第5話 観察と生命のやり取りは紙一重1

 今日は来ないかもしれないと考えていたが、勇者は時間どおりにやって来た。少し顔を強張らせているように見えるものの、いつもどおり聖剣を構えている。


(ふむ、体調に問題はなさそうだな)


 これなら心配はいらないだろう。むしろ今後体調を悪くするかもしれないことを考えると、早く実行に移したほうがいい。そう判断したわたしは、この日から意図的に体のどこかに傷を負うことにした。

 はじめは腕を中心に、つぎは足回りを何カ所か斬られてみた。わかったのは、足の傷では表情がほとんど変わらないということだった。


(ローブで傷がよく見えないからか?)


 わたしは普段足が隠れるほど裾の長いローブを着ている。斬られてもローブで傷がよく見えないのだろう。それなら足が見える服を着たほうがいいだろうか。そう考えたものの、そういう服を持っていないのですぐに諦めた。

 足が駄目ならやはり腕にしよう。そう考えて三日前からは腕を斬られるようになった。二の腕を斬られたときは動きが止まった。手首を斬られたときは碧眼を見開いた。それに血に濡れた袖口をじっと見つめたりもした。

 その様子から、もしかして傷の場所よりも血の量が関係しているのかもしれないということに気づいた。量が多いほど表情が変わるのなら、腕よりももっといい場所がある。


「腹か胸か、もしくは首のほうがいいか」


 夜、ベッドに入ってからも斬られる場所について考え続けた。


「腹はさすがに痛そうだし、かといって胸も痛いだろう。いや、首のほうが痛いか」


 いくら考えても、より痛くない場所などわかるはずがない。これまで大きな怪我をしたことがなく、聖剣で斬られたこともないのだからわからなくて当然だ。


「だからといって考えている時間が惜しい。いつまで勇者がやって来るかわからないのだから、できればいまのうちにたくさん新しい表情を見ておきたい」


 そのためなら多少の痛みは我慢しよう。それに聖剣での傷は想像していたよりも再生するのが早いから、痛みもその瞬間だけ我慢すれば済む。


「そうだ、我慢するのは斬られた瞬間と再生が始まる瞬間だけだ」


 それなら何とかなりそうだ。


「では、首にするか……いや、腹かな」


 頭から遠い場所のほうが何となく痛みも少ないような気がする。「よし、腹だ」と決めると、途端に眠くなってきた。


「腹の“壁”を調整しなくては、な……」


 そのままぐっすりと眠ったわたしは、翌日わずかに心を弾ませながら勇者を待った。

 きっと腹を斬られれば勇者も驚くに違いない。これまでとは違う表情を見せてくれるはずだ。そう思うだけで口元が緩みそうになる。

 気分が高揚したまま勇者を出迎えると、扉を開けた途端に立ち止まり碧眼がつり上がるのが見えた。


「何をヘラヘラ笑ってんだよッ!」


 あぁ、やはり笑ってしまっていたか。なんとか我慢しようとは思っているのだが、期待しすぎてつい口元が緩みそうになる。


「いや、これは笑っているのではなく興……」

「うるせぇッ! 毎日毎日あちこち斬られてんのにヘラヘラ笑いやがって、何なんだよッ!」


 勇者の言葉に驚いた。そんなに口元が緩んでいたのだろうか。たしかに新しい表情に多少なりと興奮はしていたが、至って真面目に観察していたつもりだ。


「それは違う。新しい表情を観察しようと思っ……」

「また観察かよッ! バカにしてんのか!? こっちは真剣に、みんなのためだからって必死に……ッ!」


 どうしたのだろう。睨みつけるようにわたしを見ながら唇を噛んでいる。予想していなかった表情ではあるが、これはこれで興味深い。それに、かつてないほど潤んでいる瞳にも目を引かれた。


(まるで泣き出しそうに見えるが……もしや、恋の暴走か?)


 ということは、新たな段階に入ったのかもしれない。先々代魔王の書物によると、恋が暴走するとさらに予測不可能な表情や行動を見せるらしい。そういえば“突然押し倒され腰を振り始めた”とも書いてあった。腰を振るというのがどういうことかわからないが、押し倒されるのかもしれない覚悟はしておこう。


(それにしても、この瞳はもっと近くで観察しておきたい輝きだな)


 二度と見られないかもしれないと思ったら、すぐにでも実行したくなった。“壁”の強度を上げながら一歩踏み出すと、ザン! という音とともに左腕に痛みが走る。二の腕を見ると服が切れていた。肌も切れたようだが傷はすでに消えている。


「なに近づいてんだよッ!」


 まるで魔獣の子が吠えているようだと思った。必死に牙を剥く姿はやはり愛らしい。そんな姿を見せられては、ますます近くで観察したくなる。


「また笑いやがって……たったいま腕を斬られたんだぞ!? それなのに笑いながら近づいてくるとか、殺されてぇのかよッ!」

「殺されるのは困る。それでは観察を続けることができなくなってしまうからな」

「お、まえは……ッ。観察観察って、一体何なんだよ!」

「勇者の観察だ。いまはそれが一番の楽しみなんだ」

「楽しみ、って……おまえ……やっぱりバカにしてるだろッ! 魔王のくせに観察とか、おかしいだろッ!」

「おかしくはないし、そもそもわたしは自ら魔王だと名乗ったことはないぞ?」

「ハァ!? 何言ってんだ!」

「人間たちが勝手にそう思っているだけだ。たしかに三十年あまりこの城にいるが、魔王になりたくて城にいるわけじゃない。それにいまのわたしの楽しみは勇者の観察、それだけだ」


 わたしの言葉が理解できないのか、勇者が光り輝く瞳をこれでもかと見開いた。口もわずかに開いている。


(あぁ、そういう表情もいい)


 やはりもっと近くで見ておきたい。そう思ってさらに一歩踏み出せば、ハッとするように勇者が後ずさってしまった。


「観察って……おまえ、バカじゃないのか? おまえは魔王だろうが。魔王ってのは昔から人間を殺す魔族の頂点で、だから人間は勇者を育てて魔王を討伐してきたんだろうが!」

「魔族全員が人間を殺したがっているわけではない。たまたまそういう魔族が魔王になったのだろう。言っておくが、わたしはそういうことにはまったく興味ない」

「……意味、わかんねぇ」

「だから、わたしは勇者の観察がしたいだけだと言っているじゃないか。しかも恋をしている勇者だ。こんな珍しい現象を観察できる機会など二度とないだろう。だから時間が許す限り観察したいと思っている。そもそも恋とは何だ? 恋をしている勇者も初めてだが、恋をしている人間も初めて見る。わからないことが多すぎて興味が尽きない」


 勇者の口がぽかんと開いた。これはどういう表情だろうか。


「……は……? 恋……?」


 ここまで覇気がない勇者は初めだ。見開かれた碧眼といい、ぽかんと開いた口といい、なんと愛らしい姿だろう。思わず「愛らしい」と言いかけて慌てて口をつぐんだ。


(よけいなことを口にして帰られでもしたら、また観察できなくなってしまう)


 いまのうちにもっとじっくり観察しておかなければ。そう思ってさらに二歩近づいたところで「何言ってんだ?」と勇者がつぶやいた。


「恋って、何言ってんだ? ……そうか、あれか、新手の魔法か何かか。そうやって俺を油断させて、懐に入り込んだところで殺すって算段か」

「いや、そうではなくて」

「クソがッ。神官たちが言ってたとおり、魔族ってのは卑怯で卑劣なヤツばっかりだな! 小さい頃から聞かされてきたのと違うから、おまえはいままでの魔王と違うのかもって、ちょっと思ってたのに! クソッ! ふざけんなッ!」


 今度は急に怒り出した。


(人間とはコロコロ変わるものなのだな)


 先々代魔王の書物にもそういったことが書かれていたが、実際目にすると「大丈夫だろうか」と心配になる。今日はこれ以上観察しないほうがいいかもしれない。そう思って一歩後ろに下がったところで勇者がキッと睨みつけてきた。


「つぎこそ、明日こそ……ッ!」


 そう言い残して煙のように消えた。昼にすらなっていない時間に帰るとは、これまでで最短じゃないだろうか。


「もう少し観察したかったが、まぁいい」


 それに「明日こそ」と言ったということは、明日もやって来るのだ。それなら明日じっくり観察すればいい。

 それにしても、今日は新しい表情も珍しい姿もたくさん見ることができた。短時間でこれほど表情を変えるとは、やはり人間というのは興味深い。


「そうだ、明日は忘れずに腹を斬ってもらわねば」


 今日だけでこれほどいろんな表情が見られたのだから、腹を斬られればもっと興味深い姿が見られるに違いない。今度はどんな表情が見られるのかと想像するだけで気分が昂ぶる。


「よし、今夜は早めに寝るか」


 寝る前の読書をやめたものの、気分が高揚してなかなか寝つけなかった。こんな夜は魔王城に来た日以来だなと思いながら目を閉じた。

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