理は、そんな秀人の姿にプロとしての自信と冷徹さを感じていた。技術が全ての外科医の世界にあって、ひたすら自分の指先だけを信じて日夜メスを握り続けるこの男の頭の中は一体どうなっているのかと思わずにはいられなかった。

 今日の患者は、二十歳の若さで難治性の進行性胃がんに侵された女性で、かわいそうについ先日の成人式の晴れ舞台で吐血してそのまま入院となった。検査の結果、胃の三分の二を切除する緊急手術が行われた。手術中の赤ランプが消え、ストレッチャーに載せられた患者が手術室から運び出されてきた。母親であろうか、初老の女性が心配そうに駆け寄る。

「まだ麻酔が効いてますから。大丈夫です。手術は大成功でしたよ。」

 ストレッチャーを押しながら看護師が説明を続ける。母親は少しほっとしたような表情になって、付き従った。秀人ほどの外科医であれば、胃の切除術自体はほんの朝メシ前の作業である。手術もわずか二時間ほどで終了していた。全ては平穏裏にいつも通りにことは進んでいた。


 異変はその日の午後に起きた。医局のソファでゆったりとコーヒーカップを傾けていた秀人のもとに担当の看護師が血相を変えて駆け込んできた。

「先生、大変です。三○二号の患者の意識が戻りません。」

「えっ?」

 秀人は咄嗟に立ち上がると、足早に看護師の後を追った。恵理も慌ててそれに続く。二人が駆け込んだ病室の中は、一見していつもと変わらぬ平静な空気が流れていた。ピッピッという規則正しい心電図のモニター音が響き、患者は静かにベッドの上に横たわっている。しかし、頚動脈に手を当てて脈を確認する秀人の顔はみるみる蒼ざめて行った。秀人は慌てて白衣の胸ポケットからペンライトを取り出すと、患者の瞼を開いて瞳孔をチェックする。

「一体どういうことだ。瞳孔反応がない。」

 一瞬にして部屋の中の空気がピンと張り詰めた。ことの次第が今一つよく呑み込めない母親が傍らから心配そうに覗き込む。

「信じられない、手術は大成功だったわ。」

 恵理は呆然と立ち尽くしたまま呟いた。


 その日の夕刻、関係者全員が医局のブリーフィングルームに集められた。

「麻酔のミスだろう。笑気ガスと酸素の割合を間違えたか……」

「いや、そんなはずはない。二度もチェックした。」

 哲也は強い口調で反論した。藤井哲也、二十九歳。恵理の二年先輩で同じ病院の麻酔科に勤務、今回の手術の麻酔を担当していた。昨今病院での医療ミスが相次いでいたことから、西都大学病院でも事故防止のため全てダブルチェックする体制をとっていた。ミスが起こり得ようはずもなかった。原因がはっきりしないまま、ブリーフィングルームの中には重苦しい沈黙の時間が流れた。その沈黙を破ったのは秀人であった。

「とにかくオペルーム内の全責任は執刀医である私にある。患者の家族には私から説明しよう。」

 秀人はしっかりとした口調で全員に聞こえるように呟いた。自分のミスでもないのに責任をとって自ら患者の家族に説明をするという。そんな責任感溢れる秀人の姿に、恵理は冷徹な外科医とは別の人柄を見たような気がした。


「病院としましては事故のないように万全を期していますが、こういうことは一万人に一人くらいの割合で、ごく希に起こることがあります。麻酔の適正量や効き具合は患者さんによって大きく違ってくることがあります。残念ながらご息女さまの場合、麻酔が効きすぎたと言わざるをえません。」

 翌日、病院のカウンセリングルームで、秀人は患者の母親への説明を行った。説明を聞く母親の顔からみるみる血の気が引いてゆき、最後は消え入りそうな声で聞き返した。

「それで、娘は、娘は、これからどうなるのでしょうか。」

「手術は成功しました。しかし残念ながらご息女さまの意識が戻る可能性はないと申し上げざるをえません。いわゆる脳死の状態です。」

 そこまで聞いた時、母親は危うく椅子から崩れ落ちそうになったが、傍にいた恵理に腕を支えられてやっとのことで姿勢を戻した。

「ご息女さまは、今生命維持装置の力で生きておられます。この装置を外しますと五分以内に心停止に至ります。大変申し上げ難いのですが、ご息女さまはもう助からない、いえ正確にはもうおなくなりになられ……。」

 事の次第を理解したのか、全てを聞き終わる前に母親の号泣する声が廊下にまで漏れ聞こえた。そっと目頭を抑える恵理の傍らで、秀人は、咽び泣く母親の姿を微動だにせず見つめていた。どのくらいの時間が経ったであろうか、母親が落着くのを待っていたかのように秀人は説明を続ける。

「もし、ご不審な点がありましたら、病理解剖に回すことも可能ですが。」

「病理解剖?」

「ええ、専門の解剖医立ち会いの上で、ご息女さまの遺体を解剖して死因を詳しく調査する……。」

 秀人はごまかすことなく、あくまで誠意をもって患者の家族に接する。

「そ、それって、娘の体を切り刻むということじゃ……」

「ええ、まあそういうことになるかも……」

「止めて下さい。お願い、止めて。これ以上、娘を苦しめないで。お願いだから。」

 再びカウンセリングルームに母親の咽び泣く声が響いた。結局、母親は静かに娘の命を終わらせることに同意した。死因は全身麻酔による劇症アレルギーとされ、病院側の過失を問われることもなく一件は落着した。


 二日後、病院のカフェテリアで恵理は哲也と二人でコーヒーカップを傾けていた。自ら麻酔を担当した患者が死亡したことで哲也はひどく落ち込んでいた。哲也は決められたマニュアルに沿って三度もガスと酸素の割合をチェックしていた。手術中も特段異変はなかった。それがなぜこういう結果になったのか、哲也自身にも分からなかった。

「ちくしょー、何で俺の時に限ってあんなことが起きちゃったんだろう。」

 哲也はやけ気味にテーブルを叩く。

「先輩の所為じゃないわ。運が悪かったのよ。どんなに注意しても、医療の世界に全くのノーリスクなんて有り得ないわ。」

 恵理は同情するように話しかけた。

「いや運なんかじゃない。あいつの所為だ。あいつがこの病院に来てから変なことばかり起こる。」

「そんな言い方しないで。結城先生は立派な方よ。現に、あの事故についても先生は全部自分の責任だとおっしゃって、誠意をもって患者の家族の方にも説明されたわ。それで事無きを得たんじゃない。」

 恵理は、あの母親に説明を続ける間、自らが切り刻まれるような気持ちであった。そんな中、自分の責任でもないのに秀人は整斉と嫌な顔一つせずに説明を続けた。それに比べて今目の前にいるのは不甲斐ない先輩医者の姿であった。医学部の学生だった頃の哲也は輝いていた。患者の命を救うことに誰よりも強い使命感を剥き出しにする哲也は、いつも恵理の目標であり憧れでもあった。そんな哲也がどうしてこうも変わってしまったのか。

「やけにあいつの肩を持つじゃないか。そりゃそうだろう、相手は今をときめく天才外科医。それに比べてこの俺はしがない麻酔医さ。手術が終わって患者がきちんと麻酔から目覚めてくれるのをいつもヒヤヒヤしながら見守るだけだ。上手く行って当たり前、失敗すれば患者はあの世行きさ。手術が成功しても褒められるのはいつも執刀医だけ。ホント、損な役回りだ。」

 哲也はふてくされた様子で自嘲した。

「どうしてそうやけになるの。少しは結城先生を見習ったら。」

「うるさい。君に俺の気持ちが分かってたまるか。そんなにあいつのことがお気に入りだったら、あいつの女になるなり何なり好きにしろ。」

「み、見損なったわ。あなたのような人を長い間先輩なんて呼んできた私が間違ってた。もう私の前には来ないで。」

 恵理は、興奮のあまり立ち上がるや否や絶叫した。その瞬間、スチール製の椅子が激しい音を立てて床の上に倒れ、周囲にいた客たちの視線が一斉に二人の方に注がれた。恵理が立去った後も、哲也は両手で頭を抱えたままいつまでも肩を打ち震わせていた。


 西都大学記念ホール。

「これまで、ガンは生活習慣病と言われ、不摂生な生活が原因で起こるとされてきました。しかし、私どもの研究では、こうした外因性のファクターよりも、患者本来が持つ遺伝的なファクターの方が、ガンの罹患率に対する寄与度が大きいことが判明しました。」

 約三百人の聴衆を前に、秀人の講演が続く。この日、秀人は日本ガン学会が主催するシンポジウムにゲストスピーカーとして招聘されていた。ガンの遺伝的形質に着目した秀人の研究は既に学会より高い評価を得ていた。聴衆の中には恵理の姿もあった。

「この患者の場合、発病後わずか二ヶ月という短期間にガン細胞は胃の上皮組織にまで浸潤、その三週間後には全身に転移し、最後は多臓器不全により死亡しました。」

 スクリーンには秀人が切除したガン患者のものと思われるピンク色の肉片が映し出されていた。ところどころ赤黒く色が変化しているところがガンにより変異を起こした部位であろう。秀人がパソコンを操作すると、続いて紫色に染色された細胞の写真が現れる。そこには胃の上皮組織にある正常な細胞を猛烈なスピードで浸潤していくガン細胞の様子が映し出されていた。聴衆はその不気味な姿を息を殺して見つめている。

「この患者はまだ二十歳という若さで、飲酒、喫煙の経験はほとんどありませんでした。患者のDNAを調べましたが、十五番染色体のβ―六領域に異常が見つかりました。他の何人かの患者からも同様の異常が見つかっています。もはやこの種のガンが遺伝的形質によって引き起こされているという点に疑いの余地はありません。」

 スクリーンが変わって、今度はヒトのDNAらしい二重螺旋構造の図が現れた。欠陥の見つかった部位が矢印で示されている。何万何十万とある塩基対のほんの一部分に変異が起きても、人は致命的な病気になりうるのである。秀人は聴衆を意識するかのように、一段と声を大にして結論へと入っていく。

「こうした遺伝子の異常は胃ガンに限ったものではありません。肺ガン、大腸ガン、肝臓ガン、それにある種の脳腫瘍などでも同様の異常は発見されています。こうした難治性の進行ガンの場合、従来型の検査や治療法は全く役に立たないと思われます。細胞レベル、遺伝子レベルでの治療法の確立が必要と考えます。ご静聴ありがとうございました。」

 大きな拍手とともに軽く一礼した秀人はゆっくりと階段を下りる。同時に、司会者の合図で会場はコーヒーブレイクへと移った。

「いやー、結城先生素晴らしい講演でしたよ。栗山さんも結構ですなー、このような優秀なお弟子さんをお持ちで。」

 秀人の傍らには栗山第一外科部長の嬉しそうな姿があった。学会の蒼々たる権威に取り囲まれ、部長は得意満面の様子であった。

「失礼します。午後一番にオペの予定がありますので。」

 そんな賞賛の声を尻目に、自分の出番が終わった秀人は挨拶もそこそこに、そそくさとその場を後にした。

「すみません。少し変わったやつでして。おい、君、待ち給え。」

 部長は慌てて秀人の後を追いかける。恵理も急ぎ足でその後に続いた。


二週間後。

「一体どういうことだ。バンコマイシンが全く効かない。」

 担当の医師は途方に暮れたように首を傾げた。

「院内感染が疑われる。新型のMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)かもしれない。とにかくすぐに血液検査を。」

「信じられない。患者は術後すぐに無菌室に移送した。」

 透明のビニールシートですっぽり覆われた無菌室の中には、酸素吸入器を装着した患者が高熱にうなされて痙攣を起こしていた。二十五歳の若さで肺ガンを患い、つい二日前片肺切除の手術を受けたばかりであった。ガン組織が広範に浸潤していたこともあり八時間に及ぶ大手術であったが、秀人の華麗なメスさばきで手術自体は成功裏に終了していた。術後の経過も順調で早ければ一両日中にも無菌室を出られるはずであった。

 事態が急変したのは術後二日目の夜であった。患者は突然の高熱を発し、急速に重篤な状態に陥った。すぐさまいろいろな抗生物質が投与されたが、いずれも効き目がなかった。MRSA、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌、いろいろな抗生物質を使い過ぎた結果、あらゆる抗生物質に対して耐性を持ってしまった無敵の細菌である。普通の健康な人であればさほど問題になることはないのだが、お年寄りや子供、それに大きな手術を受けて体力の弱っているような患者にとっては、致死率の高い細菌である。結局、その日の夜、手当ての甲斐もなく患者は帰らぬ人となった。

「手術は完璧だった。でも細菌感染ばかりは如何ともし難い。残念だ。」

 秀人はまたしても自分の執刀した患者が死亡したことで悔しそうに呟いた。それにしても不可解である。ここ半年ばかりの間に秀人が執刀した患者が相次いで四人も死亡していた。いずれも手術は大成功であったにも関らず、一人は麻酔ミス、二人は院内感染、あと一人は投薬ミスで死亡していた。いずれも執刀医である秀人が患者の家族に説明し、医療事故には至らず処理されていた。それでも心無い向きが奇妙な噂を流すものである。

「おかしいわ、結城先生の患者ばかり。きっと誰か結城先生に恨みを持つ者の仕業よ。」

「そう言えば、第二外科の水野先生、ケンブリッジ大学の派遣研究員を狙ってるって噂よ。ほとんど当確と言われていたのに、突然結城先生がここに来たばっかりに……。」

「看護婦の関谷さんも怪しいわ。つい最近まで結城先生と付き合っていたらしいのよ。それが一方的にふられたとか……。」

 いずれも根も葉もない話ではあったが、茶飲み話にするには恰好の話題である。恵理はそうした馬鹿げた話の輪には加わることはなかったが、それでも偶然にしては患者の死亡事故が続き過ぎているような気がして、一抹の不安を拭い切れないでいた。


一週間後、医局の大会議室。

「この二センチメートル四方の小さな基盤の上には約五千個のタンパク質が埋め込まれておりまして、被験者の遺伝子に異常があれば、発光することによってその部位を知らせる仕組みになっています。」

 製薬会社のMRの声が響く。今日は、DNAチップを使った最新の遺伝病診断の説明会が開かれていた。DNAチップによる病気診断はアメリカでは既に一般的になりつつあったが、我が国ではようやく臨床試験の端緒についたばかりであった。今回の試験がうまくいけば、厚生労働省が国民健康保険の対象として認可する見込みとあって、説明会を開催する製薬会社の方にも力が入っていた。

 スクリーンには、碁盤の目のように並んだ丸い緑色の光のドットが映し出されていた。このドットの一つ一つに型の異なるタンパク質が埋め込まれており、仮にこの基盤の上に置かれた試料のタンパク質の型が合わなければ、緑色が橙色や赤色に変化して異常を知らせる。いわば鍵と鍵穴合わせの要領である。鍵が鍵穴に入らなければ、すなわちそれは欠陥があることを示していることになる。被験者はこのDNAチップによる遺伝子診断を受けることによって、あらかじめ自分の遺伝子の欠陥を知ることが出来るため、このチップは遺伝病の予防に大いに役立つと期待されていた。

 説明者はさらに興味深い話を続ける。

「実は、今日ここにお集まりの皆様の中からボランティアの方百名のご協力を得まして、このDNAチップによる遺伝子診断を実施させて頂きました。その結果、約三割の方に何らかのガン遺伝子が発見されました。」

 その一言で、会場には一瞬どよめきが起きた。三割といえば三人に一人である。もはや他人事ではない。そんなに多くの人がガン遺伝子を保有していると聞いて、聴衆は一様に驚きの表情を露わにした。

「でもご安心ください。これはあくまでガンの素因があるというだけで、それだけですぐにガンに罹るわけではありません。人よりガンに罹りやすいというだけのことですから、定期的に健康診断を受けて、不摂生な生活をしないよう心掛ければ、大半の人は天寿を全うされるでしょう。実際、今回の検査でガン遺伝子の見つかった方々の中から、念のため希望される方に精密検査を受けて頂きましたところ、通常の健康診断では発見できないような微細なガンが見つかりました。幸いまだ初期の初期という段階でしたので、放射線治療によりわずか一週間でガン細胞は跡形もなく消滅しました。もちろん入院もされていませんし、通常通り仕事もされておられます。」

 会場からは、ほーっという安堵の吐息が漏れた。と同時に、医学の進歩に感心する声があちこちから聞こえた。しかし、そんな和やかな雰囲気は、MRの次の一言で一変した。

「しかし、困ったことが一つ起きました。被験者の中でただ一人、難治性の多発性進行ガンの素因が見つかった方がいらっしゃいます。」

 会場は急にざわざわとざわつき始めた。その遺伝子の持ち主は一体この中の誰なのか。人々は互いに顔を見合わせて絶句した。

「もちろん、ガンの素因があったからといってすぐに発病するわけではありません。でも、三十代後半までにはかなりの確率で発病すると思われます。万一発病すれば後はどうなるかは、私なんかよりもここにおられます皆様方の方かよくご存知だと思いますが。」

 聴衆のほとんどは医師か医師の卵である。その先は言わずとも知れていた。どんなに医学が進歩した時代になっても、どうしても治せない病気もある。そんな病気の遺伝子を親から受け継いで生まれてしまった子供は、もはや自らの不運を嘆くより他ないのである。

「私たちは今、この遺伝子の持ち主に告知したものかどうか、大変迷っています。告知することは、ある意味で死刑宣告をするようなものですから、その方の人生に計り知れない影響を及ぼすことになります。」

 MRは急に険しい表情になった。便利な道具ほど時として両刃の剣となる。DNAチップは患者の遺伝子診断に多大の威力を発揮する反面、使いようによっては冷酷な死の刃ともなるのである。恵理はチップがもたらす医療の未来像を思い描いて内心複雑な気持ちになった。それは果たして人類に恵みをもたらすものか、それとも不幸をもたらすものか。恵理がそんなことを考えている間にも、会場には大きな拍手が沸き起こり説明会は終了した。ゾロゾロと席を立ち始めた聴衆を見つめていた恵理は、ふとその場に一番いるべきはずの人の姿がないことに気付いた。


「先生、五○一急変です。」

 ナースステーションに高らかにコールが鳴り響き、パタパタと看護婦が慌ただしく廊下を駆け下って行く。

「呼吸停止、血圧低下。」

「酸素吸入用意、それと心臓マッサージもだ。」

 医師や看護婦が慌ただしく病室に出入りする。まさに急変であった。しかも患者はまたしても秀人の担当であった。一週間前、難治性の進行肝ガンの手術を受けた二十六歳の青年であった。術後の経過は順調で、今日にも一般病棟に移ろうかという矢先であった。容態が急変したのはその日の午後であった。いつものように午後一番の点滴を受けた直後に突然苦しみ始めたのである。結局、原因がよく分からないまま、その日の夕刻患者は死亡した。死因は薬物アレルギーによるショック死ということにされた。ごく希ではあったが、この世には普通の薬に異常に過剰反応してしまう特異体質の人がいる。普通の人ならどうということのない注射一本が命取りになることもあるのである。かわいそうにこの患者も何万人に一人かの不幸な体質の持ち主だったのであろうか。しかし……。


 翌日、病院のカフェテリア。

「恵理、この前は悪かった。ゴメン。ちょっと頭に血が上ったもので。」

 その声に恵理がふと顔を上げると、テーブルの向かいに哲也がきまり悪そうな素振りで座っていた。恵理は内心まだ大いに怒っていた。あんなひどい事を言われて、そう簡単に傷ついた心が癒えるものではない。恵理は、哲也を無視するかのようにわざとらしくプイと横を向いた。しかし、次の哲也の一言に恵理は跳び上がらんばかりに驚いた。

「ほ、本当?」

 恵理は周囲に聞こえ渡るような大声を上げた。哲也は慌てて声を落とす。

「ああ、あの患者の死亡直前のカルテの記録を見返してみたんだが、どうもおかしい。アレルギー反応にしては症状の変化が激し過ぎる。ナースコールで病室に駆けつけたときは既に瞳孔散大の状態だった。これじゃ、どんな名医でもお手上げだ。本当に『あっ』という間だった。アレルギーとは到底思えない。」

「じゃあ、一体何なの。」

「あくまで仮説だけど、筋弛緩剤の可能性がある。」

「筋弛緩剤?」

 恵理はまたもや大声を出しそうになって、慌てて口を抑えた。

「そう、筋弛緩剤は手術のときに患者の筋肉が硬直するのを防ぐために用いられる。でも同時に気管支の筋肉も弛緩させてしまうため、使用するときは適切な呼吸確保をする必要がある。もしそれをしなければ、患者は呼吸困難になる。あの患者はまだ意識がある時に、『息が出来ない』って訴えていたらしい。」

「も、もし筋弛緩剤としたら、どうしてそんなものが点滴に……。まっ、まさか。」

 恵理の顔色が変わった。哲也はさらに声を押し殺して続ける。

「そう、そのまさかだよ。」

「でも、一体誰が、それに何の目的で?」

「それは分からない。とにかく薬剤部に当ってみないと。筋弛緩剤は劇薬に指定されているから持ち出しのためには薬剤部の許可が要る。調べれば誰が使ったかすぐわかるはずだ。」

 しかし、恵理は心配そうに続ける。

「警察に届けた方がいいんじゃないの。不審死ということで。」

「だめだ。死体はもう火葬に付された。それに点滴の輸液も処分されてしまっている。証拠になるようなものは、もう何も残ってない。今からじゃ調べようがない。」

 恵理は力なく肩を落とした。結城秀人を陥れようとしている人間がいるというのはどうやら真実味を帯びて来た。これまでは事故なのか故意なのかよくわからないまま秀人の患者が相次いで亡くなっていた。偶然と言われれば偶然のようにも思えた。しかし、今度ばかりは偶然や事故では済まされそうにない。もし筋弛緩剤が使われたのが事実であれば、事は犯罪性を帯びてくる。


「これがそうですが。何かご不審な点でも。」

 薬剤部の受付で、恵理と哲也は『劇薬物出庫管理簿』という表紙の帳簿を受取った。仙台の某診療所で起きた連続殺人事件以来、劇薬物が無断に持ち出されることのないよう管理が強化されていた。筋弛緩剤を持ち出すためには、必ずこの出庫管理簿に記入し薬剤部長の承認印をもらう必要がある。二人は慎重に帳簿の閲覧を始めた。薬剤を使用した日付に始まって、使用した薬品名、使用者名、使用目的と使用量が順次記され、各行の一番右端には薬剤部長の朱印が押印されていた。少なくとも部外者が不正に薬品を持ち出す余地はないように見えた。

 哲也は筋弛緩剤の使用記録を一件一件たどり始めた。使用者は全部で六名、いずれも外科の医師であった。その中に結城秀人の名もあった。使用件数は全部で二百五十二件、全て全身麻酔を伴う手術に使われていた。一方、恵理はというとパソコンを立ち上げて、院内LANにアクセスすると、データベースから手術の記録を呼び出した。持ち出された筋弛緩剤が全て間違いなく手術に使用されたどうかを照合するのである。恵理は、慎重に筋弛緩剤の出庫日時と手術の日付を合わせていく。

「全て合っているわ。筋弛緩剤の出庫記録と手術の記録は全て合ってる。」

「本当に大丈夫、もれはない?」

「ええ。間違いないわ。」

 哲也は自分の予想が外れたことで、少しがっかりした表情をして見せた。改めて自分の目でもチェックするが、出庫記録と手術記録は全件合っていた。不正に使われたような形跡は見当たらない。

「やっぱりだめか。俺の思い過ごしだったのかな。」

 哲也は放心状態で帳簿を見つめていた。五分、十分、空しい時間が過ぎていく。やがて、断念したかのように哲也が立ち上がろうとしたその時……。

「ちょっと、待って。」

 恵理は、一言そう言うと、改めて手術記録を一件ずつ開いて何かを記録し始めた。一つ開いては数字を書き写し、また開いては書く。黙々とそんな作業が続く。その様子を脇から見ていた哲也は、やがて恵理の意図するところに気付いた。

「そうか、そういうことか。」

 恵理が書き写していたものは手術を受けた患者の体重であった。筋弛緩剤のような劇薬は少しでも使用量を間違えると患者の命取りとなる惧れがある。適正量を計算するために通常は体重が使われていた。体重一キログラムに対し薬品五ミリグラムの見当である。約二時間の作業の後、患者の体重と筋弛緩剤の使用量の対比表が出来上がった。恵理はエクセルを使って素早くデータを処理する。

「ま、まさかとは思ったけれど。」

 計算結果は、恵理の推測通りであった。何人かの患者については、必要量を一○〜一五パーセント程度上回る薬が処方されていた。この程度の調整であれば、執刀医の判断で日常的に行われる。手術の部位や患者の年齢などによっては、時としてそうした調整が必要となるのである。しかし、恵理が気に留めたのは、執刀医の名であった。結城秀人の患者は傾向的に適正量を上回っていたのである。この一年間に秀人が執刀した手術は全部で四十一件、そのいずれもが微妙に適正量を上回っていた。

「偶然かしら。でも仮に、仮によ、結城先生が手術の度に少しずつ余分な筋弛緩剤を溜め込んでいたとしたら。」

 恵理は未だにこの結果が信じられないという表情で、パソコンの画面を見詰めていた。

「でも一体何のために。自分がわざわざ難しい手術をして命を救った患者をどうして改めて殺す必要があるんだ。おかしいじゃないか。」

「それも、そうね。」

 二人は管理簿を睨んだまま、腕組みをして考え込んでしまった。自分が担当した患者を自らの手で死に追いやる。しかも、難手術を終えたばかりの患者である。一体どういう意味があるというのか。動機が不明であった。

「とにかくもう少し結城先生のことについて調べた方がいいかもしれないわ。もしこれが事実なら、後三人分程の筋弛緩剤が残っているはずよ。」

 恵理の頭に不安が過ぎった。放っておくと新たな医療事件が起きるかもしれなかった。

「よし、わかった。俺は人事課の方で結城先生の履歴を当ってみる。悪いけど、恵理はこの管理簿を薬剤部の方に返却しておいてくれないかな。それと、このことはまだ俺たち二人限りのことにしておこう。」

 哲也はそう言い残すと人事課の方へと廊下を下っていった。恵理は小脇に管理簿を抱えて薬剤部へと戻った。そして受付で管理簿を返却しようとしたその時。

「折原先生。」

 その声に恵理が振り返ると、そこには秀人の姿があった。恵理は一瞬何と言っていいか言葉に詰まって、その場にたじろいだ。

「どうかしましたか。お顔の色がよくありませんが。」

 流石に一流医師である。恵理の顔の表情からわずかの心の揺らぎを読み取ったようであった。

「いいえ、少し調べ物をしていたもので。」

 恵理は小声で呟いた。しかし、その時秀人の鋭い視線は恵理が手にしていた劇薬物出庫管理簿に注がれていた。恵理は慌てて管理簿を薬剤部に返すと、軽く一礼してその場を後にした。秀人は、何かを考えるかのように、じっとその後姿を見つめていた。


 その日の夕刻。

「恵理、わかったよ。」

 廊下の向こうから声がしたかと思うと、哲也が息を弾ませて近付いて来た。

「結城先生の履歴だけれど、インターン研修を終えてからここに来るまでの間に、約一年間全く白紙の期間があった。いろいろ聞いてみたけれど、どうやら京都にいたらしい。」

「京都?」

「ああ、彼の親父さん、京大の理学部の教授だったらしいんだが、丁度その頃に亡くなられたとか。身寄りもなかったそうで、結城先生がずっと死に際まで世話をしていたんじゃないかって。」

 哲也の情報はそこまでであった。恵理はこの空白の一年間のことが気になった。一体京都で秀人の身に何があったのか。

「一度京都に行くしかなさそうね。」

 恵理は静かに呟いた。


 その週末。京都大学キャンバス。晩秋の京都は既に寒々とした空が広がり、時折比叡の山から冷たい木枯らしが吹き下りてきた。そんな中、黄色に散り敷いた銀杏の枯れ葉がキャンパスに一時の彩りを添えていた。二人は暖かく暖房された理学部の校舎の一室で一人の助教授に面会していた。

「そうですか、結城先生にそんなお子さんがいらしたなんて存じませんでした。」

 白衣姿のその男は後ろ手に手を組んで、じっと窓の外の陰鬱な空を見上げながら呟いた。

「結城先生は世界的に有名な遺伝学者でした。とても潔癖かつ冷徹な性格の方で、理に合わないことは極端に忌避される人でした。先生はご存命中もいつも口癖のように『医学の限界』ということについて話をされていました。」

「医学の限界、ですか?」

 恵理は思わず聞き返した。

「ゴメンナサイ、医者のあなた方を前にしてこんなことを申し上げていいのかどうか。」

 結城先生の教え子と名乗るその助教授は、少し戸惑ったような仕草をしたが、すぐに話を続けた。

「結城先生は病気の大半は遺伝的形質によってもたらされると確信しておられました。つまりあらゆる病気は遺伝子の欠陥によって生じる。人は生まれながらにして、親からその遺伝子を受け継ぎます。好むと好まざるとに関らず、遺伝子は確実に親から子、子から孫へと受け継がれてゆくのです。万が一重い病気の遺伝子を受け継いでしまった子供は、もう自分の不運を嘆くしかないのです。先生は恐らく自分の遺伝子を調べて、全てをご存知だったのでしょう。ご自分の寿命のこともね。」

「寿命?」

「そうです。先生は難治性の多発性進行ガンでお亡くなりになったのです。」

 恵理と哲也はそれを聞いて、ああこの人もかと思った。あの恐ろしい病気の遺伝子がその結城先生とやらの体に宿っていた。ということは当然秀人の体にも。二人がことの重大性を咀嚼する前に、助教授の口から世にも奇妙な話を耳にした。

「発病して半年でした。最後は何度も何度も吐血されて、それはもう壮絶な最期でした。先生は病気を治療することは種の断絶に繋がるとおっしゃって、一切の治療を拒否されたのです。」

「種の断絶ですって。」

「そう、種の断絶です。医師のあなた方の目には随分と奇異に映るかもしれませんが、私たち遺伝学者から見れば種の保存というのは自然の絶対法則なのです。あらゆる生き物は、欠陥を持つものを排除することで、種を断絶のリスクから守ってきました。医学はそうした自然淘汰の摂理に手を加えるもの、医学は本来生き長らえてはいけないものに生を与える術だと、先生は主張された。仮に欠陥遺伝子を持つ人間が生き長らえて子を成せば、その遺伝子はその子に受け継がれます。欠陥遺伝子が修復されない限り、子孫を残すたびに欠陥は種の中に伝播し続けます。やがて欠陥遺伝子は取り返しのつかない程に種の中に拡散し、最悪の場合は種の断絶に繋がりかねないのです。医学はまさに亡国の学問なのだと、先生は考えておられたようなのです。」

 恵理はもう頭の中が混乱して発狂しそうになった。自分がこれまで長年かけて勉強してきたことが亡国の学問?。人のため、世のためになるはずの医学がそんな言われ方をしたのは生まれて初めてであった。しかし、改めて言われてみれば、そうと言えなくもないかもしれない。残念ながら、今の医学はほとんどの病気の前に無力である。治療しているようにみえても、それは単に症状を緩和しているか、あるいは病気の人の延命を手助けしているだけのものではなかったか。この遺伝学者が言うように、欠陥遺伝子を修復しない限り、根本治療は有り得ないのである。

「そうですか、結城先生のお子さんが医者になっておられたとは。何とも皮肉なものですな。」

 二人が黙っているのを確認した助教授は、寂しそうにポツリと呟いた。秀人は、非情なまでに自らの信念を貫き通した父親の臨終の場に立ち会ったのであろう。そしてそこから医学の限界を悟ったのかもしれない。しかし、それだけであのように残忍な殺人を繰り返すことが出来るものであろうか。病気に苦しむ患者の体をメスで切り刻んでおいて、その挙げ句の果てに死に至らしめる。秀人の行動はもはや常軌を逸していた。恐らく、まだ誰も知らない秘密があるのではないか。二人は、何やら割り切れぬものを心の中に抱えたまま、京都を後にした。


 西都大学医学部第一教室。

「このように、ガンは細胞の不死化によって起きることが明らかになっています。アポトーシスの能力を失した細胞は、栄養分が与えられる限り永遠に生き続けます。どんどん自らを複製して増殖していきます。」

 講堂にマイクを通した秀人の声が響き渡る。今日の秀人は、講師として医学部の教壇に立っていた。恵理はゆっくりと最後列の席に座ると、秀人の講義に耳を傾け始めた。壇上に立つ秀人は恵理が入ってきたのに気付いて、一瞬言葉を止めたが、すぐにまた講義を続ける。

「アポトーシスとは細胞の自殺を意味しています。生物の体を構成する細胞は、外部からの刺激や環境の変化により絶えず傷つく可能性に晒されています。万一傷ついた細胞が修復されないまま分裂を続ければ、その傷は次々と新しい細胞にも受け継がれていきます。やがて個体を維持できないほどに傷ついた細胞が増えると、その個体は死に至ることになります。そうした可能性を排除するために、アポトーシスという巧妙な仕組みがプログラムされているのです。傷ついた細胞は自らを死に追いやることで、その異常が他に拡散するのを防ぐように作られているのです。このアポトーシス機能に異常が生ずるとガンが発生することが、既に多くの医学者の研究で明らかにされています。変異を起こした細胞が自殺することなく増殖を続ける、それがすなわちガンなのです。」

 講堂の中は熱心にペンを走らせる学生で一杯であった。今や医学部の学生で秀人の名を知らない者はいなかった。秀人は一瞬間を置くと、やがて声を一段と大にして結論へと入っていく。

「ガンの根絶のためには、このアポトーシスの仕組みの解明が何としても必要と考えています。はい、今日の講義はここまで。」

 講義終了の合図とともにドヤドヤと学生たちが講堂を退出し始めた。五分も経たないうちに講堂の中は恵理と秀人の二人きりになった。秀人はゆっくりと壇上から下りると、恵理の傍に近付いた。

「折原先生、珍しいですね。あなたにとっては、こんな講義は基礎の基礎でしょう。どうしてまた改めて……。」

 恵理は秀人の質問には答えず、ゆっくりと席から立ち上がった。

「京都に行ったわ。立派なお父様でしたのね。お気の毒に。」

 秀人は恵理のその言葉に一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに平静を取り戻して答えた。

「もう五年も前のことですよ。親父は医者になった僕を怨んでいました。まだ手術をすれば間に合うと奨めたのですが、それを拒んで結局自ら死を選んだのです。馬鹿げてますよ。でも、一体どうしてあなたがそんな話を。」

 恵理は突然なぜと聞かれて一瞬たじろいだ。

「せ、先生のことがもっと知りたかった。ただそれだけです。」

「そうですか。でも先生、あまり人のプライバシーに踏み込むのは如何……。」

 秀人がそう言って恵理を牽制しようとしたその時、院内放送が流れた。

「結城先生、結城先生。すぐに六○三号までお願いします。」

 秀人は話を中断して廊下を駆け出した。恵理もその後に続く。長い廊下を駆け下って二人が六○三号に入った時、病室の中は騒然となっていた。

「呼吸停止、血圧低下。」

「カンフル静注、急げ。」

 医師の指示が飛ぶ。恵理は呆然とその場に立ち尽くした。その患者は秀人がつい二日前に胃ガンの摘出手術をしたばかりであった。恵理は傍らに秀人がいることも忘れて、咄嗟に看護婦の間に割って入った。


「気道確保、筋弛緩剤の疑いがあるわ。」

「筋弛緩剤だって。」

 心臓マッサージを始めていた医師は、恵理の言葉にぎょっとしたように叫んだ。しかし、その医師は詳細を聞き返す間もなく即座に反応した。

「よし、すぐに気管支切開だ。麻酔の用意。」

 医師は心臓マッサージを看護婦の一人に交代すると、すぐさま患者の喉元にメスを差し込む。恵理も必死になってサポートを続ける。懸命の治療が三十分ほど続いた後、ようやく患者の心音が安定してきた。

「ふうー、もう大丈夫のようだ。」

 治療に当たっていた医師はほっと安堵の嘆息をもらした。恵理も思わず緊張が緩んでいくのを感じた。しかし、恵理がようやく我に返った時、もうそこには秀人の姿はなかった。


 その日の夕刻、医局。

「やっぱり推測した通りよ。六○三号の患者の血液から微量の筋弛緩剤の反応が出たわ。」

 恵理は血液検査の結果を見ながら呟いた。哲也も心配そうに結果表を覗き込む。

「先程部長には報告した。明日正式に警察に届け出るとのことだ。」

「やはり結城先生かしら。でもどうして、信じられない。」

 恵理は途方に暮れるように呟いた。

「その答えは警察に任せよう。これ以上俺たちが深入りするのは危ない。恵理も今日は家に帰るんだ。俺は今日は当直だから……。」

 哲也の言う通りであった。患者の血液から筋弛緩剤反応が出たことで、疑いの余地はなくなった。ここから先はもう警察のマターである。恵理は割り切れない気持ちを抑えながらも、素直に哲也の言うことに従った。

 その夜、いつもより早目に仕事を終えた恵理は更衣室で着替えを済ませると、通用口へと急いだ。昼間は外来患者でごった返している廊下も、人気が失せると不気味なほど静まり返り、コツコツというハイヒールの音だけが薄暗がりにこだまする。ところどころ点いた常夜灯の光が廊下面に反射し、遠くに非常口のサインが青く輝いていた。恵理がいつもの角を曲がってエレベーターに乗り込もうとしたその時、突然暗がりからぐいっと腕を引き込まれた。あっと声を出す間もなく口を塞がれたかと思うと、そのまま意識が薄れて行った。


「やっと気がつきましたか。少し薬が効き過ぎましたか。」

 その声で恵理が目を覚ますと、目の前には見慣れた風景が広がった。大きな照明灯、タイル貼りの天井、青いシートをかけられた医療機器……、そこは恵理がいつも立ち働いている手術室であった。ただいつもと違うのは、自分自身がオペテーブルの上に横たわり、しかも全身が革のベルトでしっかりと縛られていることであった。縛られていることに気付いた恵理は全身に鳥肌が立っていくのを覚えた。やっとのことで声のする方に首を傾けた恵理が見つけたものは、傍らに立つ秀人の姿であった。

「結城先生、やっぱりあなただったの。」

 恵理は必死になって叫ぶ。

「折原先生、他人のプライバシーに入り込むのは如何と申し上げたはずですよ。あなたは少し多くを知り過ぎた。」

 秀人はいつもにも増して冷徹な、単調なトーンで言葉を返してくる。

「ど、どうしてこんなことをするの。一体何が目的なの?」

「先生、先生は生命というものがどうして存在するのかということを考えたことがありますか。この世界になぜ『命』あるものが存在する必要があるのか。」

 秀人は一言そう言うと、しばらく黙って何かを考えるように腕組みをした。やがてゆっくりと腕組みを解くと、話を続ける。

「この世には意味のないものなんて存在しない。全ての存在には意味がある。あなたも、私自身も、いや私たちだけじゃない、全ての命あるものは意味があるからこそ存在している。」

 恵理はいきなり難しい禅問答を仕掛けられ、何と答えてよいのか解らなかった。一体秀人は何を言おうとしているのであろうか。

「この世に存在するものは全て原子から出来ている。私たちの体も元を辿れば、水素や酸素や炭素といった原子の集まりでしかない。ところがこの原子という存在は、そのままでは極めて不安定だ。物理学の世界ではこの『不安定』性を極端に嫌う。水が高きから低きに流れるように、全ての存在は安定を求めて絶えず変化していく。水素や酸素といった無機物はそのままでは極めて不安定だ。だから、他の原子とくっついて姿を変えたり、あるいはより重い原子へと崩壊していく。ところが今から数十億年前、この無機物を極めて安定的なものに変える物質が現れた。それが有機化合物だ。」

「有機化合物?」

 恵理は縛られていることも忘れて秀人の一人講義に聞き入っていた。今この男がしゃべっていることと、この男がこれまでに為してきた行為とどう結びつくというのか。恵理の恐怖は不思議な好奇心へと変わりつつあった。

「そう、有機化合物、別名高分子化合物、生命の基礎を成す物質だ。有機化合物は何百何千という原子が強固に結びついて出来る極めて安定的な物質だ。その中に組み込まれた水素原子や酸素原子は崩壊することなく安定的に存在し続ける。生命はまさにこの有機化合物の塊だ。生命とはこの世に存在する不安定な物質を安定な物質に変える、いわば『安定化装置』として生まれたんだ。最初はバクテリアのようなごく小さい生き物だった。それが三十数億年の歳月をかけて進化し、今日の私たちの体を作り上げた。人の体は約六十兆個もの細胞から出来ている。それぞれの細胞は日夜活動を続け、人が生き続ける限り有機化合物を合成し続ける。人の体はまさに巨大な『安定化装置』なんだ。」

 秀人は天井を仰ぎ見るようにして、ゆっくりとオペテーブルの周囲を回りながら話を続ける。「しかし、そんな精巧に出来た人の体も絶えず外部からの環境変化に晒されている。紫外線、化学物質、病原菌等々、数えればきりがない。生物を形作る細胞はそうした様々な外敵と戦うことで絶えず傷つき壊されてきた。その傷の記録は全て遺伝子に刻み込まれている。そして一旦傷ついた遺伝子は癒えることなく子孫へと受け継がれてゆく。それが病気なんだ。病気のことを英語ではDiseaseと言う。Dis・ease、文字どおり不・安定という意味だ。つまり安定化装置としての機能が失われた状態、それを私たちは病気と呼んでいるんだ。」

 恵理は京都で聞いた話を思い出していた。欠陥遺伝子が修復されることなく親から子へ、子から孫へと受け継がれていく。そして病気となって生命を脅かす。それはまさに太古の世界から脈々と受け継がれてきた宿命なのである。しかし、その後恵理は世にも恐ろしい言葉を耳にした。

「しかし、生命はこの安定化装置としての機能を守るために、驚くべきプログラムを用意していた。それが『死』というものだ。生命は傷ついた体を自ら抹殺することで種全体が滅びるのを防ぐことを思いついた。何という美しく巧妙な神のプログラムだろうか。もし死というものがなかったら、欠陥遺伝子は限りなく人類の間に伝播し、人という生き物は遠くの昔に滅んでいただろう。『死』はまさにあるべくして存在してきたんだ。ところが、どうだろう。人は自らの身勝手によってこの美しきプログラムに手を加えることを覚えた。それが医学だ。人は様々な手段を使って、生と死をコントロールしようとし始めた。こんなことは生物史上初めての出来事だった。」

 恵理は生まれて初めて『死』という事象の意味を知ったような気がした。この世に意味のないものなど存在しない。『生』に意味があるのなら、『死』にも意味がある。人は生を尊び大切にするが、死は常に忌み嫌われる。しかし、死があるからこそ、生が営まれる。生と死は等しく尊ばれなければならないのかもしれない。

「医学は、極端に死を嫌う。そう、患者の命を長らえさせるためには何でもする。ガン患者の体を切り刻んではガン細胞を取り出す。それでガン患者は助かるかもしれないが、単なる一時凌ぎに過ぎない。ガン患者を支配している遺伝子が子孫に伝播する可能性があることを忘れている。薬もそうだ。薬を処方すれば患者の苦痛を柔らげることが出来るかもしれない。しかし、薬が乱用されると必ず遺伝子に新たな傷がつく。それが副作用だ。一旦傷ついた遺伝子は修復されずに子孫に受け継がれるリスクを負っている。医学は、医学は、美しき『安定化装置』を破壊し続ける悪魔の術だ。」

 恵理は秀人の言葉を聞いて気を失ないそうになった。医者の口からは絶対に聞くまじき言葉を聞いてしまったのである。一度は医学を志し、そして外科医として一流の腕を持つまでに至った。あの京都での一年間の出来事がここまでこの人の心を変えてしまったのか。死の床にあった偉大な遺伝学者から日夜生命の神秘につき話を聞かされ、自らが学んできたことを否定され続けたのである。

 しかし、恵理にはまだ一つ腑に落ちないことがあった。秀人は、なぜどの道助からない患者にあのような手術を施したのか。そして最後には結局を命を奪った。放っておいてもそう長くはなかったであろう患者に対し、なぜあのように回りくどいことをしたのか。

「じゃあ、どうしてあんな手術をしたの。患者を苦しめておいて、そして、そして最後は患者の命を無益に奪った。」

 恵理は縛られたままの体で身をよじりながら詰問した。

「そ、それは、美しき安定化装置を得るためだ。」

 そこで秀人は一呼吸置いた。その後、恵理は筆舌に尽くせない奇妙な狂者の話を耳にした。

「患者の体などどうでもよかった。私が欲しかったのはガン組織の方だった。私は、患者から摘出したガン細胞を研究所の中で培養した。いや正確には今も培養し続けている。ガン細胞は本当に強い。患者の体の外に取り出しても、栄養分を与える限り生きて増え続ける。私はそんなガン細胞に惹かれた。ガン細胞は人の体の中にあってはその宿主たる人を死に至らしめる悪者だ。しかし、それ自体はこれ以上ないほど生命力旺盛な不死身の生き物だ。私はその中に美しいまでに貪欲な生命の営みを見た。まさに究極の安定化装置だ。」


 茫然自失。この男の精神は病んでいる。今ここにいるのは天才外科医などではなかった。研究所の中で一人密かにガン細胞を飼い続ける狂気の医学者であった。恵理は恐怖の余り、縛られたまま悶絶した。その時、恵理は微かに右腕のブラウスのボタンを弄る気配を感じた。やがて、その気配は本物となり、ブラウスの袖口がゆっくりと上がり始めた。

「な、何をするの。」

 恵理がかろうじて首を捻って目にしたものは、秀人の右手の中に握られた一本の注射器であった。秀人は徐に注射器の針をアンプルに差し込む。恵理はそのアンプルのラベルを見て呼吸が止まった。三人分まだ残っているかもしれない、そのうちの一人分が今注射器のシリンダの中に吸い込まれて行く。

「助けて、お願い。私が何をしたっていうの。」

 恵理は必死になってもがくが、柔らかい革のバンドはますます固く締まり、ついには身じろぎ一つ出来なくなってしまった。

「恨むなら僕の親父を恨んでくれ。親父がいなかったら、そしてあの一年間がなかったら僕は平凡な外科医として平和な一生を送っていただろう。全ては親父のせいだ。親父が医学なんて亡国の学問だなどと言い出しさえしなければ……。」

 秀人は注射器を構えると、ゆっくりと恵理の傍らに立った。

「違うわ。あなたは間違ってる。あなたのお父様は死ぬ間際まで、もっと生きたい、死ぬのが怖いとおっしゃっていたそうよ。」

 一方の恵理は自分でも不思議なくらい落着いてその瞬間を迎えた。人は目前にある死に対峙すると返って気持ちが安定するらしい。恵理は京都で聞いた話を思い出しながら、諭すように秀人に告げた。その瞬間、秀人の手が逡巡するようにハタと止まった。

「ウ、ウソだ。親父がそんなこと言うはずがない。親父は最後まで治療を拒み続け、そして僕の腕の中で息を引き取ったんだ。医者の僕にさえ指一本触れさせなかった。」

「ウソなんかじゃないわ。お父様の教え子とおっしゃる先生に直にお聞きしたのよ。間違いない。お父様はあなたの前では強がっておられただけ。誰だって死ぬのは怖いわ。そんな弱い姿をあなたに見られるのが嫌だった。それだけなのよ。それを理解してあげられなかったあなたは、あなたは、最低の医者、いいえ医者なんかじゃないわ。ただの殺人鬼よ。」

 それを聞いた秀人は一瞬にして錯乱状態に陥った。全身をワナワナと震わせ、何か訳の解らないことを叫ぶと、注射器を握った手を大きく振り上げた。恵理は観念して目を閉じる。筋弛緩剤で死ぬのは苦しいのだろうか。どうせ死ぬのなら楽に死にたい。その瞬間、プスリという針の刺さるかすかな音が耳に届いた。恵理は静かに目を閉じて、迫り来る死の瞬間を待った。五秒、十秒……。いくら待っても呼吸が苦しくなる気配がない。いやそれどころか針が刺さったような痛みすらない。恐る恐る目を開いた恵理が目にしたものは、自らの腕に注射器を突き立てた秀人の姿であった。

「な、何をするの。」

 あっという間もなく注射器の中の黄色い薬液は秀人の静脈の中へと消えて行った。

「これでいいんだ。僕はこの前、DNAチップを使って自分の遺伝子を調べた。親父と同じだった。遺伝子の中にはやはりあれがあった。難治性の多発性進行ガンの素因だ。親父のように早晩僕は発病する。いくら注意しても無駄だ。何度手術しても助からない。決められた遺伝子のプログラムに沿って次々とあらゆる臓器がガン化していく。もはや何者もこのプロセスを止めることは出来ない。美しいまま死ぬためには、今ここでこうするより他に道はないんだ。」

 やがて秀人の体は小刻みに痙攣を始めた。

「何を馬鹿なことを言ってるの。まだ間に合うわ。すぐに誰かを呼びなさい。」

 恵理は必死になって命令する。

「いやもういい。僕は血まみれになってのた打ち回る自分の姿を見るのは嫌だ。親父のようになりたくはない。そんなことなら、いっそここで……」

 そこまで言うと、秀人の体はつんのめるようにどっと前に倒れた。その瞬間、手術室のドアが激しく開く音が聞こえた。

「恵理、大丈夫か。」

 恵理は全く体が動かせなかったが、声を聞いてその主が哲也だとすぐに分かった。

「私は大丈夫、それより結城先生……。」

 その声に促されるように、哲也は秀人の傍へと駆け寄った。哲也は秀人の頚動脈に振れて脈拍を確認すると、さらに片手で目を開いてペンライトをかざす。やがて哲也は静かに立ち上がると、徐に首を横に振った。自らが華々しくメスを振るったオペテーブルのすぐ脇で、秀人の体は次第に冷たい骸となっていった。


「人は分からないものね。あの結城先生がこんな恐ろしいことをするだなんて。」

 恵理はゆっくりとコーヒーカップを傾けながら、呟いた。

「Diseaseというのは確かに『不・安定』という意味もあるかもしれない。でも本当の意味は『不・安心』ということじゃないのかな。心が安らかでなくなること、それが病気なんだ。きっと結城先生はそこを履き違えてしまったんだろう。不安定化した機械に安定を取り戻す、それが医学だと誤解していたんだ。だから直る見込みのない機械は簡単に捨ててしまう。いやそれどころかその存在までも否定してしまった。」

 哲也は感慨深げに話を続ける。

「でも、本当の医者の努めは『不・安心』を安心に変えることなんじゃないのかな。どんな不治の病を背負っている患者でも、心安らかに命を全うさせてあげる、そこに『医』の原点があると思うんだけど。」

「へえー、先輩もたまにはいいこと言うじゃない。」

 恵理はペロリと舌を出して見せた。

「こらー、それはないだろう。俺がいなかったら今ごろ君もここにはいなかったんだぞ。命の恩人はもっと大事にしなきゃ。」

 哲也が人差し指で恵理のこめかみを突つこうとしたその瞬間、院内放送が流れた。

「藤井先生、藤井先生。三○五号まですぐにお願いします。」

 哲也は白衣の裾をヒラヒラとたなびかせながら廊下へと走って行った。恵理はその後姿を嬉しそうにいつまでも見送っていた。


(了)


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