第3話 魔王、観察に勤しむ1

「…………なんだよ、そのふざけた格好は」


 いつもなら扉を開けてすぐに突っ込んでくる勇者が、怪訝そうな顔で立ち止まっている。その表情は初めて見るが悪くない。やはり細部までしっかり見えるほうが観察しがいがあるなと実感する。


「ん? これか? これは眼鏡と言って……」

「ンなことは知ってる! 違ぇよ! メガネなんかかけやがって、俺をバカにしてんのか!?」

「いや、より細かく観察しようと思ってな。何を隠そうわたしは少々近眼で、これまでは細かな部分がはっきり見えていなかったんだ」

「ハァ!? やっぱりバカにしてんじゃねぇか! 何が観察だ、ンな余裕ぶっこいてんじゃねぇよッ!」

「いや、だから余裕ではなく観察を……」

「うるせぇ! ふざけんなッ!」


 怒鳴りながら勇者が聖剣を勢いよく振り上げた。昨日までとは違い最初から聖剣全体が青白く光っている。もしかして勇者の感情に聖剣が反応しているのだろうか。気のせいでなければ鋭さを増した碧い瞳が潤んでいるように見えた。


(先々代魔王の書物に書かれていたとおりだ)


 恋をしている人間は意中の相手を前にすると瞳が潤むことがあるらしいが、目の前の勇者そのものではないか。いままでもこうした瞳をしていたのかと思うと、見逃してしまったことが悔やまれる。


(……ほう、紺碧の布に細かな刺繍が入っているのか)


 鎧の端から見える服の模様をはっきり見たのも初めてだ。そういえば、初めて現れたときには白い服に白銀の鎧、それに真っ白なマントを身につけていた。もしかしてあれが勇者の装いというものだったのだろうか。


(眼鏡をしていれば、しっかり観察できたのにな)


 本当にもったいないことをした。できればもう一度あの恰好を見せてほしいところだが、頼んだところで「うるせぇ!」と拒絶されてしまうのだろう。


「おっと」


 聖剣の鋭い切っ先が鼻先をかすめた。避けたあとには残像のように軌道が光っている。なるほど、昨日までとは聖剣の様子も少し違うようだ。

 これは気をつけたほうがよさそうだ。もうしばらく近くで観察したかったが、少しだけ距離を取る。


(観察のためとはいえ、怪我をするのは困るからな)


 そもそも痛いのは好きではないし、傷を再生するためには魔力を消費することになる。聖剣につけられた傷なら時間もかかるだろう。


(それでは観察に集中できなくなるかもしれない)


 せっかくの貴重な機会を無駄にするわけにはいかない。


「チッ! 舐めやがって、いつもの防御壁はどうした!」

「あれでは囲う範囲が広すぎて細かな観察ができない。だから、今日からは体をぴたりと覆う“壁”にしたのだ。これなら、いままでよりずっと間近で観察することができるからな」


 以前の“壁”よりも防御力は劣るが、わたしの体に沿って“壁”を創っているからギリギリまで勇者に近づくことができる。さらに眼鏡をかければ、これまで気づけなかった細かな部分まで見ることができるだろう。

 そう思いながら改めて勇者を見た。胴や腕、足を覆っている鎧の模様や、その下から少し見える服の色まではっきりわかる。


(ほう、勇者は手が大きいのだな)


 聖剣を握る手は、広げればわたしよりも大きそうだ。それに腕もがっしりしている。鎧に覆われているからはっきりとはわからないが、胸の筋肉も分厚そうだ。ちらりと見える首もしっかりしているから筋肉質なのかもしれない。


(わたしの首など、簡単にへし折ってしまいそうだな)


 肉体を使うことがほとんどないわたしは、全体的に細くてひょろりとしている。背は勇者とあまり変わらないが、体の厚みなど半分くらいしかないだろう。


(ああいう体は、触れても硬いのだろうか)


 筋肉質な魔族に会ったことがないため、どんな感触か想像できない。可能なら触り心地も確かめたいところだが、さすがにそれは難しいか。


「いや、もう少し近づけば可能か……?」


 わたしのつぶやきに勇者が声を荒げた。


「クソがッ! 舐めてんのか!?」

「いや、舐めているのではなく観察を……」

「ふざけんじゃねぇッ!」


 怒鳴り声とともに魔力が膨れ上がるのを感じた。魔力を色として関知できるわたしの目には、燃えさかるような赤い魔力が勇者の体から立ち上っているのが見える。やはり勇者だけあって魔族に劣らない量だ。


(これだけの魔力を持っているというのに、なぜ魔法を使わないのだろうな)


 これまで目にしたのは魔法具を使った帰還魔法だけだ。もしかして勇者は魔法をうまく使えないのだろうか。魔力の質は良いようだし、使い方さえ学べば賢者や魔道士に匹敵するように思う。


「なんてもったいない」

「ハァッ!?」

「それだけの魔力なら、ある程度の魔法を使いこな……」

「うるせぇ! 舐めんな! 魔法が使えなくたって、おまえなんか俺が……ッ!」


 顔をわずかに赤くした勇者が勢いよく突っ込んできた。


(もしかして、魔法が使えないと知られるのは恥ずかしいことなのか?)


 人間にはそうした自尊心が備わっているのだと書物に書かれていたが、どうやら本当だったらしい。“それを時々へし折って組み敷くのがいい”と先々代魔王は書いていたが、その意味はよくわからないままだ。


(なるほど、こういうふうに赤くなるのか)


 恥ずかしいときに人間は肌を赤くするという記述も本当のようだ。やはり観察は細部までできるほうが楽しみが増す。


(何より勇者自身に感謝しなくてはな)


 勇者がわたしに恋をしてくれたおかげで、こんな貴重な観察ができるのだ。できれば満足するまで観察したいところだが、いつまでこの状況が続くかわからない。だからこそ、時間を惜しんで観察しなくては。


(あぁ、肌がますます赤らんできた)


 聖剣を振り回している勇者の顔が赤く色づいていく。日焼けした肌は色の変化に気づきにくいと思っていたが、一度気づけば案外わかるものだ。

 そんな肌に汗で貼りつく金の髪もすばらしい。時々額を拭う仕草も悪くない。それにも増してギラギラとわたしを見つめる碧眼の輝きは、書物にあった“恋をしている瞳”そのものでますます目を引かれる。


(なるほど、これが無我夢中というやつか)


 魔族同士では見ることがないものばかりだ。そもそも魔族が恋をするのか知らないし、魔族を見て無我夢中になったり興奮したりといったこともない。

 戦闘になれば別かもしれないが、魔族は互いの魔力を先に推し量って敵対するかを決めるから戦うことはほとんどなかった。誰彼かまわず戦いを挑むのは人間や魔獣ペットの特性なのだろう。こういった理解が深まるのも勇者を観察しているからに違いない。


「やはり観察するのが一番だな」


 そう口にしながら剣先をすれすれで避ければ、飛び退いた勇者がギロッと睨みつけてきた。


「クソッ、こんなに近づいてるのに一撃も当たらねぇとか、ふざけてるだろッ!」

「いや、真面目にしっかり観察させてもらっている」

「だから、それがふざけてるって言ってんだよッ! 何が観察だ!」

「ふざけてなどいないぞ? ほら、この距離だからこそ勇者のまつ毛が髪と同じ金色だということにも気づけた。鼻筋は通っているし、唇は適度に厚みがあって人間らしい色合いをしている。あぁ、碧眼だということはわかっていたが、わずかに緑色が混じっていたのか。これはまた湖面のようで美しいな」

「~~~~……ッ!」


 なぜか勇者が慌てたように左手で口元を隠した。そうしてさらに後ろへと飛び退き睨みつけてくる。そこまで距離が離れてしまうと、さすがに細かな観察は難しい。できれば先ほどくらいの距離感がいいのだが、また突っ込んできてはくれないだろうか。

 そう思って見つめていると「ふ、ふ、ふざけやがって!」と叫んだ勇者が煙のように消えてしまった。


「まだ、お茶の時間すら来ていないぞ?」


 せっかくギリギリまで観察しようと考えていたのに残念だ。


「それにしても珍しいな」


 いままでこんなに早く帰ることはなかった。それに、帰り際の様子もいつもと違っていたような気がする。


「あれほど目元を真っ赤にするとは……。もしや、体調に問題があったのか?」


 それなら早く帰還してもおかしくはない。しかし、体調が悪いのなら明日はやって来ないかもしれないということだ。


「やはり途中で休憩を挟むべきだろうか」


 しかし、わたしが用意した茶菓子や紅茶には見向きもしない。これは困った。困ったときは書物で調べるに限る。


「よし、今夜はじっくりと先々代の記した書物を読むことにしよう」


 ところどころ理解できない文章もあるが、いまのところ役に立つことのほうが多い。もしかすると人間の体調に関しての詳しい記述があるかもしれない。あぁ、その前に今日の出来事を記しておかなければ。

 いそいそと大広間を後にしたわたしは、昨日と打って変わって夜更けまで書物に目を通すことにした。

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